普段着としての名著【第4回】ハイカルチャーインテリとディスタンクシオン|室越龍之介

人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!

【第4回】ハイカルチャーインテリとディスタンクシオン

メガシティ・TOKYO

生存の必要から僕が東京に越してきて半年が経とうとしている。

人口が47万人しかいない大分県大分市から、4434万人の首都圏に移動してきたわけだ。

実に約100倍の人間が往来を闊歩し、家々がしめている。

「東京には慣れましたか?」と親切に聞いてくれる人もあるのだが、慣れるわけがない。

幸い、旧知の友人、新知の知人が何くれとなく様々なものに誘ってくれる。

誘われてみると確かに九州の片田舎では思いもよらないような人々や場所がある。

ある夜、僕はあてどない気持ちであったので、友人の文筆家に連絡を取ってみた。すると、「今しがた飲み会が終わったのだが、飲み足りないので新宿のどこそこまで来たらどうか? 一緒に飲みながら話しましょう」と返事があった。

時間は22時を回っている。

面倒である。

僕は大の面倒臭がりだ。

22時を回って外に出かけるなんてことはまずない。

だけれども、せっかくの東京である。このように誘われることもそうあるまいと思って、着替えて外に出た。

指定された住所に着くとそこはバーだった。

友人がいうには「文壇バー」であるという。

文壇バーが何かはよくわからないが、いずれにせよ大分には文壇バーはない。

中に入ってみると、8人か9人しか入れない店内にはすでに5人のお客がいる。

お客の顔ぶれを見て、友人は「あれ?」と声を上げた。皆、顔見知りなのだという。

この5人の陣容は編集が3、研究者が1、文筆家が1で、いずれの出版社にしても研究機関にしても、筆名にしても知らぬ者はない、といったところである。

なるほど、出版関係者が集まるから文壇バーというわけかと一人納得した。

そのうちに、彼らは親しげに、ここにはいない作家の話だの、とある大学のゼミの話だの、出版の傾向の話だのというテーマで盛り上がり始めた。

誰それという作家の新作がどうであるとか、新しく出たかれこれという本が売れているとか。

お互いの新作に向けたアイデアの話をしたり、共通の知り合いがする個展の話をしたり、僕には全くもってよくわからない世界の話である。

大分に文壇バーがないのも当たり前だ。大分には出版社もなければ、編集者もいない。

僕は編集者という人種を東京に来てから初めて見た。

そんなものは地方にはほとんどいない。

日本全体を見通しても稀だろう。

にも関わらず、4434万の人口があれば、出版関係者をメインターゲットにしたバーが成り立つわけだ。

客も業界が近いので、共通の話題を通し、飲み仲間として仲良くなりうる。

なんとなく会話に乗り損った僕はその隔絶を肌で感じた。

名刺の一枚も持たず、肩書きも著作も業績もない僕は「これが東京か……!」とその格差に舌を巻いたのである。

美術館に行くという仕草

東京の文壇クラスタの仲間になれる気がしない。

上手く振る舞えない。せっかく友人が誘ってくれたのに、そのチャンスをみすみす棒に振って、すごすごと帰ってきた。

「東京は恐ろしい街だ」という感慨だけが深まっていく。

引きこもっていたところに、また別の友人が美術館に誘ってくれた。

僕も美術館に行くのは嫌いではなく、大分にいた時分は時々通っていた。

日本の文化行政には素晴らしいものがあり、ちゃんと地方にも絵画が回ってくる。

だけれども、東京は美術館の密度もバラエティもやはり段違いだ。

日本画を専門として美術館もあれば、仏教美術を専門とした美術館もある。

現代美術を専門とした美術館もあれば、ポスターを専門とした美術館もある。

すごい品揃えだ。

次々に企画展が来るので毎週通っても見飽きることがない。

無限のアートシティだ。

面白いことに美術館に誘ってくる友人というのは、一人ではない。

何人かの友人が代わり代わりに誘ってくれる。僕はそれほど美術のことを知っているわけではないので、一緒に展示を見ては相手の話を聞く。

皆、僕の知らないことをよく知っている。特に「いつ頃どの美術館にどんな展示が来る」ということをよく把握している。そして、「前回来たときはこんな感じで、この絵が来たが、今回来るあの絵は来なかったので見てみたい」というように微に入った情報を持っている。

