事故物件の日本史【第4回】凶宅における“怪異”との正しい付き合い方|大塚ひかり

「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。

第四章 凶宅で無事に過ごした学者の極意とは 五条堀川邸三善清行

凶宅に引っ越して、無事だった学者

曰く付きの邸宅に住んだ藤原兼家や、やはり“悪キ所”として名高い邸宅の怪異に挑戦した武士に共通するのは、凶宅に立ち向かう勇気であった。
が、いずれも曰く付きの場所に殺されるような形で死んでしまったと伝えられるのは、勇気だけでは凶宅に勝てないと、昔の人が考えていたことを示している。
ここで参考になるのが、平安前期の漢学者、三善清行<きよつら>のケースなのである。
『今昔物語集』によると、彼は万事に通じた立派な人で、陰陽道まで深く極めていた。ということはつまり、地相による吉凶禍福の卜占や、災を除き福を招く呪術にも長けていたわけだ。折しも五条堀川の近くに荒れ果てた古屋があって、“悪<あし>キ家也”ということで、長いこと無人になっていた。宰相(清行)は家がなかったのでこの家を買い取り、吉日を選んで引っ越そうとしたところ、聞きつけた親族は、
「わざわざ“悪キ家”に引っ越そうとするのは、極めて無益なことだ」
と反対した。けれど清行は聞き入れず、10月20日ころ、吉日を選んで移転した。
ここまでは二条院を別邸とした兼家と似たようなものだ。
が、ここからが違う。
清行は、ふつうの大がかりな引っ越しと違い、酉の時(午後6時)ころ、一人で車に乗って、畳(薄べり)一枚だけを持たせて家に入ったのである。そして寝殿の放出<はなちいで>(母屋に続けて外に建て増した居処)のほうの板敷を掻き払わせて、持参した畳を敷き、下男や牛飼たちには、
「明朝早くに来い」
と言って帰し、一人、南向きに座って寝ていた。
すると、真夜中になろうかというころ、天井の格子の上で、何かがこそこそうごめく音がする。見上げると、格子のマス目ごとに違う顔が見える。清行が平然としていると、顔は皆、消え失せた。
しばらくすると、南の廂の間(寝殿造では、外側から「簀子」「廂の間」「母屋」の順で奥まっていく)の板敷を、身長一尺(30センチ)ほどの者どもが馬に乗って、西から東に、4、50人ばかり渡って行く。清行はそれを見ても騒がずにいた。
またしばらくすると、塗籠(壁で囲んだウォークインクローゼット的な納戸部屋。河原院でも源融の霊はここから出てきた⇒第一章)の戸を三尺ほど引き開けて、女が膝ですり出て来る。座った高さも三尺ほど。尼の着るような檜皮色(黒みがかった蘇芳色。茶色に近い)の服を着て、肩までかかった髪の様子は実に気高く美しい。麝香の香りも素晴らしく、赤い扇で隠した上に見える額は白く可憐。目尻も不気味なほど気高く、「鼻や口などどんなに美しいのだろう」と清行がじっと見つめていると、扇を顔から取りのけた。見れば鼻は真っ赤、口の両脇には四、五寸ほどの作ったような牙が食い違って生えている。
清行が「呆れた奴だ」と見ているうちに、彼女は塗籠に戻って行った。
こうした数々の怪異があっても、清行が騒がず座っていると、有明の月が明るく差す中、木々で暗くなった庭の一角から、翁が文挟みに文を差して掲げ、平伏して階段の下に寄って来る。そして、「何事を申そうとしておる」と問う清行に、言った。
「長年住んでおります所にこうしておいでになられたので、大いに嘆いておりまして、それを訴えるために参ったのです」
これに対して清行は言った。
「そなたの訴えは極めて不当だ。人が家を得るのは、正当な手続きを踏んでしていることだ。それをそなたは、人が住むべき所に、人をおどかして住まわせず、強引に居座っている。極めて非道だ。本物の鬼神というものは道理をわきまえ、曲がったことをせぬからこそ恐ろしいのだ。そなたはきっと天の責めをこうむる。これはほかでもない。老いた狐が住み着いて人をおびやかしているに過ぎぬ。鷹狩りの犬一頭でもいれば、皆、食い殺させてやるのだが。言い分があればはっきり申せ」
すると翁が言うには、人をおどかしたのは一、二人の子どもで、翁の制止もかまわずやったこと、世間には空いた土地もないので移るに移れぬ、が、大学寮の南門の東の脇に空き地がある、そこに移るのを許してくれないか、と。
清行は大学頭<だいがくのかみ>だったことがあるため、そこを所望したのである。彼が許可すると、翁が大声で返答、同時に4、50人ばかりの声がいっせいに答えた。
かくて夜が明けると、清行の家の者どもが迎えに来たので、清行はいったん戻ったあとで家を改築し、ふつうに引っ越しをしたところ、少しも恐ろしいこともなく済んだのだった。
『今昔物語集』の編者は、
「心賢く知恵のある人にとっては、鬼であっても悪いことはできない。思慮の浅い愚かな人が、鬼の被害を受けるのだ、と語り伝えているとか」(巻二十七第三十一)
と話を結ぶ。
知恵者には鬼も遠慮する、愚かな人が鬼の被害をこうむる、というわけだ。
清行は、醍醐天皇に「意見封事十二条」(914)なる政治意見書を提出した、骨太のインテリである。その胆力と知性の前には物の怪も納得した。そんなふうに昔の人は考えたのである。

