『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』 奥野克巳×国分拓 特別対談 「ボルネオとアマゾン、森の民の生き方に学ぶ」第2回

私たちの当たり前をひっくり返し、新しいものの見方と考え方を示してくれる文化人類学。長年、文化人類学者として、ボルネオの森に生きる狩猟民プナンの人々とともに暮らし、研究してきた奥野克巳さんが、これまでの人類学の知見に基づいて昨年6月に上梓した『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』は、現在3刷となっています。

昨年11月には、ジュンク堂書店池袋本店にて、NHKのディレクターで、ヤノマミをはじめとする南米アマゾンの先住民を長らく取材し番組制作を手がけた国分拓さんをゲストに迎えたトークイベントが行われました。今回は、その模様を「コレカラ」にて特別公開いたします。

第2回は、近年話題となっている「マルチスピーシーズ人類学」についてのお話です。

【第2回】人間が「主語」ではない世界

マルチスピーシーズ人類学とは何か

国分:奥野さんの『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』に書かれている「マルチスピーシーズ」という考え方には、非常に共感します。ただ共感しつつも、人間と人間以外の存在全ての持続を目指すことは正しいと感じながら、どこかそれは無理ではないかとも僕は考えてしまう。やはり人間が地球を滅ぼして終わるに違いないという考えが拭えません。「マルチスピーシーズ」自体、もっと多くの人が知ってもいいと思うのですが、伝え方も難しいですよね。概念的な話ですし、それを具体的にどう見せるのかが、とても難しい。

奥野:おっしゃる通りだと思います。マルチスピーシーズそのものは、やはり学者(人類学者)が考えたものです。人類学というのは、その名が表す通り、これまでは人間のことばかりを研究してきました。そもそも文化人類学という学問は何かというと、私たち人間の当たり前そのものを疑うことから出発してきたわけです。研究の対象は、人類の文化や社会そのものでした。異文化を研究することは、自分たちの当たり前の、その外部にあるものを突きつけて、当たり前そのものを問い、ひっくり返すことを意味しています。しかし、そうであるからこそ、結局は人間中心的にならざるを得ないわけで、その人間中心主義的な考え方自体をひっくり返すことができないのです。そのためには、人間の外側から、何か別のものを持ってくる必要があります。人間中心主義の外部というところで、私自身の位置付けでは、マルチスピーシーズというものがあると考えています。

外部から何か持ってくることで、私たちの思索を高めていく、そのひとつの手がかりとしての「多種(マルチスピーシーズ)」ですね。この考え方は、簡単に言えば、人間は、人間中心の世界を築いているわけだけれども、そもそも人間は、単独で成り立っているのではなく、複数種の中のひとつの種に過ぎないのだという発想が根底にあります。国分さんがおっしゃるように、それは理念であり、概念です。

マルチスピーシーズに関しては、人類学者のような学者が行っているものと、アートやパフォーマンスの分野で行われているもの、そして、近年では社会実装するという動きもあります。国分さんと私は同じような年齢ですが、もっと若い人たちとっては、この地球環境が崩壊し、生物多様性が壊れることで種そのものが消滅してしまい、人間そのものの存在も危ぶまれることに対する危機感は強い。そういう若者たちが中心となって、マルチスピーシーズという考え方を社会実装していこうという向きも出てきています。例えば、マルチスピーシーズ・シティズ(Multispecies Cities)、つまり、人間中心主義的ではない、脱人間中心化したような都市や社会を作ろうという発想が、若い人たちから出てきています。

国分:それは日本国内からですか?

奥野:Multispecies Citiesというタイトルの書籍が編まれたのですが、英語圏の本ですね。欧米圏では、そうしたひとつの流れが、割と若い人が中心となって積極的に推し進められています。

 

アマゾンの教え「すべての生命は等価である」

国分:僕は、申し訳ないのですが、実は別にジャングルが好きなわけでもなければ、人類学が好きなわけでもない。奥野さんのフィールドワークの経験からすればずっと短く、たまたまアマゾンの密林の奥でたかだか150日くらい過ごして、最終的に考えたのは、「すべての生命は等価である」ということでした。人間が上位の存在であるというのは、もともと僕自身の中にもあまりない発想、考え方だったのですが、それでも人間である以上、多少はあるわけですよね。しかし、アマゾンで過ごしていて、人間が上位であるどころか、すべての生命は等価だということを感覚的に思ったのです。

