事故物件の日本史【第2回】『源氏物語』の舞台は王朝心霊スポット〜河原院と二条院|大塚ひかり

「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。

第一章 なぜ『源氏物語』の舞台は事故物件ばかりなのか/後編

宇治十帖の舞台は広大な墓場

さて、主人公の源氏死後、その孫たちの物語を描いたのが「宇治十帖」と呼ばれる巻々だ。
その舞台となった宇治は、平安初期、
“わがいほは都のたつみしかぞすむ世をうぢ山とひとはいふなり”(私の庵は都の東南にあって鹿の住むような所だが、このように心を澄まして住んでいる。それを人は宇治山…憂し山…などと、この世をつらく思って遁世したと言っているらしい)
と、喜撰法師に歌われて以来、“憂し”の意を込めた歌枕になった。
平安中期の『源氏物語』でも、現世に絶望した八の宮一家の住む、憂いを帯びた場所となったわけだが……。
実は、喜撰法師の歌が出てくる以前から、宇治には一つのイメージがつきまとっていた。
国文学者の梅山秀幸によれば、「宇治十帖を読む前に前提となる知識」(『後宮の物語』)があって、中世以前までは当たり前のこととして受け入れられていた。それが、『古事記』『日本書紀』に描かれているウヂノワキイラツコのエピソードである。
ウヂノワキイラツコは、応神天皇の皇子で、父に愛され皇位を約束されていた。ところが異母兄のオホヤマモリノ命と皇位を争い、兄を死なせたあと、今度は異母兄のオホサザキノ命(のちの仁徳天皇)と皇位を譲り合って、ついには死んでしまった。そんな彼の里と墓所が宇治だった。その墓所は『延喜式』によれば12町四方の広大さ。144町である。当時の1町は360尺で(太閤検地以降は異なる)、1尺を30センチとすれば、一町は108メートル。12町四方ということは約168万㎡(50万坪以上)というとてつもない広さである。この広大な墓場、梅山氏のことばを借りれば、
「『延喜式』で墓場と定められた空間でくり広げられる」(前掲書)のが宇治十帖の物語なのだ。

不幸があった土地だからこそ

霊や鬼の出る河原院をモデルにした六条院に、怪異の絶えない二条院、そして広大な墓場である宇治……。
紫式部はなぜこんな曰く付きの屋敷や土地ばかり、今でいう事故物件、霊的スポットばかりを物語の舞台に選んだのか。
そのことがずっと疑問だったのだが、『源氏物語』が基本的に皇統乱脈を描いた物語であることを頭に浮かべながら、この三つの場所を見つめているうち、興味深いことに気がついた。
六条院、二条院、宇治……のいずれもが、天皇に関係している、それも皇位に近い位置にいながら天皇になれなかったとか、あるいは即位しても退位させられたとか、皇位継承絡みの恨みやいざこざがあった人々の屋敷なのである(六条院のモデルとなった河原院の主は皇位を望んで得られなかったと伝えられる源融だし、二条院のモデルと言われる陽成院には暴虐のため退位に追い込まれた陽成院が住んでいた。もう一つのモデル説である法興院は、花山天皇を退位に追い込んだ藤原兼家の別邸だ)。
これは『源氏物語』の主人公の源氏が、「天皇になるはずだったのに、なれなかった皇子」であったから、ということと関連があるのではないか。
源氏は優れた資質を持っていて、父桐壺帝も東宮に立てたいと望んでいた。しかし幼くして母を亡くし、母方祖父もすでに故人で、母方の後見がない。一方、第一皇子の異母兄(のちの朱雀院)は母・弘徽殿や祖父・右大臣という強い後ろ盾がいる。しかも源氏は占いで「帝王になるべき相がある」とされていたものの、「そうなると国が乱れ民の憂いとなる」という結果が出ていた。それをなまじ親王にして、世間に疑いを持たれるよりは、源氏の性を与えて臣下として朝廷を補佐させるに如くはない。父帝のそんな考えから、源氏は帝王の資質がありながら、皇位を得ることはできなかったのである。
ただし源氏は、継母・藤壺と関係し、生まれた皇子(冷泉帝)は即位する。源氏自身も中年以降は准太上天皇の待遇を得るものの、皇位絡みでは不運に終わったとも言える。
源氏の子孫たちの世界を描いた宇治十帖でも、一時は東宮候補になった八の宮という忘れられた“古宮”がまず出てきて、その姫君たちを中心に話が展開していく。
『源氏物語』のメインキャストは、「天皇になれそうでなれなかった皇子」と見ることもでき、そこから舞台も皇位継承絡みの曰く付きの場所となったのではないか。
私が二条院のモデルを陽成院ではないかと思っているのは、法興院より陽成院のほうが皇位継承絡みの「曰く付き」度が高いからである。

紫式部が曰く付きの土地を舞台に選んだ理由については、もう一つ、
「死者の想い出の世界を舞台にして慰められない魂をいやすのは『物語』の本性に根ざしている」(前掲書)
という梅山氏のことばが参考になる。
不幸な死に方をした人にゆかりの土地だからこそ、物語の舞台にふさわしいというのである。
言われてみると、うなづけることは多い。
『古事記』の出雲神話もこの類いだろう。出雲は、オホクニヌシノ神が、天降った天孫の住まいと同等規模の宮殿を造ってもらうことと引き換えに、国譲りして隠れた土地である。そうしたいわば、オホクニヌシノ神の墓場とも言える場所での国作りと結婚の物語を語ることで、出雲神話はオホクニヌシノ神の魂を癒やそうとしたのではないか。
小倉百人一首などもあえて不幸な死に方をした歌人を選ぶことで、彼らの追善供養をすることが編纂の目的という説もある(草野隆『百人一首の謎を解く』)。
平家の公達の栄枯盛衰を描く『平家物語』などは鎮魂文学の最たるものだ。
古代から中世にかけては、不幸な人たちや、彼らが不運に死んだ場所を意識的に描き、また語ることで、彼らの魂を鎮め、ひいては日常に生きる我々が、浮かばれない霊に悩まされることなく、平穏無事に過ごせるように祈るということをした。
物語には、そんな役割があったのだ。
が、梅山氏も指摘するように、近世以降、「怪談」という概念が生まれ、そうした舞台は不吉なものとして遠ざけられがちとなる。
逆に言うと、中世までは、一見不吉な場所は、死者を鎮魂するための物語の格好の舞台と、物語作者には受け止められていたわけだ。
『源氏物語』は死者の鎮魂のために書かれたわけではあるまいが、ベースには、そうした古来からの精神が横たわっていた可能性はあろう。
とはいえ、それはあくまで物語の世界である。
現実には、古代・中世の人々も、不幸がたび重なる場所は寺にしたり、不幸な死に方をした人物は神として祀って社にしたりして、自衛していた。
というわけで、いよいよ本題の不吉な家……古典文学や歴史に見える凶宅について見ていきたい。

大塚ひかり(おおつか・ひかり)

1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。

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