凶宅浄化に必要なのは、物の怪よりも周囲(家族)の納得

同じように凶宅と知りながら、三善清行は無事に済み、藤原兼家が病魔に取り憑かれて死んでしまったとされる、その違いは何なのか。
と思いを巡らすと、凶宅での怪異を重視しているのは、一見、合理的思考をしている清行のほうであることが分かる。
兼家や、僧都殿の武士(→第三章)が凶宅での怪異を甘く見て、しかもその怪異に反応しているのに対し、清行は、凶宅には怪異があるという前提で行動しながら、怪異に一切反応しなかった。
凶宅の怪異に家族を巻き込まぬよう、召使たちすら家に帰して、正真正銘の単身で凶宅に乗り込み、そこで起きた怪異はことごとくスルーして、それを引き起こした集団の代表(翁)と向き合って理を尽くすことで、彼らを移転させることに成功。その上で、家族共々本格的な引っ越しを敢行した。
これは、兼家の態度とは真逆である。
兼家は、家族が恐れる中、凶宅など何のそのという姿勢で、怪異が起きると枕元にある太刀を引き抜いて脅すなどしながら、構わず住み続けて病気になったとされる。
周囲の言い分に耳を傾けぬ兼家の態度は、何ものにも揺るがぬ信念の強さと勇気を示すと共に、家族の意見さえ聞き入れぬ頑なさをも表している。
思い出してほしい。
怪異の起きる曰く付きの“僧都殿”で、勇気ある武士が怪異に挑戦して帰宅した時も、皆がひどくおびえていたことを(→第三章)。
死んだ兼家や武士は、勇気をもって怪異に立ち向かったものの、家族や周囲は一貫しておびえ続け、兼家が曰く付きの場所に住むことを反対したり怖がったり、武士の行為を「無益」と非難したものだ。
二条院の兼家や、僧都殿の武士は、いわばこうした周囲の思惑に殺された……と言うと極端だが、要は周囲を納得させることができなかったため、彼らの「恐怖」を浴び続け、その結果、自身も事あるごとに絶えずそこが曰く付きの場所であることを意識し続けることになってしまい、その積み重ねの結果、死を招いたのではないか。
「事故物件」という事実そのものが「入居者の精神に影響を及ぼす」という大島てるのことばが頭をよぎる(『事故物件サイト・大島てるの絶対に借りてはいけない物件』)。
三善清行と兼家の最大の違い……それは家族の納得感なのである。
彼らの家族は主人が名高い凶宅に住むと聞いて、反対した。けれど主人は引っ越しを決断した。
しかしここからが違う。
兼家はそのまま普通に引っ越したため、最後まで家族はそこを凶宅として恐れ、病気などの不都合があると家のせいにした。
一方、清行は、単身、凶宅に乗り込み、そこに住む物の怪を説得し、大学寮の脇の空き地に引っ越させたと称することで、家族を安心させた上で、皆で引っ越した。こうなると、何があっても家のせいにできなくなる。
清行が納得させたのは物の怪ではなく、家族だったのである。
あらかじめ清行がその凶宅に一泊し、物の怪と交渉して追い出すことで、あたかも事故物件が浄化されたかのような現象が起きた。
そう考えると、あるいはこれらの話すべてが……怪異の出現や、怪異を起こした者との交渉といった話のすべてが……周囲を説得するための清行の作り話であった可能性もあるのではないか。
そんなふうにすら思えてくる。

大塚ひかり(おおつか・ひかり)

1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。

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