人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!
【第3回】本当は正しいマッチングアプリの使い方と『価値があるとはどのようなことか?』
商品になる僕たち
「価値を出す」という言葉がある。
僕がベンチャー界隈に足を踏み入れてからよく聞くようになった言葉だ。
それ以前にはあまり聞いたことがなかったし、僕にとってはこの言葉遣いは不思議であった。
なぜなら、価値というものは「ある」ものないしは「ない」ものであって、「出す」ものではないからだ。
「価値を出す」というのは一体全体どういうことだろうか。
僕たちを取り巻く社会には、ものの交換が行われる市場がある。
そこには、需要と供給があって、ある程度の価格が相場として決まっている。
だけれども、相場で買った商品が相場通りの働きをしたところで感動はない。
にもかかわらず、本質的に人間を購買行動に駆り立てるのは感動だ。
そうすると、僕たちはなんらかの方法を通して、消費者を感動させなければならないことになる。
相手を感動させる方法は様々あると思うが、どうやら、相手の認知をハックして感動させるということを「価値を出す」と呼んでいるようだ。うま味調味料が僕たちの脳に強制的に「うま味」を感じさせるように、相手の心に入り込んで揺さぶることで、相場を超えた「価値」を感じさせるわけだ。
労働の他にこの摩訶不思議な「価値を出す」という行為が幅を利かせている領域がある。
恋愛である。
「婚活」という言葉が流行り始めたゼロ年代辺りから恋愛を経済原理のアナロジーで語ることが増えてきた。すばり「恋愛市場」なんていう言葉まであるぐらいだ。
この新しい時代の新しい恋愛スタイルについて、鋭く分析した漫画がある。
リーヴ・ストロームクヴィストというスウェーデンの漫画家が描いた『21世紀の恋愛』(花伝社)だ。
ストロームクヴィストはスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクを引用しながら言う。
「私たちは(中略)直観的に判断する代わりに、消費者として合理的に考えてしまう」
つまりこうだ。
恋とはもともと「落ちる」ものだった。
そこに理由はない。
恋愛は神秘的でロマンティックな出来事だ。
でも、合理性はそこに理性の光を当ててしまう。
僕たちは「恋に落ちた」合理的理由を探し始めてしまう。
例えば、スタイルがよいとか、顔つきが整っているとか、資産があるとか、社会的地位があるとか、実家の両親が干渉してきづらい(でも子育てには協力してくれそうな距離に住んでいる)とか様々な理由が見つかるだろう。
だけれども、そこには「その人でなければならない」要因など何もない。
合理的に考えれば、あなたのパートナーがまさにその人でなければならない理由など何もないのだ。
僕たちがパソコンを買うときと同じだ。
様々なサイトの価格をチェックして価格のランク表を作ったり、売れ筋の商品や満足度の高い商品を教えてくれたりする「価格ドットコム」を使う。そして、様々なスペック(性能)を考慮して、もっとも価格が安いものを購入する。
あなたが手に入れたそのパソコンそのものでなければならない理由など何もない。
購入したのは、ただ、ハイスペックで、機能に対して安価だったからだ。
同機種の別の個体でもよかっただろうし、同じスペックでより安いものがあれば別機種でもよかっただろう。
21世紀においては、僕たちは消費者が商品を買うように恋愛相手を値踏みし、恋愛相手から値踏みされることで「合理的選択」を行い、その選択の結果「惹かれ始めた」と思い込むことによって恋愛が始まる。
市場原理と同じわけだ。
従って、あなたの上司と同じことをあなたのパートナー候補は言うことになる。
「もっと価値を出して!」
価格ドットコムとしてのマッチングアプリ
運命から市場経済へという、21世紀に起きた恋愛の質的な変化を技術的に後押ししたものがある。
マッチングアプリだ。
簡単にいうと恋愛相手を探すためのインターネットサービスである。
様々なタイプのアプリがあるが基本的な仕組みはこうだ。
まず、「いいね」とか「like」と呼ばれる有限のトークンが配られる。それを相手に送ることで好意を伝えられる。二人が相互にトークンを送り合うことで双方が合意、つまり、マッチすればコミュニケーションが始まるというわけだ。
トークンを送るかどうかは相手のプロフィールを確認して決める。相手もまたこちらのプロフィールを確認してトークンの送付を決めるので、自分を売り込むためにもプロフィールの設定が大切だ。
