新聞記者として働き、違和感を覚えながらも男社会に溶け込もうと努力してきた日々。でも、それは本当に正しいことだったのだろうか?
現場取材やこれまでの体験などで感じたことを、「ジェンダー」というフィルターを通して綴っていく本連載。読むことで、皆さんの心の中にもある“モヤモヤ”が少しでも晴れていってくれることを願っています。
【第7回】日本社会が認めたがらない言葉「フェミサイド」
昨年の夏、NHKのテレビ番組「キャッチ!世界のトップニュース」を何気なく見ていて、驚いた。この番組は世界各国のニュースが見られるから好きなのだが、フランス国営放送F2のアナウンサーが、夫が妻を殺害した事件を報じるとき、こう言ったのだ。
「フェミサイドは増える一方です……」
いま、フェミサイドって言った!?
なぜ興奮したかというと、日本のニュースではこの言葉がまず出ないから。
フェミサイドとは、女性であることを理由にした殺人のこと。1970年代にフェミニストたちが定義して、広がったという。国連女性機関は「女性や少女への暴力が最も残酷かつ極端に現れたもの」で「ジェンダーが関連した動機による故意の殺人」と説明。WHOも2012年に発表したレポートで、性差別に基づく犯罪として各国に理解や対策を求めている。
「幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思う」
私が遅まきながらこの言葉を知ったのは2016年。
きっかけは韓国の「江南駅事件」だ。ソウルの繁華街で30代の男が20代の女性を殺害した。男は公衆トイレの個室に潜み、用を足しに来た6人の男性をそのままやり過ごし、7番目に現れた見知らぬ女性に刃物を突き立てた。
逮捕後に「女性なら誰でも良かった」と言った男は、女性たちに無視された、と不満を募らせていたという。
韓国の女性たちは当然、震撼した。女だから被害に遭ったという、究極の女性差別だからだ。現地の人によると、事件の影響は大きかったという。「追悼や抗議の動きが次々と出てきて、韓国社会が大きく変わるきっかけになった」
日本でもついに起きた、と思ったのはその5年後だ。
2021年8月、小田急線で起きた刺傷事件。逮捕された男の供述が報じられた。
「幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」
報道の反響は大きかった。
アクティビストの石川優実さんや菱山南帆子さんが「#小田急フェミサイドに抗議します」というデモを東京・新宿で開催した。都内の大学生だった皆本夏樹さんは、小田急線の駅構内にメッセージを書いた付箋をはる活動を呼びかけた。これは江南駅事件の追悼・抗議活動にならったという。ネットで署名も集めた。メッセージは「小田急線事件を契機に、フェミサイドの実態を解明し対策を講じてください!」
こうした若い女性たちの活動に感動し、強く共感した。江南駅事件後の韓国のように、日本社会も変わるきっかけになるかもしれない、と密かに期待をふくらませた。
ところが、ニュースの報じ方がいつの間にか変わっていく。「女性を殺したかった」という供述が、「人を殺したかった」と言い換えられていることに気づいた。
最初は男が供述を変えたのか、あるいは警察のミスリードだったのかと疑ったが、どうやら違う。
なぜなら、後の裁判で検察側は、「女性を殺したかった」という動機を冒頭陳述にしっかり入れている。さらに被告自身も法廷で、「女性への恨み」を自分の口で明確に語っているからだ。
モヤモヤした。メディアが「女性」という部分をわざと曖昧にしているような……。
なんでだろうと、ずっと心に引っかかっていた。
判決から消されたフェミサイドの要素
何か分かるかもしれないと昨年7月、東京地裁で言い渡された事件の判決を傍聴しに行った。
法廷で初めて見た被告(当時37)の表情は、前髪とマスクに覆われて分からない。ただ、細身で弱々しく見えた。
「懲役19年」という主文を言い渡された被告は、裁判長に「分かりましたか」と聞かれて、か細い声で「はい」と答えている。
続いて、量刑の理由が読み上げられていくのだが、そこでまさかの事態に遭遇する。判決内容からフェミサイドの要素が全て消去されていたのだ。
判決はこう認定している。
「無差別に乗客を狙った」
「無差別に危害を加えるという身勝手な動機」
幸せそうな女性を狙った、という表現がきれいさっぱり消えている。聞こえてくるのは「無差別」という言葉だけだ。
判決後、審理に参加した裁判員の記者会見も同じだった。
記者は「無差別殺傷事件が最近相次いでいるが、どう思うか」と質問し、答える裁判員も「無差別」と表現する。その後も質疑は続くが、誰も女性が狙われたことには触れない。
その後、知り合いの司法担当記者に尋ねてみると、強く否定するような言葉が返ってきてびっくりした。
「無差別殺人をしたくて及んだ犯行で、しかも被害者には男性も含まれていると考えると、フェミサイドととらえると一面的になる恐れがある」「結果的にフェミサイドだという印象を報道があおってしまったのは歯がゆい」……
どうしてそんなにかたくなに否定するのだろう。戸惑いつつ、自分が思い込みで間違った認識をしていたのかと心配になり、被告の法廷での証言を調べ直してみた。すると……
被告は過去にデートの途中で女性に帰られたり、自分との時間が他の予定までの「つなぎ」に使われていたと感じたりしていた。だから「男からちやほやされる勝ち組みたいな女性」への恨みがあった。一方でそういう女性とつきあいたいと思っても相手にされず、恨むことで解消したかった。だから電車でまず探したのはそんな女性。最初に刺したのは、目につくピンクの服を着た20歳の女子大生だった。
男性も被害に遭っているものの、犯行へと突き進んだ最初の一歩には、フェミサイドの要素が明確に出ている。なぜ、これで全否定できるの?