一体どこでそんなことを嗅ぎつけているのか。

それぞれの人が同じようなことをいい、同じようなギャラリーをお勧めしたり、展示をお勧めしたりしてくるということは共通の情報を持ったコミュニティがあるということを示唆している。お互いに顔見知りでない、それぞれ独立した友人関係から同じ情報が流れてくるということはそのコミュニティは巨大で都市の中で一つの層を成しているに相違ないと見える。

文壇バーで特定の連載や作家をしっかりと押さえていないと会話に入れないのと同じだ。

美術クラスタと話すには、特定の前提知識や作法が必要とされているわけだ。

暖かく僕を東京に迎え入れようとしてくれる友人たち。

彼らは文学を知り、美術を知っている。

都市を知り、街を知っている人たち。

それは、いわば、TOKYOハイカルチャーインテリだ。

書籍や美術を知り、それをこともなげに無造作に会話に織り交ぜる人々。

僕はどうやってこの人たちに混ざっていけば良いのだろうか。

田舎の秀才と都市ハイカルチャーインテリ

僕と同じ疎外感を感じた人がいる。

ピエール・ブルデューだ。

ピエール・ブルデューは『ディスタンクシオン』という名著を執筆したフランスの社会学者で、「文化資本」という概念を生み出したことで知られる。

彼自身、フランスの農村からパリに出てきたという上京組だ。ブルデューはエコール・ノルマル・シュペリユールという世界有数の高等教育研究機関に進学したスーパー・エリートだが、学友はパリ出身の上流階級が主流派で、ブルデューのような地方出身者はマイノリティだったらしい。

どうやら、そんな経験を通してブルデューはフランス社会に存在する階級の問題を明らかにしたいと考えたようだ。

僕たちの社会に引き付けて考えてみよう。

21世紀の日本社会に生きる僕たちは、あまり「社会階級」について考えないかもしれない。1970年ごろから、日本では「一億総中流」と言葉がまことしやかに使われるようになり、なんとなく社会階級が存在しない社会であるかのような印象を多くの人々が持つようになった。

多少のお金持ちや貧困家庭があっても、多くの普通の家庭というのは、ちゃんと生活していけるだけの稼ぎがあり、あの家庭もこの家庭もあまり違いはないと感じてきたのではないだろうか。

もしかしたら、逆に「日本は階級社会だ」という印象を持っている方もいらっしゃるかもしれない。失われた30年と呼ばれる長期の経済低迷の結果、経済的な富裕層と貧困層の格差は拡大しているし、経済エリートや政治エリートが超法規的な待遇を持っているのではないか、という疑念から「上級国民」という言葉も人口に膾炙(かいしゃ)した。なんとなく、上級国民が下級国民を支配しているというようなイメージもあるかもしれない。

日本に社会階級があると考えたとしても、ないと考えたとしても、僕たちが一般的に想像するのは「経済的な」階級だ。

お金持ちがいて、普通の人がいて、貧しい人がいる。

そんな階級というのは、なんとなく想像できる。

でも、僕たちが日常で感じる、「僕たち」と「彼ら」の違いはお金の問題だけでは解決しないものではないだろうか。

もっと文化的なものの違いを通じて、その違いを感じてはいないか。

例えば、音楽の趣味の違い。クラシックが好きか、ポップが好きか、ロックが好きかとか。読書の趣味の違い。ロシア文学が好きか、ミステリーが好きか、大衆小説が好きかといったことでも、なんとなく「お高い」趣味と「それほどでもない」趣味があるということを感じるのではないだろうか。