例えば、アマゾンの密林を歩いていて、蛇に遭遇し足を噛まれたりしたら、毒で死んでしまうわけですよね。逆に、先に蛇を見つけたとしたら、ヤノマミの人たちは率先して蛇を殺すわけです。そのとき、殺すだけでなく、殺されることも肯定しているような感じがしたわけです。肯定ということは、つまり対等なわけですよね。蛇の防護柵を作って隔離したり、あるいは蛇そのものを根絶してしまおうしたり、というような思想ではないわけです。生命が等価であること。それを一番感じました。

奥野:そうですね。私もボルネオ島の森の中へと入っていくと、最初にヒルに襲われます。つまり、人間という主体が狩猟のために森に入っていくわけですが、逆にその狩猟者を狙っているものがいるということに他なりません。アマゾンで言えば、ジャガーのような捕食獣がいるわけですよね。人間がいかに森に入っていき、主体的に何か行動しようと思っても、Hunter(狩るもの)は、Hunted(狩られるもの)でもあるということですね。ボルネオはアマゾンのジャガーほど恐ろしい捕食獣はいませんが、ウィルスに感染するということもあるわけで、必ずしも私たち人間は主体ではないということに気づかされます。これが都市にいるとそうではないわけですよね。

国分:そうなんですよね。

奥野:都市では人間中心的になるわけですが、森の中へ入っていくと、多種というものが感じられ、体験される。森の中で暮らしている人々は、その経験から世界を見るとともに、世界そのものが成り立っている。

国分:僕は、アマゾンに行って一番感動したのは、灌木や葉についているダニです。彼らは哺乳動物が通ると反応して、その身体にくっついてくるわけです。しかし、哺乳動物が来なければ、灌木や葉なんかにくっついたまま、吸血ができないので死んでしまいます。これらのダニは哺乳動物にしか反応しないので、端的に言えば、仮に僕がそこを通らなければ、そのダニたちは死ぬのです。僕がダニに食われれば、猛烈に痒くなりますし、最後は尻の穴にまで侵入してきますから、当然、不愉快で嫌なのですが、このようにして生命を支え合っているようなところもある。たとえ、僕の身体に寄生したとしても、ひと月くらいで死んでしまう。そういうところに感動したりもするわけです。

奥野:その話で思い出したのは、国分さんが「ヤノマミ」を撮影されたとき、あるいは書籍の『ヤノマミ』を執筆されたときに、森を主語にして撮ったというようなことをおっしゃっていましたね。それはつまり、人間が主語というのでは必ずしもない世界ということですね。森が主語として立ち現れてくるような世界のなかで、私たちは生きている。都市にいると、そのことを私たちはかなり忘れてしまっている。

国分:ええ。すべて殺してしまいますからね。

(構成◉大野真)

本連載は毎週火曜日更新の全五回となります。

プロフィール

奥野克巳(おくの・かつみ)
立教大学異文化コミュニケーション学部教授。1962年生まれ。20歳でメキシコ・シエラマドレ山脈先住民テペワノの村に滞在し、バングラデシュで上座部仏教の僧となり、トルコのクルディスタンを旅し、インドネシアを一年間経巡った後に文化人類学を専攻。1994~95年に東南アジア・ボルネオ島焼畑民カリスのシャーマニズムと呪術の調査研究、2006年以降、同島の狩猟民プナンとともに学んでいる。単著に『一億年の森の思考法』『絡まり合う生命』『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』、共著・共編著に『今日のアニミズム』『モア・ザン・ヒューマン』『マンガ人類学講義』『たぐい』Vol.1~4.など。共訳書にコーン著『森は考える』ウィラースレフ著『ソウル・ハンターズ』インゴルド著『人類学とは何か』など。

国分拓(こくぶん・ひろむ)
1965年宮城県古川市(現大崎市)生まれ。1988年早稲田大学法学部卒、NHK入局。NHKディレクター。手がけた番組に『ヤノマミ』(ニューヨークフィルムフェスティバル銀賞ほか)『ファベーラの十字架 2010夏』『マジカルミステリー“工場”ツアー』『あの日から1年 南相馬 原発最前線の街に生きる』『ガリンペイロ 黄金を求める男たち』(ギャラクシー賞月間賞)『最後のイゾラド 森の果て 未知の人々』(モンテカルロテレビ祭入賞ほか)『ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉』『北の万葉集 2020』ほか。著書『ヤノマミ』で2010年石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、2011年大宅壮一ノンフクション賞受賞。他の著作に『ノモレ』『ガリンペイロ』がある。

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