ふと思った。マスメディアはこの言葉を「使いたくない」のかもしれない。
「また透明にされた感じ」
判決後の裁判所前では、それとは対照的な光景が広がっていた。
10人ほどの若者がスタンディング(立ったままマイクを回しながら順番に話すデモ)をしていたのだ。手に「フェミサイドは、ある」「フェミサイドは社会問題だ」というプラカードを持ち、静かに立っている。
セミの声が響く中、主催した皆本夏樹さんが口火を切った。前述した、事件を機に署名活動をした人だ。「透明な判決というか……。女性への殺意について触れていない。女性への差別が全くなかったかのようにされた」
別の20代女性も「また透明にされた感じ」と語った。
透明化。つまり「差別をなくしてほしい」と訴える人に、「そんな差別はそもそも存在しない」と否定して消し去ること。差別があるゆえの苦しみを「ないこと」にされたら、ぼう然とするしかない。その悲しみがひたひたと押し寄せてくる気がした。
私が勝手に落ち込んでいると、旧知の編集者さんが1冊の本をくれた。
皆本さんが自身の活動記録をまとめた『フェミサイドは、ある』(タバブックス、2022年)。手のひらサイズで薄いのに、内容はずっしり重い。
そこにはデモや署名活動なんてしたことがない大学生が、果敢に社会運動に飛び込んでいく姿があった。スタートはたった一人で、手探りだった。だが、あっという間に連帯の輪が広がっていく。
本を読んで、がぜん勇気がわいた。自分が抱いたいくつもの???に対する答えがあったからだ。
言葉ができて、ようやく問題が可視化される
皆本さんは素朴な疑問を抱く。たとえば中高年男性を狙った強盗致傷事件が相次いだ1996年、「おやじ狩り」という言葉が誕生した。メディアは犯罪のターゲットになったのは中高年男性だということを隠さず、流行語にまでなった。なぜ小田急線事件では逆に、ターゲットをぼかすのだろう。
私は、一つの理由は、自分たちが生きている社会を否定したくない気持ちが人々の間にあるからではないかと思う。フェミサイドという言葉は、現実に波風を立てる面倒くさいトゲのようなものだ。「そんなことはない」「気にしすぎだ」と目を背けていれば、女性差別は「ない」ことになるのに。
皆本さんの本にはこう書かれている。
<私は、ああ、だから「フェミサイド」という言葉が必要なんだと思った。(中略)誰に向けられた憎悪と暴力なのかをはっきりさせ、問題を指摘するために>
「ハラスメント」も「DV」もずっと世の中に存在していたけれど、言葉ができるまではほとんど問題視されなかった。その歴史を考えても、なるほどと思う。
皆本さんのツイッターに寄せられた反発のすさまじさにも衝撃を受けた。
「クソが!」「卵巣詰めんぞ」といった罵詈雑言、「男はいくらでも殺されていいのか」などなど。卵巣って……。女性が「声を上げる」ことを疎む人々がこんなにも世の中には存在する。
それでも、「フェミサイドを止めよう」と呼びかけた署名は、約1万7300人分も集まった。省庁への要望書を作り、内閣府の男女共同参画局長にも面会して「女性への暴力を可視化するために、国が先頭に立ってフェミサイドという言葉を使い、根絶に取り組んでほしい」と訴えた。「使います」という回答は得られなかったが、手応えを感じたという。
ウサを女性で晴らしていいわけがない!
