「事故なのか? 虐待なのか?」――不審死を遂げた動物の遺体を解剖し、動物虐待の実態を明らかにする「法獣医学」。日本ではまだ知られていない法獣医学の専門家による奮闘記。
法獣医学にたどり着くまで ―私の原点―
動物虐待に科学の視点を
私が「法獣医学」に関して本格的な取組みを始めたのは、2019年に米国から帰国してからのことです。「法獣医学」とは、法医学に対応する獣医学として、動物虐待などの被害を受けて亡くなってしまった動物達を解剖して調べるだけでなく、生きている動物においても、「不審な」状態について獣医学的に探究する学問ですが、まだ日本では新しく始まったばかりの分野です。
「不審な状態」、つまり、動物の受けた被害(怪我や病気)が、人為的な「虐待」によるものなのか、あるいは、単なる事故や自然発生的な病気によるものなのかを獣医学的な見地から判定する科学ですが、まだ日本では体系的に動物虐待を証明する受け皿がとても少ないのが現状です。なので、今は色々なところから、様々な動物虐待に関する相談が舞い込んできます。
動物虐待を受けるのは、犬や猫だけではありません。フクロウカフェのフクロウやウサギ、ハリネズミやトカゲ、大量のカメが持ち込まれたこともあります。猟奇的な猫の死体もありますし、多頭飼育崩壊のように、1000頭近い猫が真っ暗な倉庫のようなところで糞尿にまみれて毛玉だらけでひどい扱いを受けていたような現場もあります。
絶対に目をそらさない
亡くなった動物については、毎週決まった曜日に解剖をし、生きている動物の事件については、土日関係なく色んな状態の色んな動物が来ます。
どんなにひどい状況であっても、絶対に目をそらさず、一つ一つの現場にとことん向き合うことを常に心がけてやっています。
とはいえ人間ですから、いつもそんなに強くいられるはずもなく、もちろん心が折れそうになることもあります。それでも頑張れるのは、やはり心強い仲間がいるからだと思っています。私には強力な味方がたくさんいて、幸い上司にも部下にも恵まれ、分からなくなった時には相談できる友人と周りの助けもあって、今の私がいます。被害にあった動物のためにも、どんな些細な証拠も見逃さず、必ず虐待を立証してやろうと自分を奮い立たせて動物達に向き合う日々です。
これまで見過ごされがちだった動物虐待に対して、科学的な調査研究を基にに実証していくというのは時に難しく、また、バシッと明確な答えがないことも様々な壁にぶち当たることも多い一方で、非常にやりがいも感じています。今では年間200件を超える様々な動物虐待の事例について、獣医学的な知見を提供し、微力ながらも事件解決のいったんを担うべく邁進する日々ですが、そこに至るまでには紆余曲折もありました。
動物病院に連れてきてもらえない動物達
幼少期から動物が好きで、獣医科大学を目指して獣医師になりましたが、いわゆる「動物病院の獣医師」という臨床に興味が持てずに、卒業後、自分の人生の目標が分からなくなった時期もありました。私が獣医学を勉強した大学は、小動物臨床のメッカであり、卒業後も動物病院などの小動物臨床に進む学生がほとんどでした。
動物病院に連れられてくる患者(ペット)の病気の治療にはあまりやる気を見いだせず、動物病院に連れてきてもらえる動物達はまだ「幸せ」なのではないか、動物病院にさえ連れてきてもらえない動物達がたくさんいるはず、と動物病院に勤務していながら、いつもどこかに自分のやっていることに違和感もありました。小中学生時代を海外で過ごしていた経緯もあり、早く日本を出たいという気持ちも学生時代からあったので、常に海外に出る機会をうかがってもいました。
どこでも良いから留学がしたい
卒業後獣医師になってからは、通訳のバイトもしており、アメリカの大学の先生が招聘された時などに仕事を依頼されることもありました。ちなみに、通訳とは極めて専門性の高い職種で、英語が出来ればやれる訳でもなく、最初のころは緊張し過ぎて頭が真っ白になり、大観衆の前で真っ赤になって何もしゃべれなくなった等の失敗ばかりでした。
