新聞記者として働き、違和感を覚えながらも男社会に溶け込もうと努力してきた日々。でも、それは本当に正しいことだったのだろうか?
現場取材やこれまでの体験などで感じたことを、「ジェンダー」というフィルターを通して綴っていく本連載。読むことで、皆さんの心の中にもある“モヤモヤ”が少しでも晴れていってくれることを願っています。
【第4回】祖母の死とケア労働
前の回でも触れたが、2023年秋、大好きな祖母が死んだ。
「余命わずか」の診断を受けて入院先から自宅に戻し、家で看取った。
キンモクセイが甘い香りをまき散らし、散り始めるまでのわずか10日間だった。
コロナによる面会制限が続く中、病院でひとりぼっちで死なせたくなかった。
とはいえ、仕事を休んでまで看取り介護をしたのには理由がある。
子ども時代、祖母が親代わりだったからだ。
我が家は母子家庭。私が7歳、2人の妹が5歳と3歳のときに両親が離婚した。
専業主婦だった母は実家に身を寄せ、働き始めた。代わりに祖母が私たち「七五三」の育児に奔走した。
頭から血を流し、パンツ1枚で仁王立ちしていた祖母
就職した後、祖父の死去を機に、私は再び祖母と2人暮らしを始めた。
15年ほど同居したが、80代後半から認知症になった。そのうち圧迫骨折をして、トイレに伝い歩きするのがやっとになった。私が朝デイサービスに送り出し、祖母の夕食を準備して仕事に行く。夕方はヘルパーさんにお迎えをしてもらい、着替えや食事を助けてもらう。そんな生活が一時期続いた。
認知症の人と暮らすのは、ある意味、漫才とかコントに似ている。
見知らぬジイサンから毎朝7時に電話がかかってきていたことがあった。こっそり子機で祖母との会話を聞いてみると、なにやら変質者めいたエロ話をしている様子。しまいにジイサンが「ハアハア……あんたも気持ちよくなってきたかい」と鼻息荒くなった。私は頭に血が上ったが、祖母は真面目に「そんな昔のことは忘れたな」と答えていた。
ある寒い朝は、自転車の下敷きになっていた。不自由な足で新聞を取りに行こうとして庭で転び、そこへ自転車が倒れかかったらしい。どれだけ無言で横たわっていたのか。半泣きになりながら祖母を引きずって家に入れ、泥だらけの手足を洗うと、氷のように冷たくなっていた。
祖母がパンツ1枚の裸で、朝日を浴びて仁王立ちしていたこともある。頭からは大量の血が流れ、さながら全身に返り血を浴びたサムライのよう。「一体なにが?」と聞いても、キョトンとしている。さては転んだ後、血で汚れた服を着替えようとしたか……。
ある夜、仕事から帰宅すると、こたつの上になにやらこんもりと茶色い物体がのっていた。
「これなに?!」と叫ぶと、祖母は「なんだろうね?」と、すまし顔をしている。
大便をおむつから取り出し、卓上にのせたらしい。ぐぬぬ……。
次は何が起きるだろう。不安な毎日は、笑わないとやっていられない。
そんな生活も、ある日床に倒れている祖母を発見し、終止符が打たれた。大腿骨の骨折だった。救急車で運ばれ、退院後は施設に入居することに。折悪しくコロナが大流行していたので、ほとんど面会できずに2年ちょっとが過ぎた。誤嚥性肺炎になって入院し、食べたり飲んだりしなくなり、いよいよ最期が近づいた。
プロフェッショナルの「ケア」に目を見張る
看取り介護は、外部の専門家に「ケア」を全面的に頼ることになった。
床ずれ防止のためにマットレスが24時間動き続けるミラクルなベッドを部屋に入れてもらい、医療機器の発達に驚いた。だがプロのケアにはもっと目を見張った。
訪問介護の事業所から、ベテランの女性が来た。祖母の布団を整えるときに「このお布団、ちょっと重いかも。端っこをベッドの縁にかけて軽くしましょう」と何度も言う。私は「羽毛だから軽いでしょ」と聞き流し続けた。亡くなった後、試しに祖母の羽布団をかぶってみたら、微妙に重い。というか、寝苦しい。もしや、言葉を発することができない祖母は我慢してたんじゃ……。なぜすぐ軽い布団と換えなかったのかと身もだえた。逆に言えば、こんなわずかな違和感に気づくヘルパーさんの経験と洞察力に嘆息した。
創意工夫もすごい。500ミリリットルのペットボトルのふたに穴をいくつか開け、ぬるま湯を入れて押す「簡易シャワー」をヘルパーさんが手作りした。おむつ交換で、股間を洗うときに使う。手つきの鮮やかなこと。
