「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。
第九章 連鎖する事故物件……曰く付きの土地という存在 尾張藩下屋敷
建設現場から大量の人骨が出土
新型コロナウイルスが世間を賑わせていたころ、国立感染症研究所という施設の名前を、テレビや新聞で見た人は少なくあるまい。
しかし、この施設が建っている土地が、一種、曰く付きということを知っているのは一部の人であろうと思う。
実は、1989年7月、この研究所の建設現場から、百体を越す人骨が発見されたのである。
そこが旧陸軍軍医学校跡地であったことから、「731部隊等の戦争犯罪に関係があるのではないかと住民や研究者から指摘」されたということがあった(「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」HP)。
さらに2024年7月3日付け共同通信の配信をベースにしたweb記事はこう伝える。
「1989年7月、東京都新宿区の旧陸軍軍医学校跡地で見つかった大量の人骨について、市民団体が厚生労働省から開示を受けた文書に、旧関東軍防疫給水部(731部隊)との関連をうかがわせる複数の証言があったことが3日、分かった」
「厚労省が2001年にまとめた調査報告書は、人骨は標本類だったと推測した。ただ、731部隊との関連は、標本が海外から届いたことを否定する証言もあり『明らかにできなかった』とするにとどまった」(https://news.yahoo.co.jp/articles/2d5e6f0f4b87e6f122755059aa0b40c0a1bb90d2)。
時系列でまとめると、
1989年7月、国立感染症研究所建設現場(旧陸軍軍医学校跡地)で大量の人骨が出土した。
2001年にまとめた調査報告書によれば、先の人骨について、731部隊の戦争犯罪と関係があるという複数の証言があったものの、その信憑性については明らかにできなかった。
2024年7月3日、市民団体が厚労省に開示を求めることによって、2001年の調査報告書に、以上の証言が記されていたことがおおやけにされた。
要は、旧陸軍軍医学校跡地から大量に人骨が出土し、731部隊の戦争犯罪との関連が疑われたが、確証はないということだ。
731部隊といえば、第二次大戦時、石井四郎を指揮官として、捕虜を使っての凍傷実験、チフス実験など、さまざまな残酷な人体実験を行っていたと言われる悪名高い部隊である。
私は早稲田大学出身(1979~1983年在学)で、文学部の戸山キャンパスは、旧陸軍軍医学校跡地にほど近かったのであるが、当時から、陸軍医学校では人体実験が行われていたという噂があり、そこでは怪奇現象が起きるだの霊が出るだのといった話を聞いたことがある。いわゆる「心霊スポット」である。その手のことはあまり興味がないというか、(若いころはとくに)信じないたちであったが、折しも同部隊を素材とした森村誠一の『悪魔の飽食』が話題になっていたこともあり、ひょっとして……という思いもあった。
731部隊の前にも
だから人骨出土のニュースには、「やはり」という気持ちであった。
一体や二体ならともかく、百体を越す人骨があんな都会の土地から出土したというのには驚きと共に、何らかの事件性というか、犯罪性を考えないほうが不自然であろう。
しかも驚くべきは、調べるとこの土地、実は昔から曰く付きであったらしいことだ。
というのも今の国立感染症研究所を含む厚労省の戸山研究庁舎や新宿区立障害者福祉センター等に広がる巨大な敷地には、昭和初期、旧陸軍軍医学校があったわけだが、江戸時代、そこは尾張藩の江戸藩邸であった。
この、いわゆる戸山屋敷に、曰く付きの“社”があった。
江戸中期の奉行・根岸鎮衛<やすもり>(1737~1815)の随筆『耳袋<みみぶくろ>』巻之十(本によっては巻之九)によると、戸山屋敷は名だたる広大さで、東海道五十三次の様子を模した庭園や山水の眺望が類を見ず、いつのころだったか、将軍のお成りが計画された。そこで前もって、幕府の関係者がこの屋敷の調査をすることになって、屋敷の係が案内をした。その際、片田舎を再現した庭園の一角に、いかにも古い社があり、しかも錠を差してあった。調査役の頭取をつとめていたのは夏目某という気丈な人で、
「この社はなぜ錠が差してあるのか」
と問うと、屋敷の係が、
「これは昔から“邪神”を封じ込めたという言い伝えがあって、この錠を開けたことはないのです」
と笑いながら答えた。すると夏目某は、
「そんなことはまかり通らぬ。将軍のお成りのために、我々が下見に参ったからには、ひょっとしてこの錠について将軍からお尋ねがないとは限らぬので、一度見ておきたい」
と言う。係の者は強く止めたものの、中を確かめたいという言い分ももっともなので鍵を渡し、夏目某が中を見たところ、“大きに驚きたる”様子で、早々に扉を閉めて、もとのように錠を差した。あとで聞くと、
「何か真っ黒なものが頭をぐっと差し出したが、目の光があたりを照らして、恐ろしいことこの上なかった」
と、夏目某は語ったという。