それにしても、小田急線事件の加害者が、社会に対する不満を女性に向けたメカニズムが分からない。法廷で被告が語ったのは「大学中退後に正社員になれず、同級生に置いていかれたように感じていた」という劣等感。非正規労働で将来の夢も持てない絶望は、ロスジェネ世代の私も共感する。社会や経済状況が根本原因なのに、何でも自己責任にする風潮はあまりにもおかしい。だからといってそのウサを、女性で晴らしていいわけじゃない。
その思考回路をシミュレーションするために、もし私が男だったら、と妄想してみた。
「すべからく男性は、社会的にも肉体的にも、女性より力を持っている」と前提して、想像をふくらませてみる。するとこうなった。
自分より優秀な男が幸せそうにしている。まあ仕方ない、嫉妬するのはみっともないし、ここはひとつ我慢だ。でも女が幸せそうなのはどうだろう。女は自分より下の存在。ふだん見下している対象が自分よりもいい思いをしているなんて、ずるくないか。というか生意気だろ。ムカつく。……あれ、なんだかヤバい方向へいっちゃうぞ。
男尊女卑の思想が深く根を張った日本社会で、もし自分が男として育っていたら、大なり小なり、無意識にそんな思考に陥るかもしれないと思う。
公民権運動が広がった米国で、かつての黒人奴隷が「同じ人間として扱え」と差別反対を叫び始めたとき、きっと多くの白人は戸惑っただろう。女性が「差別するな」と抗議することにうっとうしさを感じるのは、それに似ている気がする。
そんな思考回路がきわまると、「インセル」になる。米国で起きた大量殺人事件で有名になった言葉だが、インボランタリー・セレベイト(望まない禁欲者、という意味だそうだ)の略称。あらゆる女は、男である自分の性的欲望をかなえなくてはならない。だから言うことをきかない女は殺す。
現実と向き合うための第一歩は
「フェミサイド」という言葉を使いたくない社会は、女性側の視点が抜け落ちた社会といえるのかもしれない。女と男は、同じ場所にいても全く別の世界を見ているからだ。
都内の25歳の女性は事件以降、自分のファッションを常に気にするようになったという。今日の格好が、「幸せそうな」「勝ち組の女性」に見えたらどうしよう。毎日家を出るたびに「一瞬だけど、必ずそう考える自分がいる」という言葉が突き刺さった。
私ですら夜道を帰宅するときは、「つけられていないか」と常に警戒し、携帯で誰かと通話するフリをし、持っている傘やバッグを振り回しながら歩く。
はたから見れば、自意識過剰で、こっけいな行動だ。でも条件反射のようにそうなる。
突然男に家に侵入されてレイプされた友人がいる。自分自身も、性の知識がない小学校低学年のころから、通りすがりの男に体を触られ、男性器を見せられてきた。
「そんなはずはない」と無邪気に信じては裏切られる、という学習を繰り返すうちに、最初から身構えるようになった。
男性に話すとびっくりされるが、女性にとって性暴力は珍しくもなんともない。実体験の積み重ねが、「世界は安全ではない」という感覚をもたらす。その皮膚感覚から、自由になれたことがない。「変質者扱いするな」と不愉快に思う男性もいるはずで申し訳ないと思いながら、骨身にしみた条件反射になっていることがとても悲しい。
だから時々、男であるというだけで性犯罪にあったり殺されたりする世界があったとしたら、男性も共感してくれるかも、と夢想する。
ここではたと気づいた。冒頭で私が驚いた、フランス国営放送が「フェミサイド」として伝えたニュース。内容は「DV夫が妻を殺した」という事件だった。フェミサイドは「女性への無差別殺人」の意味にとどまらないということだ。
小田急事件や江南駅事件は、無差別だったからこそ耳目を引いた。
でも、本質は「ジェンダーの不平等や、女性に対する蔑視や差別などを背景とした、女性への究極の暴力」なんだ。国連の定義が、なんとなく腑に落ちた。
「ガールズバーの客の男が女性経営者をメッタ刺し」「元交際相手の女性につきまとって殺害」……。
今日も女性が殺されたニュースが流れている。
被害者が男性だとしたら、果たしてこんな殺人事件は起きただろうか。
別に小田急事件が初めてじゃない。世界はフェミサイドであふれている。
出田阿生(いでた・あお)
新聞記者。1974年東京生まれ。小学校時代は長崎の漁村でも暮らす。愛知、埼玉県の地方支局を経て、東京で司法担当、多様なニュースを特集する「こちら特報部」という面や文化面を担当し、現在は再び埼玉で勤務中。「立派なおじさん記者」を目指した己の愚行に気づき、ここ10年はジェンダー問題が日々の関心事に。「不惑」の年代で惑いまくりつつ(おそらく死ぬまで)、いっそ面白がるしかないと開き直りました。
連載一覧
- 第1回 立派な「男」になろうとしていた私
- 第2回 被害者の声を聞く…それはフラワーデモから始まった
- 第3回 家父長制クソ食らえ
- 第4回 祖母の死とケア労働
- 第5回 「水着撮影会」問題を自分事として考える
- 第6回 ”何かになること”を押しつけられない社会へ
- 第7回 日本社会が認めたがらない言葉「フェミサイド」
- 第8回 アフターピルの市販化を阻むものは何か?
- 第9回 日本人女性の7割がその存在を知らない「中絶薬」
- 第10回 「社会はそんなに不公正ではない」と思いたい人たち