ブルデューは、社会調査を通じて、経済的な階級だけではなく、文化を通じた階級が存在することを提示してみせた。

「文化資本」と闘争

文化を通じた階級が存在するというのは、どういうことだろうか。

僕たちは趣味を持つ。趣味というのは、ホビーのことでもあるのだが、ここで大事なのは、テイストの意味もあるということだ。つまり、「趣味がいい」とか「趣味が悪い」とかいうときのニュアンスがある。

僕たちは何かを「いいな」と思ったり、「悪いな」と思ったりして評価を下す。その評価の中で、テニスをやるようになったり、ピアノをやるようになったりする。

僕たちが趣味を始めるとき、日常的な感覚では、何か運命的な出会いのように感じる。稲妻に打たれたように、その趣味を好きになったと思う。だけれども、ブルデューは趣味の選択はそんな風に偶然に支配されているわけではないという。

僕たちが家庭や教育を通して知らず知らずに習得している価値判断があり、その価値判断の結果として趣味を選ばされているとブルデューは説明する。

そして、ある特定の分野、例えば音楽を好きになると、その中で「クラシックはいい」とか「ポップはダメ」というようにさらに学習した価値判断に基づいて、その内部を分類していくようになる。

こう説明すると、僕たちが主体的に文化を分類しているようだが、事態はそう簡単ではない。僕たちが趣味を選好していくとき、逆に社会的に分類されている文化の方が、実は僕たちを「こういう趣味の人間である」と分類してもいる。僕たちが「クラシックはいい」と思うとき、同時に「クラシックを好む自分はいい」と考える風潮も生み出している。

一度そのような風潮が出来上がってしまえば、次は「クラシックを好む人たちはいい」という判断を下すようになる。

そうすると、ある意味で「お高い」趣味の集団と「それほどでもない」趣味の集団に段々と分かれていく。

ブルデューの慧眼は、このメカニズムが家庭環境や教育に影響されていると喝破した点だ。そういった「どんな文化を身につけているか」ということは、お金や株や不動産といった経済的な資本と同じように、世代から世代に受け継がれるし、また利得をもたらしてくれる。

だからこそ、ブルデューは「どんな文化を身につけているか」ということを「文化資本」と呼んだのだ。

文化資本と呼ばれるものには、文化財、教養、学歴、文化実践、文化慣習、美的性向なんかがある。

例えば、茶道について考えてみてほしい。

あなたの感覚において、茶道というのはなんとなく「お高い」趣味ではないだろうか。

茶道を趣味にしている人は、着物や茶器といった文化財を持っている。それに、お茶にまつわる色々なことを知っているという点で教養もある。お茶の稽古やお手前というのは、文化実践だ。そして、そのお茶席が良いものであったか、悪いものであったかということを判断するための美的センスも持つ。

つまり、茶道をやるというのは、そういう文化資本を持っているとみなしうる。

ブルデューの発見のうち、もう一つ興味深いことがある。

この文化資本を巡って、僕たちは闘争をしているということだ。

僕たちが「茶道はいい」と考えるとき、実はそうでないものを「よくない」と判断している。

茶室で繰り広げられるお手前と、自販機でコーラを買ってラッパ飲みすることは、「水分を摂取する」という同じ営みだけれども、なんとなく、「お手前が上、自販機コーラが下」という感覚を持つ。

僕たちが趣味を持つとき、必ず何かがよくて、何かが悪いという価値判断を持つ。自分の趣味とそれ以外の趣味を違うものとしている。これをブルデューは差異化・卓越化と呼ぶ。書名の「ディスタンクシオン」とはフランス語で差異化・卓越化を意味する。

恐ろしいことだ。

社会によって、僕たちは趣味を持たされ、趣味を持たされているが故に、他の趣味を持っている人と闘争を繰り広げなければならない。この闘争に負け、より上位の階級に参入できないということは、自分の価値基準が揺るがされるということであり、自分の生きる方針にダメージを与えられるということになる。