ただし著者の根岸鎮衛は、
「思うに“怪”ではなかろう。みだりに口にしてはまずい品を、先代が封じて社に入れて崇めていたのを、夏目が心得てこのように語ったのだろう」と、推測している。
“邪神”と名づけていることからすると、キリスト教のような、当時、邪教扱いされていた宗教に関するものを崇めていたのか、それとも西洋渡来の御禁制の品でも隠していたのだろうか。
係の者が笑いながら答えていたところも気になるところだ。
が、それ以上に気になるのは、731部隊の人体実験が行われていたというので、心霊スポットにもなっている戸山界隈に、江戸時代から怪異が伝えられていた、ということなのである。
戸山の歴史
ここで戸山の歴史について振り返ってみよう。
尾張藩の戸山屋敷は寛文九(1669)年から造営が始まった。当初は八万五千坪余だったのが、その後、近隣を買い増すなどして十三万六千坪という広大な屋敷となった(小寺武久『尾張藩江戸下屋敷の謎ーー虚構の町をもつ大名庭園』など)。
このもともとのメインの土地は、春日局の補佐役として活躍した祖心尼(彼女については拙著『くそじじいとくそばばあの日本史』でも触れた)が徳川家光から拝領したものだったが、彼女の孫娘と家光のあいだに生まれた千代姫が尾張藩二代藩主へ輿入れしたことから、尾張藩に譲られたものであった(小寺武久「戸山荘について」……新宿区立新宿歴史博物館『尾張徳川家戸山屋敷への招待』所収)。
江戸時代以前は、あたりは「牛込」氏を名乗る一族の地であった。それが、「徳川氏の江戸入国後、牛込氏の地は召し上げられ、新たに大名や寺社に再配分」された。牛込は今の神楽坂や早稲田、市谷など広大な土地で、このうち榎町・天神町にわたる地は大友氏が拝領。大友氏の断絶後は没収され、祐筆の大橋龍慶が拝領、龍慶死後は、祖心尼が拝領したという(国友温太『新宿・世界の繁華街』)。
ではそれ以前はと言うと、小寺氏によると、「下屋敷となる以前、ここには和田、戸山の両村があり、さらに中世には和田左衛門助義盛の領地であったとも伝えられて」おり、「庭内に取り込まれた鎮守社も、古くから和田戸明神と称されていた」という(小寺氏前掲書)。
つまり尾張藩の戸山屋敷のもともとの持ち主は和田義盛であったらしいのだ。
社は和田氏の鎮魂のために建てられた?
この和田義盛というのが大変な人物なのである。
どんな人物かというと、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、1180年、伊豆で挙兵して以来の御家人で、同年設置された侍所の初代別当という重臣であった。
ところが1199年頼朝が死去、1204年には二代鎌倉将軍であった頼家が北条氏によって殺され、三代将軍実朝の代であった1213年、和田一族は北条義時に無念のうちに滅ぼされてしまう。義盛はそんな和田一族の長老であった。北条氏は有力御家人の粛清を行っており、和田氏はその挑発に乗って、また本家の三浦氏も味方になると約束してくれたため、戦争を決意していた。ところが三浦氏の裏切りによって、計画は北条義時に筒抜けとなり、一族郎党二百三十人以上が死亡して、力を失うことになる。この戦いがいかに熾烈なものであったか、鎌倉時代の無住による『沙石集』巻第七ノ四(本によっては九ノ四)には、
“鬼・ここめの様なりし和田が一門”(悪鬼羅刹のようだった和田一門)
とあり、また同じ無住が80歳の時に記した『雑談集<ぞうたんしゅう>』(1305)第三巻にも、北条義時にとっての“三度ノ難”として、1219年の実朝暗殺時に犯人の公暁<くぎょう>に殺されそうになったことと、1221年の承久の乱で朝敵となったことと並び、和田合戦が挙げられていることからも分かる。
和田氏はそれほどの強敵であり、その抵抗は大きかったのだ。
鎌倉にある和田塚は、彼らの埋葬地と言われている。
東京の戸山にあった古い鎮守社も和田氏の霊を鎮めるために建てられたものではないか。
悪霊退散のために貼るお札のようなもので、それを外したり壊したりしては、まずいものだったのでは……。
いずれにしても、戸山の屋敷のメインの土地は、中世以前は(断絶した)和田氏、近世以前には(失脚した)牛込氏等のものであった。
尾張徳川家がそれだけ広大な土地を入手することができたのも、そこがいわゆる事故物件だったからではないか。
長い歴史からすれば、日本中どこもかしこも事故物件であろうとも思うのだが(とくに京都や鎌倉など、歴史のある土地は)、戸山の歴史を辿ると、曰く付きの土地とはこういうものか……という思いも一方ではある。
尾張徳川氏が社を大切に維持するなどし、三善清行ややましたひでこよろしく敬意をもって土地に接することで、凶宅転じて福となっていたのだろう。
が、731部隊は、当然ながらそこいらへんの意識が欠けていた。欠けていたばかりか、捕虜を実験台にするようなことをした。そこが心霊スポットと呼ばれるようになったのも、いわれ無きことではなかったのである。
大塚ひかり(おおつか・ひかり)
1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。