プロフィールには、だいたいどのアプリでもハンドルネームと呼ばれるあだ名や写真をまず設定する。自分の顔やスタイルが判別できる写真を掲載するように推奨されるが、ペットや食事や景色などを掲載している人も多い。
その他の入力事項はアプリによって異なる。自由記述の自己紹介をたくさん書くことができるアプリもあるし、年収や出身地、星座や血液型などを詳細に入力するアプリもある。
ユーザーの経験としてはネットオークションに近いかもしれない。
相手のプロフィールに記載された色々な情報を勘案して、自分のプロフィールをベットする。
自分自身の魅力が他の候補者に勝れば最高額入札者として落札できる。
マッチした喜びも束の間、正念場はこの後に来る。
どれだけの苦難を乗り越えてマッチしたところで、それだけでは意味がない。
実際にデートし、恋愛に発展する相手をさらに探していかなければならない。
次のステップこそが重要なのだ。
では、どのようにしてその次のステップとやらに進むのだろうか。
「人間を動かす」行為としての「価値を出す」
次の関門として立ちはだかるのは、コミュニケーションだ。
具体的にはアプリ上でメッセージのやり取りが始まる。
メッセージで意気投合できれば、実際に会うという段階に移行できる。
だが、それが難しい。
個人的な体感だが、マッチした9割の方とは会話が続かない。
あまりの続かなさに周りに色々尋ねて見たところ、諸賢の見解はこうだった。
曰く、メジャーなマッチングアプリというのは、異性愛者が恋愛関係を探しているわけである。こういうプラットフォームには、たくさんの男性と少数の女性が参加している。すると、男性は少ししかマッチしないが、女性はたくさんマッチする。
数少ないマッチに成功した男性はなんの気なしに雑にメッセージしたり、意気込んで長文のメッセージをしたりするかもしれないが、女性は似たようなメッセージを何十通、何百通ともらっている。
従って、一言目から相手に読ませるような文章を書かねばならない。
これほど難しいことはない。
僕にそんなことができていれば、今頃この連載も大ヒットとなっているはずだ。
実際は、そうはなっていないので、仕方なく、僕も己の文章能力と他人を魅了する能力のなさを呪いながら、暗澹たる気持ちでいつもメッセージを送っている。
では、どのようなメッセージを出せば、お返事をもらえるのだろうか?
僕にもわからないので、再度諸賢にアドバイスを求めた。
返事は「価値を出す」ということであった。
なるほど、マッチ自体は市場において、僕たちが商品を見つけるのと同じ理屈だ。
マッチングを求める双方の需給がまあまあ一致した相場で起きる。
だけれども、そのあとに続くメッセージでは相場感を超えた行為、つまり、相手を感動させ、動員することで心を動かす、すなわち「価値を出す」ことを求められるのだ。
相手の認知をハックして、心に入り込めという。
この価値判断の次元においては、あなたが本当は何者であるかということは大切ではなくなる。
本当のあなたを曝け出し、受け入れてもらいたいというナイーブな欲望は棚に上げてしまわなければならない。
あなたは相手を感動させる機能としてしか評価されない。
相手の欲望を読み取り、先んじて欲望を満たす。
そうすることによって、「価値を出す」のだ。
恐ろしいことである。
マッチングアプリを使う僕たちにとって、最も合理的な振る舞いというものが、市場において利潤を生み出す機能としてお互いを差し出し合うということになってしまっている。
ここに人間性は存在しない。
欲望に駆動された合理性だけがある。
「価値を出す」ということは一応整理した。
だけれども、僕たちが求めている価値とは本当にそういうものなのか。
価値とは、僕たちについた値札のことなのか。
価値があるとは、どのようなことなのだろうか。
もう少し本源に遡って考えてみることにしよう。
『価値があるとはどのようなことか』
その問いについて、タイトルど真ん中の本がある。
イスラエル出身のイギリスの哲学者ジョセフ・ラズの執筆した『価値があるとはどのようなことか』である。
本書は「価値」いうものの本源的な意味を考えるというとても興味深い本だ。
だけれども、この本を読んでみてわかったことだが、ラズが扱おうとしている「価値」はこれまで僕が使ってきた「価値」とかなり意味が違う。
僕たちは仕事でも恋愛でも「価値を出すこと」を求められていると僕は整理した。それはつまり、人間としての僕たちが市場における「商品」のようなものになっていることを意味するとも。
だけれども、ラズは「僕たちが価値を見出す」とはどういうことか、ということを考える。市場における商品の価値になれきっている僕たちはその提示された「価値」が適正であるかどうかということは気に掛けるけれども、「価値」自体を疑うことはない。
