初めての現場
虐待事件の発生現場へ
カリフォルニア大学デービス校獣医学部の大学院生で、シェルターメディスンを学んでいた私は、その日も、いつものように動物シェルターに研究材料の採取をしに行こうと朝、大学に出かけました。
当時は「動物シェルターにくると何故猫はみんな病気になっていくのか」というテーマで、猫とストレスと病気の因果関係を調べるために毎日のように動物シェルターに通っていました。動物シェルターには様々な理由で動物達が集まってきますが、その中でも「動物虐待」の占める割合は意外と多く、日々、虐待の被害にあった動物達を目の当たりにしていました。
研究室で大学近くの動物シェルタ―に行く準備をしていたら、ボス(シェルターメディスンの第一人者)が話しかけてきました。「虐待疑いの犬の検証依頼が来てるんだけど、一緒に来る?」。私は当時、とにかくすべてが勉強で、すべてを吸収しようと必死でしたので、二つ返事で「行きます!」と言って、ボスの車に乗り込み、「虐待疑いの犬」がいるという現場に一緒に行かせてもらいました。
虐待された動物を「シェルター」でみることはあっても、実際の発生現場に行くのはこれが初めてでした。アメリカでは、当時から動物虐待の判断には、獣医師の意見が重要視されており、現場に大学から法獣医学の専門家が警察や行政職員と帯同して、虐待の疑いのある動物の評価を依頼されることは、獣医科大学の社会貢献の一環としても当たり前の業務でもありました。
小学3年生の男の子
その現場は、閑静な住宅街にある庭付きのごく一般的な一軒家でした。私達が行政職員について敷地内に入ると、裏庭にごく一般的な専業主婦のお母さんが茫然と立ちすくんでいて、そばに小学校3年生の男の子がじっと庭先の花壇を見ていました。
私も花壇の方に目をやると、子犬が横たわっていて、その時はまだその子犬が死んでいるのか生きているのか、何が起こったのかはわかりませんでしたが、異様な雰囲気であったことは鮮明に覚えています。どうやら事件発生から間もなかったようで、現場は手つかずの状態で、警察もまだ来ていませんでした。
間もなく警察が登場し、一緒に検証を始めることになりました。まず、獣医師の役割は、その動物の生死の確認ですが、庭先の花壇に横たわっていた雑種の子犬は残念ながら、もう息はしておらず既に死亡していました。
その子犬が頭から尻尾の先まで水浸しであったことがとても不自然でした。現場検証を行っていた警察が家族に話を聞いて、どうやら、小学3年生の男の子が子犬を殺してしまったということが分かりました。
「お仕置きするためにお湯をかけてやったんだ」
まだ小児でもあったことから、行政のカウンセラーに付き添ってもらいながら、動物シェルター(このシェルターは行政機関でしたので、いわゆる保健所のような場所です)で面談をすることとなり、私はそこにも立ち会わせてもらうことになりました。亡くなった子犬も、司法解剖をするために、動物シェルターに連れてきました。
動物シェルターでの男の子の面談では、カウンセラーが「何が起こったのか教えてくれるかな?」と優しい口調で話しをし始めました。すると、男の子はカウンセラーをにらみながら、「僕が一生懸命頑張って庭に花壇を作ったんだ。そこに、犬が勝手に入ってきて、ぐちゃぐちゃにしたんだ。だから、僕は怒って、お仕置きをするためにお湯をかけてやったんだ」と言いました。
アメリカの小学校3年生というと、8歳から9歳です。カウンセラーが、「お湯を自分で持ってきたの? 火傷はしなかった? 大丈夫?」と言うと、男の子は「僕は火傷しなかったよ。でも、犬は僕の花壇を壊したから、罰で火傷して死んじゃった」と言いました。(この男の子は犬が死ぬと分かっていて、お湯をかけたのか……?)と思ったら、純粋無垢に見える小学生の男の子なのに、なぜか異様にぞっとしてしまいました。
獣医師の役割
私は今でも様々な動物虐待に対応することがありますが、被害を受けた動物と対峙し、虐待を見逃さないことが自分の仕事と思っており、加害者と対峙することはほとんどありません(例外はたまにありますが)。
それはやはり、役割が違うということと、この事件を経験して加害者と対峙するということは獣医師の範疇ではないと痛感したからです。餅は餅屋で、獣医師は、やはり獣医師の仕事に徹し、常に動物の専門家であるべきだと考えています。ですが、獣医師も動物を通して人を救うこともできるのではないか、とも考えています。
亡くなってしまった子犬は、後日司法解剖して、やはり、重度の火傷が原因で死亡したことが分かりました。その後、その男の子がどのような処遇を受けたのかは、わかりません。ですが、それはわかる必要はなく、獣医師は被害を受けた動物についての専門的知見を提供することが仕事なので、事件の後追いをする必要はないと考えています。
動物虐待は対人暴力にリンクする
これは、私の初めての現場ということで、事件の概要や現場は20年近く経っても鮮明に覚えています。そして、どうしても忘れられなくなった理由がもう一つあります。
この事件後、また日常に戻り、日々大学と動物シェルターに通う毎日が続き、7~8年ほど経ったある日、研究室で作業をしていたら、ボスが「Aki、ずっと前に犬が花壇を荒らして怒った子供がお湯をかけて殺しちゃった事件、覚えてる?」と話しかけてきました。
「初めての現場だったから、よく覚えていますよ。カウンセリングにも同席させていただいて、とても衝撃的でした」と言ったら、「あの男の子、高校生になって、この間お母さんを殴り殺しちゃったみたい」と。
一瞬まさか、と耳を疑いましたが、動物虐待と対人暴力のリンクについては、既に周知されている事であり、動物虐待が凶悪犯罪の前兆だということも多くの事件で明らかとなっています。私も、あの時に感じた異様な雰囲気や「ぞっと」した感覚は今でも覚えていますが、動物虐待の次に、対人暴力がくると分かっていても、あの時に何ができたのか、お母さんも殺してしまう前に、何か防ぐ手立てはあったのかというのは、今でも私の中で自問自答していますが、未だに答えが出ません。
結局、行きつくところは、やはり動物虐待を見過ごさない社会にしていく、動物の問題を身近に感じる社会を目指す、私達獣医師の役割はそこに尽きると考えています。それにはまず、動物自体が私達の生活に身近な存在でいなければならないと思っています。
動物が私達の社会の中にごく自然に当たり前にいる存在であれば、動物に関する様々な問題がより身近に感じ、見過ごすことがなくなり、例えば、動物虐待から対人暴力への移行もどこかの段階で防ぐ手段も見いだせるのではと考えています。まだまだ道のりは長いかもしれませんが、これからも挑戦し続けたいと思います!
(第5回に続く)
田中亜紀
獣医師。日本獣医生命科学大学特任教授。1974年、東京生まれ。1998年、日本獣医生命科学大学卒業。動物病院勤務を経て2001年に渡米。カルフォルニア大学デービス校(UCD)獣医学部でシェルターメディスンと災害獣医学の研究をテーマに博士課程終了。博士(疫学)。「シェルターメディスン」とは保護施設(シェルター)における動物の健康管理についての研究。2020年2月に「日本法獣医学会」を立ち上げる。
イラスト 白尾可奈子/写真 安海関二
連載一覧
- 第1回 法獣医学にたどり着くまで ―私の原点―
- 第2回 法獣医学にたどり着くまで ―シェルターメディスンとの出会い―
- 第3回 初めての多頭飼育崩壊
- 第4回 初めての現場