そんな時に、当時カリフォルニア大学デービス校獣医学部の名誉教授であり、獣医臨床病理の父と言われていた故Dr. Kanekoが日本に来るとのことで、ある会議の通訳を頼まれました。日系二世のアメリカ人の先生でしたが、日本にゆかりのある先生で、日本の獣医学の発展にも大きく貢献した先生でもありました。大変著名な先生の通訳ということで、当日は大いに緊張をしていたのですが、奥様とお二人でいらしていたご本人にお目にかかると、若輩者の私を温かく迎えて下さり、数時間という短い通訳の間でも、始終とても親切でした。
とにかく、どこでも良いので留学をしたかった私は、Dr. Kanekoに売り込むことに決めました。別れ際に「カリフォルニア大学に留学したい」と相談すると、「いつでも来なさい」とありがたいお言葉を頂き、もしかしたら社交辞令だったかもしれないと思いつつ、私は、何度もメールを出し、本当に会いに行くことにしました。
いざカルフォルニアへ
何のつてもなかったところから、藁にもすがる思いで、Dr. Kanekoと無理やり知り合いになり、半分押しかけるようにカリフォルニアの地に降り立った私は、感無量で、絶対にカリフォルニア大学に留学すると心に決め、ひたすら受け入れてくれる研究室を探しました。そんな時に「環境毒性学部」の教授を紹介してもらい、本当は環境毒性なんて全く興味ありませんでしたが、ただカリフォルニア大学に行きたい一心で、その教授の研究室に入ることにしました。
住む場所は、Dr. Kanekoがアパートの一部屋を貸してくれ、アメリカでの生活の基盤作りも手伝って下さいました。アメリカに着いた日には、アパートで待っていて、生活に必要最低限のものも準備してあり、日本を離れて多少なりとも心細かった私にはその親切が涙が出るほど心にしみたものです。
まずは、車が必要、と中古車も準備してくれたのですが、それが、当時で15万円ほどの20年落ちのホンダ車で、エンジンはガタガタで、買い物に隣町まで行って、帰ってきたら、マフラーが外れて暴走族顔負けの爆音が鳴り響きました。アメリカでは、そんな半分壊れかけている中古車がよく走っていました。
私が本当にやりたいことは?
そんなこんなで、カリフォルニア大学デービス校の環境毒性学部の大学院に進学することになった私は、獣医学とは違う分野でしたが、憧れの海外の大学生活が楽しく、何もかもが真新しく、日々充実していると思っていました。
しかし、獣医でありながら、毒性学部という化学分析の研究室にいて、動物には触れない生活をしており、何となくまだ自分のやりたいことにたどり着いていない感覚を味わいながらも、有機化学や分析、毒物等の授業を頑張って受けていました。
そんな時に、研究室で物凄い動物好きの室員と仲が良くなり、近所のアニマルシェルターに初めて連れて行ってもらい、自分の中で何かが閃きました。とはいえ、その閃きがなんなのかも、どうやったら自分の本当の居場所にたどり着けるのかもまだ分かりませんでした。
(第2回に続く)
田中亜紀
獣医師。日本獣医生命科学大学特任教授。1974年、東京生まれ。1998年、日本獣医生命科学大学卒業。動物病院勤務を経て2001年に渡米。カルフォルニア大学デービス校(UCD)獣医学部でシェルターメディスンと災害獣医学の研究をテーマに博士課程終了。博士(疫学)。「シェルターメディスン」とは保護施設(シェルター)における動物の健康管理についての研究。2020年2月に「日本法獣医学会」を立ち上げる。
イラスト 白尾可奈子/写真 安海関二
連載一覧
- 第1回 法獣医学にたどり着くまで ―私の原点―
- 第2回 法獣医学にたどり着くまで ―シェルターメディスンとの出会い―
- 第3回 初めての多頭飼育崩壊
- 第4回 初めての現場