事故物件の日本史【第11回】凶宅のあとには何ができる?|大塚ひかり

「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。

第十一章 事故物件だらけの神社仏閣

不幸な死に方をした人を祀って神社に

前章で、富岡八幡宮の祭礼にまつわる永代橋の崩落事故について触れたが、富岡八幡宮と言えば、あの事件を思い出す人もいるのではないか。
2017年12月、前宮司が姉である宮司を日本刀で殺害したあげく、共犯の妻をも境内で殺したあと、自殺したという衝撃的な事件である。
年末年始のかき入れ時を直前に控えた大惨事……こんな事件のあった神社にお参りしたところで御利益は期待できないのでは? ということだろう、参拝客は激減した。しかし私は、それ以前から八幡宮の向かいの深川不動の護摩祈祷の太鼓の音色にはまっていたこともあって、それを視聴しがてら、この年の暮れも構わず参拝した。
それというのも、神社というのはもともと不運な目にあった貴人、不幸な死に方をした貴人が祀られる場であることが少なくない。むしろそうした場所であるからこそ恨みを抱く人からの被害や祟りを防ぎ、安寧な暮らしに導いてくれるのだ……そんな思いがあったことも大きい。
こうした神社の代表例が出雲大社ではないか。
『古事記』によれば、出雲大社が造られたのは、オホクニヌシノ神を祀るためであった。
オホクニヌシは、苦労して造った国を、天降りした天孫の要求で譲らねばならぬところまで追いつめられた。そこで、国と引き換えに、天孫の宮殿と同じ規模の住まいを造ってくれるよう頼み、出雲に隠れることになる。その住まいが出雲大社である。
出雲大社の規模を表すものとして“雲太、和二、京三”(平安時代『口遊』)という平安時代のことばがあることは名高い。建物の大きさを言い、一位が出雲大社、二位が大和の東大寺大仏殿、三位が京都大極殿の順。昭和六十年代に出雲大社で購入した『出雲大社由緒略記』(出雲大社社務所)によると、
「社伝によれば、最古は社殿の高さ三十二丈(約九十七メートル)あり、その後十六丈(四十八メートル)となったといわれる。十六丈時代の宮制は金輪造営<かなわぞうえい>とも云い、数本の大木を合せ鉄の輪で結び固めて、一本の柱を仕立てたと伝えられる。その後、斉明天皇の御世から今日のように高さ八丈」になったという。
この言い伝えは長く否定されてきたが、2000年、地下一・五メートルの地点に太い柱を三本抱き合わせることで直径三メートルにした巨大な柱が発掘されたことで、高さ十六丈という言い伝えも信憑性を帯び、話題になったものだ。
天孫に敗れたとはいえ、それだけオホクニヌシの勢力は強大だったのだ。

このように不運な権勢家の魂を鎮めるため、また怨霊になるのを防ぐため、神として社に祀る、神社を造るというのは古代以降も広く行われた方法で、有名なのが北野天満宮だ。
北野天満宮は、藤原氏の栄える平安時代、右大臣にまで出世しながら讒言(ざんげん)にあい、左遷先の大宰府で死んだ菅原道真の霊を鎮めるために造られた。道真に敵対した藤原時平やその一族が短命に終わり、道真の怨霊のしわざとされたためである。
また、神奈川県藤沢市にある白旗神社は、源義経の首洗いの井戸があることで有名で、兄・頼朝のために働きながら、のちに対立し、非業の死を遂げた義経の霊が祀られている。
群馬県にある木曽三社神社は、その義経に滅ぼされた義仲を祀った神社で、私も何度かお参りしたが、参道が下り坂になっていて、谷底のような所に社殿がある「下り宮」と呼ばれる珍しい形の神社である。
御霊神社、若宮神社と呼ばれる神社などは、はっきりと霊を慰めるために造られたものだ。神社のもとを辿っていくと、その多くは、不幸な死に方をした人を神として祀った場ではないのかとすら思えてくる。
先のオホクニヌシノ神にしても、「神」と呼ばれてはいるが、出雲に実在した首長的存在を象徴していよう。出雲地方からは弥生時代の銅矛と銅鐸が大量に出土したり(荒神谷遺跡)、六世紀中ごろから七世紀前半にかけて大型の古墳が築かれたりしたことなどから(瀧音能之『出雲大社の謎』)、一大権力圏があったとも言われている。
そこで君臨していた首長やその眷属(けんぞく)を、ヤマト王権が屈服させた過程が描かれているのが出雲神話で、彼らの鎮魂のために建てられたのが出雲大社ではないか。
ちなみに諏訪の御柱で名高い諏訪大社は、このオホクニヌシの子で、諏訪に追いやられたタケミナカタノ神が主祭神として祀られている。