TOKYOハイカルチャーインテリの宴はまさに僕の生存を賭けた闘争の場だったのだ。

左官屋を知る、花屋を知る

この闘争の果てしなさもまたある。

文学や美術に通じている人たちの傾向として、美味しいレストランも知っている。「美味しいレストラン」もこの階級の人々に必要な文化資本なのだろう。

僕は美味しいものが好きな上にたくさん食べるので、食事にも誘ってもらうこともある。

このレストランというやつもまたややこしい。様々な情報がある。

「代官山にあるレストランで修行したシェフが始めたパン屋」だとか、「パリのなんとかいうパティスリーで修行したパティシエが作るケーキがデザートで出てくるレストラン」だとかそういった調子だ。

文学や美術に前提知識や作法があるように、食事にもそれらが求められる。

そして、それはシェフの経歴やレストランの暖簾分けの歴史だけではない!

さらに、微細な情報に至る。

ある時、ある雑貨屋に寄った後、喫茶店に入った。

その日、僕をアテンドしてくれていた友人は、何かに気がついたように「あれ?」というと店員に店の内装を請け負った業者について尋ね始めた。店員がインテリアデザインの事務所の名前を告げると友人は目を輝かせた。

「やっぱり! 好きな左官屋さんがその事務所とよく仕事しているの。ここも彼の仕事だと思う!」

左官屋!

左官屋まで知っているのか!

僕にとって、あまりにも衝撃的な出来事だった。

一体どこの世界におしゃれ雑貨屋の壁を塗った職人の名前まで知っているやつがいるというのか。

あまりの衝撃に後日その話を別のTOKYOハイカルチャーインテリ友人にした。

すると彼女はこともなげに、「そうなのよ。そういうの知っている人たちっているの。お店に生けられているお花を見て、どこの花屋だとか誰が生けたとかそういうのわかる人たちが」といった。

さも当たり前かのようにいうので、きっとその人も花屋を知っているに違いないと直感した。

思い起こせば、ここまでに出てきた友人たちはみな茶道を嗜んでいる。

さらに驚いたのは、これらの友人たちはそれぞれバラバラの文脈で知り合った人たちであるにも関わらず、みんな最近開催されたピナ・バウシュの『春の祭典』というコンテンポラリーダンスの公演を観覧していたということだ。

誰なんだ、ピナ・バウシュ……。

なんなんだコンテンポラリー・ダンス……。

なんで揃いも揃って観覧しているんだ……。

僕の貧弱な文化資本力では、この街を生き残れそうにない。

階級闘争として文化を浪費しても虚しい

僕たちが勘違いをしてはいけないことがある。

ハイカルチャーを享受している人たちは、何も意識的に階級闘争をしているわけではない、ということだ。

ローカルチャーに生きる僕たちを差別してやろうと思って、絵画を見たり、本を読んだりしているわけではない。

社会を駆動するメカニズムがそのように機能しているということにすぎない。

僕たちは日々、微細な選り好みをしている。この作家は好きだとか、この音楽家は気に入らない、といった風に。それがマクロになると、似たような趣味の人たちの塊となり、そこに優劣がつき、階級を巡って闘争をしているように見えるということだ。

何もいじわるからそうしているわけではない。

だから、ハイカルチャー愛好家をくさしたり、攻撃しても仕方がない。

そして、また、僕たちもまた、意識的に階級闘争を仕掛けようとして、コンテンポラリーダンスを背伸びして見に行ったり、東京中の花屋という花屋を見て回ったりしても仕方がない。文化というものは一朝一夕に身につくものではなく、それを鑑賞したり、実践したりする仲間があってこそ、段々と文化資本として形成されていくものだからだ。

それに、「階級上昇してやるぞ!」と意気込んで本など読んでも面白くもないだろう。

好きだという気持ちが培われなければ、あなたの美的センスも育たないだろうから。

幸い、日本には全国に図書館や美術館や劇場がある。

好きになればいつでも観に行けるわけだ。

「文化資本だ」なんだ、といってシステムをハックして偉くなろうとしても虚しいだけだ。

僕たちは物事を好きにやるしかない。

僕も好きになれれば、文壇バーに通い左官屋を知るようになるだろう。

編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP

室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)

1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。

X

連載一覧

-普段着としての名著, 連載