「おむつ洗髪」というのもあった。祖母が頭をかゆがる様子をみかねて、看護師さんが枕元に防水シートをしき、おむつを重ねた。ペットボトルシャワーで髪をぬらし、シャンプーして、流す。看護の授業で、こうしてお互いに洗髪の練習をするそうだ。「今の製品は吸水機能が高い」という言葉通り、おむつ2~3枚で十分足りた。
祖母が夕刻に息を引き取った後、すぐ駆けつけてくれたのも看護師さんだった。
「湯灌(ゆかん)代わりに体を拭きましょうね」とてきぱきと指示し、わたしたち家族は泣いたり笑ったりしながら祖母の体を拭いた。おむつ洗髪をして、クリームで保湿して、お化粧もした。呼吸の止まった祖母は、なぜか気持ちよさそうで、笑っているように見えた。
「なんでも言ってください! なんとかしますから!」
在宅介護の司令塔となるのが、ケアマネージャーだ。これまた頼もしい人だった。
「初めてで不安でしょうから、なんでも言ってください! なんとかしますから!」と言って、猛スピードで在宅介護の環境を整えてくれた。
家族から要望を聞き取って必要な介護内容や要介護度に応じてサービスを選び、点数を計算し、煩雑な書類を作成する。介護の事業所を手配し、役所や医療機関とやりとりする……。想像するだけで気が遠くなる。まさにプロフェッショナルの仕事だ。
葬儀の前にあいさつに来てくれたときは、なんと祖母の亡骸(なきがら)に向かって「おつかれさまでした!」とねぎらった。祖母の生前と同じように、大きな声で。
家族にも言葉かけがあった。祖母は水分を補う点滴だけで生きながらえていたが、急変したのは亡くなる前夜だった。「急だったので心残りかもしれませんが、おうちに戻れて、ご家族に会えて、もう十分です。もうご本人は苦しい思いをしないですみますから」
その言葉に「グリーフケア」という単語が浮かんだ。遺族の精神面まで支えてくれるありがたさ。いわく「亡くなる人は自分でそのときを選ぶ。絶対的な根拠はないけれど、経験からそう思う。だからね、前を向いていただければと思います」。このへんで涙腺が崩壊した。
介護の仕事は「最後の手段」
だが、そんなケアの達人に偶然出会えた幸運を喜んでばかりはいられない。
2011年、東日本大震災の被災地で取材したとき、仕事を失った女性たちが口々に言っていたのが「介護の仕事だけはやりたくない」。そのころ祖母はまだ元気いっぱいだったので、初めて聞く話にびっくりした。
重労働なのに、給料が恐ろしく安い。だから介護施設の職員や訪問介護ヘルパーとして働くのは「最後の手段」だという。恥ずかしいことに、当時はその現実を認識していなかった。
介護も保育も、「ケア労働」と呼ばれる仕事の報酬の低さが指摘されて久しい。こんなにも専門性が高く、人間の尊厳を守るための大事な仕事が、正当に評価されていないとは。
そういえば、と祖母が入った有料老人ホームを思い出す。月の入居費は約30万円で、決して安くはなかった。でも、職員の交代が頻繁にあり、人手不足の深刻さが伝わってきた。コロナ禍で月1~2回のリモート面会も「土日はスタッフが少ないので難しい」と言われた。仕事がある家族はどうすれば、と怒りを覚えたが、疲れ切った職員に抗議しても仕方ないのだった。
高齢化が急激に進む日本で、国は民間企業に介護事業への参入をせっせと促している。祖母の施設も、テレビCMで知られる民間の大手警備会社が運営していた。
効率を重視すれば利用者をモノのように扱うことになり、サービスの質は低下する。利益をとことん追求することと相容れないのが福祉の世界だ。経営者に理念があるかどうか。それがこれほど重要なことだったとは……。
男の経済活動は女のケアの上に成り立っている
不当な評価はなにゆえなのか。家事や育児、介護。誰かの世話をすること=ケア労働は、長らく「家で女がやること」だった。すなわちタダ。それが市場経済に組み込まれても、社会的評価が低く低賃金のままなのは、それが女性の労働であり、「もともとタダでしょ」とみなされているからだと思う。
1997年に制定された介護保険制度のおかげで、「妻」や「嫁」といった家の中の女性によるタダ働きがやっと可視化された。だが、ケア労働それ自体の軽視はいまだに続いている。