凶宅を寺に

不幸な死に方をした権力者は日本ではしばしば神として祀られるものだが、怨霊になって祟るというのは、生前の地位や権力が大きかった人に限られる。
そこまでのスケールではない場合、不幸があった場所や、不幸な死に方をした人の家を寺にするというのがよく行われる方法だ。
第三章で紹介した藤原兼家の邸宅・二条院も、もとが凶宅であった上、兼家の病気もそこで悪化したため、出家して、正暦元(990)年5月10日、寺(法興院)にしている(兼家の死は7月2日)。
源融の邸宅・河原院も、融死後、宇多法皇が伝領すると、融の霊が現れるなどの怪異現象があったため、孫の代では寺となり、曾孫の安法法師はそこに住んで、歌人たちと歌を詠みかわしたことが、彼の家集や友人の恵慶法師の家集からうかがえる。
平安中期、讒言により失脚した源高明(大河ドラマ「光る君へ」でおなじみの藤原道長の妻・源明子は高明の娘である)の屋敷も、夜になると寝殿の母屋の柱の節穴から小さい子どもの手が出てきて手招きするといった怪異があり、のちに世尊寺という寺になったという(『今昔物語集』巻第二十七第三)。
フィクションでは、『源氏物語』の宇治十帖でも、亡き八の宮や長女・大君<おおいぎみ>が住んでいた宇治の住居跡を薫が“御堂<みだう>”にしている(「東屋」巻)。
この御堂は別の箇所では“寺”(「浮舟」巻)とあり、山里風でいながら豪華さもある寺という設定だが、そこに薫は浮舟を囲って通っていたのである。
第一章でも触れたように、『源氏物語』の主な舞台は当時有名な曰く付きの凶宅や場所であった。その場所自体が広大な墓所ともいえる宇治(→第一章)で展開する宇治十帖では、物語中でも不幸のあった場所を寺にして、そこを舞台にするという、凶宅の二重構造になっているのだ。
薫によって寺に囲われ、薫の親友の匂宮にも犯されて、どちらの男を取るとも決めかねた浮舟は、悩み抜いて自殺をはかる。瀕死の状態を救った横川の僧都が祈禱したところ、浮舟に憑いていた物の怪が現れ、
「自分は昔、修行を積んだ法師だったが、ちょっとした恨みをこの世に残し、あちこちさまようことになった。そのうち綺麗な女がたくさん住んでいる所に住みついて、一人(大君)は取り殺し、この人(浮舟)は自ら世を恨み、死にたいと夜も昼も願っていたので、それに勢いを得て、真っ暗な夜、一人でいたところを取ったのだ」(「手習」巻)
と言っており、八の宮や大君のいた宇治の屋敷に住みついていたことを告白している。
つまりは、宇治の屋敷も物の怪の住む凶宅だったというわけだ。
曰く付きの場所を舞台にした物語で、さらに曰く付きの屋敷が出てくるという、入れ子構造になっていることが、この法師の物の怪のことばからも分かるのである。