「価値」自体を考えるとき、「どのようにして僕たちは価値を見出しているのか?」という問いがとても大事になってくるというわけだ。
それもそうだ。どこに行っても誰が相手でも自明に通じる「価値」というものは存在しない。よくよく考えてみれば、金にしても宝石にしても「歴史上どの地域でも共通する同じだけの価値」を持ったものは存在しなかった。
価値というものを下支えしてくれるような何かというのはこの世に存在しないのだ。
「価値」とは僕たちが「価値があるな」と思ったときに初めて現れるということになる。
「僕たちが価値を見出すとき、価値は現れる」のはわかった。
だが、考えてみれば、これはトラブルの素だ。
なぜなら。僕たちが「価値があるな」と考えたものを別の人も「価値があるな」と考えるかどうかはわからないからだ。
僕はまったくお金がないときに1万円もする喫煙用のパイプを買って、大学の後輩に「バカなんですか?」と聞かれたことがある。
パイプの価値を巡って僕と後輩は対立したわけだ。
僕と後輩がどうでもいい話題で戯れに対立する程度のことなら大した問題ではない。
だけれども、例えば、ある民族には価値があり、別の民族にはないと考える人々が現れたらどうなるだろうか。戦争になったり、虐殺が起きたりするだろう。
簡単に言うと、「価値」というものは、僕たちが「価値があるな」と思うことによって現れるわけだが、ある人の「価値」と別の人の「価値」が何らかの形でお互いにわかりあうことができなければ、ヤバいことが起きるわけだ。
実は、ラズの専門は法哲学、道徳哲学、政治哲学だ。
法律や道徳や政治と価値がどうつながるのか、疑問かもしれない。
でも、よく考えると価値は法律や道徳や政治を考える上でとても大切なテーマだ。
先ほど述べたように僕たちは価値を通して対立しがちだからだ。
でも、対立したくないからといって、価値抜きで社会を成り立たせるのも難しい。
だから、「価値」を巡って僕たちが対立せずに、コミュニケーション可能となるためにはどうすればよいのか?ということが課題となる。そして、この課題を考えることがまさに本書のテーマとなっている。
さて、それぞれの人間が「価値があるな」と考えるときに、価値は現れるのはわかった。では、それぞれの「価値」を巡るヤバい対立を避けるには、どういう風に考えたらよいのだろうか。
価値の普遍性
ラズは、価値を巡る対立を回避する可能性を「価値あるものは何であれ、特殊なものに依拠することなく、その価値が説明され得る」という考え方をもとに検討していく。
これを「価値の普遍性」と呼んでいるようだ。
僕たちが何かに「価値があるな」と思うことをラズは「愛着」と呼ぶ。
そして、「愛着」は僕たちと僕たちが愛しているものが共に過ごした時間の中で形成されるという。
ラズは有名なサン=テグジュペリの『星の王子さま』の例えを使う。
王子様は自分の星に一輪だけ咲いているバラを愛している。
だけれども、王子さまは地球にやってきたあと、バラがありふれたものだと知り落胆する。
なぜなら王子さまは、「僕が自分のバラを愛していたのは、そのバラが唯一のものだったからだ。こんなにたくさんのバラが咲いていれば、僕の愛情の根拠は無くなってしまう」と考えたからだ。
そこにキツネが現れて、王子さまに「人やものに対し、普遍的でない特別な愛着を持つことが、自分の人生に独自の意味を与える」ということを教える。
王子さまはそれを聞いて、どんなにたくさんのバラがあっても、自分と自分のバラが共に過ごした時間が愛情を特別にしていると気が付く。そして、自分のバラの「かけがえのなさ」を悟り、自分のバラに会うために星に帰っていく。
僕たちは無数にある様々なものと、ある特定の関係を取り結ぶことで愛着を持つ。そして、その愛着が「価値」を作り出していく。付け加えると、これは個人の嗜好の問題だけではなくて、ある人々が民族とか国家とかそういったものに愛着を持つとき同じようなことが社会的水準でも起こっているとも言える。
こう考えていくと愛着を持つということはある合理性を持っていることがわかってくる。
合理性があるというのは、王子さまと王子さまのバラには愛着を生じるまでの歴史があり、それをちゃんとみんなにわかるように説明できるということだ。
王子さまにも王子さまのバラにも会ったことがなくても説明されてみれば、「王子さまにとっては、王子さまのバラには価値があるのだ」ということを理解することが可能になる。実際に、『星の王子さま』の該当箇所を読めば、王子さまがなぜバラを愛しているのかは僕たちにも十分に理解できることがわかる。
ちょっと複雑な話なのだが、整理するとこうだ。