ちょっと前に『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』という本が話題になった。実は、「経済学の父」は生涯独身で、母親や親族の女性に身辺の世話を頼り切っていた。英国在住スウェーデン人ジャーナリストの著者は、主流の経済学が女性のケア労働を「経済活動」から排除してきたことを解き明かす。
つくってもらった食事を食べ、洗濯された服を着て、掃除された部屋で寝る。当たり前の話だが、誰もがケアなしには生きられない。男の経済活動は女のケアの上に成り立っている。その視点が抜け落ちていたのだ。
下がり続ける介護報酬
そしてケア労働の軽視は、いまや介護現場の崩壊につながっている。
2019年、現役ヘルパーの女性3人が国に損害賠償請求訴訟を起こした。
訪問介護は低賃金の上、移動や待機時間はタダ働きという現状に「我慢の限界を超えた」のが理由だ。
多くの事業所では利用者宅を回る移動や待機の時間はほぼ無給で、利用者の都合でキャンセルされても休業手当が出ない。ヘルパーの約7割は非正規雇用だ。
福島に住む原告は「車で片道1時間以上かかる利用者宅もある。雪や路面凍結だとさらに時間がかかる」と訴えた。一方、地方の介護報酬は逆に、都市部に比べて低く設定されている。大手の事業所は、こうした「効率の悪い利用者」は引き受けたがらない。良心的な小さな事業所が引き受けた末に、経営悪化でつぶれる悪循環なのだという。
この裁判の控訴審判決が2月2日に出た。東京高裁は、一審に続いて国の違法性を認めなかったが、「賃金不足を一因とする慢性的な人手不足が解決されていない」と現状に問題があることをはっきり指摘した。
判決が言うように、人手不足でヘルパーの有効求人倍率は15.53倍(2022年度)。1人につき、16近い求人がある状態だ。
それなのに、国は新年度の介護報酬改定で、ただでさえ低い訪問介護の基本報酬(サービスを提供したらどの事業者も受け取れるお金)を上げるどころか、引き下げた。
愛されているという実感をくれた祖母
子ども時代、祖母が自分を世話してくれていた記憶がよみがえる。
毎日のごはん。手編みのセーターや毛糸のパンツ。
寒い夜は「ここに足を入れろ」と自分の太ももに私の冷たいつま先をはさんだ。大人になっても、冬は毎晩湯たんぽをつくって「寝床に持ってけ」と手渡された。
一緒に風呂に入ると、手でお湯をすくっては何度も肩にかけてくれた。そのころ職を転々として苦労していた母とけんかすると、「お母さんも大変だから、わかってやれ」と慰められた。学校でいじめられて「死にたいな」と思っても、貧乏な母子家庭と後ろ指をさされても、愛されている実感があった。自分が今ここにあるのは、そのおかげだ。
子どもが一人前に成長すること。人としての尊厳を保って死を迎えること。
どんな人にとっても、人生の始まりと終わりを支えるのは、ケアなんだ。
子どもがいない自分はどんな最期を迎えるのかな、とふと考える。そんなに遠い話ではない。
性別に関係なく、多死社会は到来している。それぞれが自分の死に方に思いをはせることから始められたら、と思う。
出田阿生(いでた・あお)
新聞記者(1997年入社)。東京生まれ。小学校時代は長崎の漁村でも暮らす。愛知、埼玉県の地方支局を経て、東京で司法担当、多様なニュースを特集する「こちら特報部」という面や文化面を担当し、現在は再び埼玉で勤務中。「立派なおじさん記者」を目指した己の愚行に気づき、ここ10年はジェンダー問題が日々の関心事に。「不惑」を超えて惑いつつ(おそらく死ぬまで)、いっそ面白がるしかないと開き直りました。
連載一覧
- 第1回 立派な「男」になろうとしていた私
- 第2回 被害者の声を聞く…それはフラワーデモから始まった
- 第3回 家父長制クソ食らえ
- 第4回 祖母の死とケア労働
- 第5回 「水着撮影会」問題を自分事として考える
- 第6回 ”何かになること”を押しつけられない社会へ
- 第7回 日本社会が認めたがらない言葉「フェミサイド」
- 第8回 アフターピルの市販化を阻むものは何か?
- 第9回 日本人女性の7割がその存在を知らない「中絶薬」
- 第10回 「社会はそんなに不公正ではない」と思いたい人たち
- 第11回 司法の世界にもはびこるジェンダーに対する歪んだ価値観
(イラスト 安里貴志)