凶宅の末路1……寺の関連施設

このように不幸があった場所を寺にするというのは昔はよく使われた手だったのだが、事故物件が寺関連の施設になるというケースは現代にもある。
大島てるによる文春オンライン「事故物件サイト運営人が語る“告知義務の回避法” #1」(2019.12.28)の記事によれば、事故物件のその後の「有効活用」の例としてレンタル収納スペースやコインパーキングにするといったほか、「寺の施設」というのがあったそうだ。事故物件となったラブホテルごと寺が買い取って施設としたというのである。
大島氏は言う。
「多くの人が事故物件を嫌がるのは、そこに“死”のイメージがあるからです。ならばいっそ「死者のための施設」にしてしまえば、そうした嫌悪感も解決できる、というわけです」
まさに逆転の発想。死者の出たところは、死に関連する寺にすれば、供養もできるし、場所も有効活用できるしで、一石二鳥ではないか。
同時に、長い歴史を顧みれば、決してとっぴな方法ではないことが分かるのだ。

凶宅の末路2……公園

現代の事故物件の行く末としては「公園」になるというケースもある。
実は私の近しい人……夫がそれを経験している。
今から四十年以上前のこと。彼は独身時代、Kという町のF荘という二階建てのアパートの一階に住んでいた。町はお店も多く、アパートは駅から近く、隣は大家さんの家で、そこそこ気に入っていたらしいのだが、引っ越して半年と経たぬころから異臭がするようになる。そしてある日、押し入れの天井にウジが湧いているのに気づいた。
ただ事ではないと悟った彼は、隣の大家さんと共に二階の住人の扉を叩いた。うんともすんとも言わないので、一緒に鍵を開けて足を踏み入れると、そこに一部骨の見えた遺体があるではないか。部屋はうじとハエがいっぱい。臭気も凄まじく、夫は引っ越し時を除いて二度とアパートに戻ることはなかった、という。
あとで夫が大家さんに聞いたところ、二階の住人は自殺していたらしく、身寄りもないので無縁仏になったそうだ。
その話を聞いた私は、そこが今どうなっているか、数年前(コロナ禍になる前である)、夫と共に行ってみた。
ところが夫の記憶しているアパートも大家さんの家もないのである。
新たに家やマンションが建った形跡もない。
そこで古い住宅地図を入手して調べ、グーグルマップと重ねあわせたところ、大家さんの家とアパートのあった場所は公園になっていた。
正確に言うと、もとから隣接していた公園の一部として拡張されていたのである。
こういう事故物件の末路もあるんだな、と感慨深かった。
そういえば、知り合いの散歩コースに、火事でおばあさんが亡くなった家があったのだが、その後、誰も買い手がないのか「更地」になったままだったのが、いつの間にか公園の一部になっていた(これも私は、実際、その場に行ってこの目で確認している)。
不思議なことに、そこももともと公園に隣接していたのである。
たった二例ではあるが、偶然にも事故物件になった家が公園の隣だったというのも興味深い話で、公園や駐車場に隣接している家は、不特定多数の人が近くを出入りするので、空き巣・強盗・放火などの被害に遭う危険度が高まると聞いたことがある。公園や駐車場が、悪事の「下見」に使われるからだ(そういえば2000年12月30日に一家四人が殺された「世田谷一家殺人事件」の舞台となった自宅も公園に隣接していた)。自殺も、「急勾配の地区ほど自殺率が高」(2013年1月26日付け「朝日新聞」朝刊「自殺者が増える意外な要因」)いといい、夫の住んでいたF荘もまさに珍しいほどの急勾配のある土地の途中にあって納得であった。

凶宅の末路3……更地

先の物件は都会であるだけに、都なり区なりに接収されたものの、そうでない場合、あるいは相続関係が複雑な場合、空き地のまま何年も何十年もそのままということも珍しくなかろう。
今は更地にすると税制上、不利になるので、古屋をそのまま残しておいたり、申し訳程度に農産物を植えて農地にしたりということもあるが、昔は「空き地」とか「更地」というのが多かった。
ということで、次は前近代の更地と事故物件の関係について触れたいと思う。

大塚ひかり(おおつか・ひかり)

1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。4月1日に『悪意の日本史』(祥伝社新書)が刊行予定。

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