アン・ギュチョル×浅田彰×桑畑優香 対談「モダンアートとBTS RMの美術眼」<中編>

K-BOOK フェスティバル 2022 にて、書籍『それぞれのうしろ姿』著者・現代美術家のアン・ギュチョルさんと、評論家・京都芸術大学教授の浅田彰さんのトークショーが開催されました。ファシリテーターは『それぞれのうしろ姿』の翻訳を手がけた桑畑優香さん。「韓国のナポリ」とも称される海辺の街・統営からアンさん、京都から浅田さん、東京から桑畑さんがオンラインで集結。「対談はシナリオなし・予定調和なしが面白い」というお二人が「モダンアートと BTS・RM の美術眼」について熱いトークを繰り広げました。

<実際の対談の様子はこちらから>
https://www.youtube.com/watch?v=aad5Rwd_koc&feature=youtu.be

www.amazon.co.jp/dp/4777828700

「直角」と「ゆとり」の問題点②

浅田:木で立派な彫刻を作るとか、石で立派な建築をつくるとか、設計図に基づいて正確にものを作ることが重視されてきたけれど、そのときに出てくる木くずとか石くずとか、一見どうでもいいような小さな物にじっと目を凝らすと、それらの予測不能な動きからいろいろ面白いことが見えてくる。『それぞれのうしろ姿』は、そうやって多種多様な小さなもののうしろ姿を見つめることから得られた洞察に満ちていて、良い感じだと思って読んでいたわけですね。

けれども「直角の問題」を読むと、アンさんが「直角は直角でないといけない」という原則から出発されたことがわかります。いまは「何が何でも正確に」という若き日の厳格主義よりは成熟した見方をされているかもしれない。しかし、物事をじっくり考え、また考え直し、そこで到達した結論を簡潔な文章に表すというアンさんのスタイルの中には、やはりある種のストイシズムが貫かれている。偶然や多様性が面白いというだけではない、そのことを考えるアンさんのスタイルの中にそういうストイシズムを感ずるんですね。その両面があることがこの本を魅力的にしていると思うんですが?

アン:正確に把握していただけたのかなと思います。私は 1 年早く小学校に入学したんです。それで同級生よりも勉強に遅れを取るんじゃないかと心配した母が、近所に住む大学生を家庭教師としてつけてくれました。でも自分の部屋の中で家庭教師の授業を受けていると、外で飛び回って遊んでいる子ども達の歓声が聞こえてくるし、あまりにも面白くないので、身体をくねらせながら耐えていたんです。その後、窓の外に見える風景や様子を説明する、という罰を受けることになりまして。罰としてはあまりにも簡単過ぎるんではないか?とも思ったんですけれども、窓の外に見えるものについてずっと話す、状況を語るという体験をしたんです。そのとき、世の中を観察するとは、新しいものが自分の中に入ってきて、それを取り込めることなんだな、と思いました。まるで世の中が本の中のように感じられた、そんな印象を持ったことをおぼろげに覚えています。

私が美術家としてある種、禁欲主義的なアティチュードを備えるようになったのはおそらくその根本に、現代の産業デザインつまり広告・コマーシャル感覚的なデザインやイメージと競争をしないからではないか?と。自分はそういった産業デザインとはまた別のことをしなければならない、という考えがベースにあることで、これまで非常にドライで機械的な状態で作業を続けているのではないかと思うんです。

浅田:アーティストやその作品を歴史的・社会的背景に還元して説明し尽くすことはできないので、「アンさんはアンさんだ」というのが大前提ですが、そうはいってもアンさんは韓国の歴史や社会の中でいろいろ影響を受けてこられたでしょうし、私自身も日本の歴史や社会の影響を受けてきました。家庭教師とのエピソードもそうですが、軍事独裁政権下で不条理を感じながら生きてこられたお話もそうですね。不条理な権力が一方的に押してきたとき、それに対して「直角」に戦わないといけないこともある。そこでは直角は絶対に直角でなければならず、いい加減な妥協は許されない。そういう局面があったとしてもおかしくないと思います。

それが古代ギリシャ・ローマのストア派に近いとすれば、もうひとつエピクロス派というのがある。エピクロスはデモクリトスの原子論を受け継ぐのだけれど、原子はデモクリトスの言うようにまっすぐ落ちるのではなく、所々で偶然ちょっと逸れる、他の原子もちょっと逸れる、するとそれらがぶつかって反応を起こし、結果的に多様な世界ができる、というんですね。原子の軌跡が直線だったら世界には何も起こらないけれど、原子のズレが多様性を生むのだ、と。
つまり、ストア派は「直角は直角でなきゃいけない」と言い、エピクロス派は「いや、ちょっとずれることが多様性を生むんだ」と言うわけですよ。

近現代で言えば、モダニズムは「直線は直線、直角は直角」。それに対していわゆるポストモダニズムは、何でもちょっとずつズレている、その多様性が面白いんだ、と言う。それにはモダニズムの画一性を脱構築する意味があったわけですが、商業的ポストモダニズムになると消費者の興味を引いて商品をどんどん売るための安易な多様性になってしまうんですね。

ストア派とエピクロス派は、どっちが良くてどっちが悪いということじゃないんですが、近代資本主義の下で大量生産・大量消費のためにすべてが規格化され、いわば「直角」になってしまったとすると、ポストモダン資本主義の下では、消費社会の論理として多様性を重視したため、何でも「くねくね曲がって多様で面白いでしょ?」という風になってしまった。そのことに僕はある種の反発を覚えます。

僕はアンさんよりちょっと年下だけれどほぼ同世代。アンさんが長く教えた大学を退く時期になり、もう厳格な教師として「直角」にこだわることもないのかなと思うようになったというのは、よくわかるような気がします。しかし、それでもなお許せないことはある。お互い難しいところですね。

アン:今のお話しに共感します。私が所属していた大学では、芸術家になることを目標に教育していたのですが、じき定年退職という頃に指導していた学生に「現代美術は面白くない。BTS のミュージックビデオを撮ってみたいんです」と言われたことがあって。本来の私なら「これは話にならない」と思い黙殺していたと思いますが、「それは素晴らしいことだ」と応えました。まず興味が持てることを見つけられたのは素晴らしいことだし、頑張ってやってみたらどうだ、と。おそらくその頃私の中に、多様性を認めるある種の「ゆとり」が生まれたのかもしれません。

【本書にサインを求めたRMの美術眼を浅田先生とアン先生はどう見るのか?<後編>に続きます】

<前編>はこちら

(ライター・露木桃子)

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