「価値」というのは愛着から生まれる。愛着は僕たちの人生経験を通して生まれる。僕たちの人生経験は様々なので僕たちは同じものに対して様々な「価値」を感じたり、感じなかったりしている。だけれども、その人がどうやってその「価値」を感じるようになったかという愛着の理由は他の人にも理解可能な形で説明することができる。そうなると、「価値」というものは「誰かが何かに持った愛着」であり合理的に説明可能なものとして、あらゆる時代や場所、文化において共通して認められる性質があるということがわかる。つまり、「価値」というものには普遍性があるということになる。
従って、原理的にはお互いの価値観の違いというのは決定的な対立を必ずしも作り出すわけでないはずなのだ。価値観の違いが必ず決定的な対立を作り出していると考えるのは、勘違いということになる。
本当は正しいマッチングアプリの使い方は相手の価値を尊重すること
「価値」が普遍的であり、そのために絶対に対立するわけではないことはある程度わかった。
だけれども、ジョセフ・ラズの関心はさらに先にあるようだ。
「対立しなくてもよい」という状態ではなく、多様な価値が調和する状態について考察は進んでいく。
パイプの話で例示したように「愛着からくる価値」は衝突することがある。
自分の民族への愛が他の民族への攻撃に発展するような、差別や虐殺や戦争がある。
これは、言い換えると価値が普遍的であることと多様であることという一見矛盾した事態をどう乗り越えられるか、という問題でもある。
ラズによれば、「人間がそれ自体において価値がある」という事実から生じる普遍的な義務としての他の人々への尊重を通して解決できるという。
一読ではわかり難い。
順を追って話そう。
曰く、僕たちの生それ自体には価値はない。僕たちが生きていることを究極的に根拠づけてくれるような何かはない。だけれども、「何が僕たちによって善いことなのか」という判断をする主体として僕たちは生きている。
価値というものを生み出すことにおいて、それを判断する存在として僕たちが生きているということは変えることができない。
だから、「善し悪し」を判断するものとして生きている人々にはその存在自体に価値がある。そういった人たちがいなければ、僕たちは社会的な「価値」というものを持てないからだ。
そういった意味で「人間はそれ自体において価値がある」ということになる。
そうなってくると、他の人々を尊重するということが普遍的な義務として現れる。なぜなら、僕たちは価値を尊重するからだ。従って、人間それ自体を尊重することができるはずということになる。
さて、この「他者の持つ価値」を尊重しなければならないという義務を踏まえてマッチングアプリのメッセージについて考えてみよう。
僕たちはマッチした相手の愛着も社会的背景も知りようがない。
プロフィール欄からわずかに推測することしかできない。
だけれども相手の「価値」を尊重する立場をとることはできる。この「価値」というのは、市場でつけられた値札でもなければ、自分の欲望を満たしてくれる機能に対する感動でもない。
人間として尊厳ある存在であるということそのものが持つ「価値」のことになる。
なので、「ある価値に関与する理由は個人の嗜好次第だが、これに対して尊重の理由は個人の嗜好にかかわらず全員に当てはまる。なので、僕はあなたの価値を尊重します」というこちら側の態度が相手に伝わるようなメッセージが初手に送られるべきだろう。
ただ残念なことに、相手の「価値」を尊重するという、人間として最大限の「価値」を発揮しているにもかかわらず、このメッセージを送ったところで返事はほとんど来ないのではないかと思われる。
相手の認知をハックして相手の欲望を叶えるようなメッセージと違い、「あなたの価値を尊重します」というメッセージは資本主義的な市場交換に慣れきってしまった僕たちにはやや異様に映るだろうから。
だが、相手を人間として尊重し、僕たちの方が相手に好意的に興味を持つという態度をとることで、もし万が一、返事が返ってきたときには、消費者と消費財という関係ではなく、人間と人間の信頼関係というまた新しいタイプの人間関係を築けるかもしれない。
例え、それが恋愛関係でなくても!
編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP
室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)
1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。
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