「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。
第五章 池袋の女 家に怪異をもたらす人間とは
池袋の女
2024年3月、拙著『傷だらけの光源氏』の刊行記念として、池袋のジュンク堂書店にて、辛酸なめ子さんをゲストにお迎えし、トークイベントを開催した。
辛酸さんは拙著を丁寧に読み込んだ上で、鋭い質問をたくさん用意して下さったばかりか、生霊は自身が意識して飛ばすものと無意識に飛んでしまうものがあると教えて下さるなど、とても楽しく刺激的なひとときを過ごすことができ、ますます辛酸さんのファンになった。貴重な労力を割いて会場にいらして下さった方々、オンラインをご視聴下さった方々にも、この場を借りてお礼申し上げたい。
さて、このイベントの最後のほうで、池袋はやばいという話になった。
私はサンシャインシティがもとは巣鴨プリズンだったことなどを指してそう言ったのだが、辛酸さんがおっしゃるには、
「江戸時代には、池袋の女を雇うと怪異があるという都市伝説のようなものがあったそうです。一説によると、池袋の土地の神様が氏子を大事にするあまり、よそに出て行くことを惜しんで、怪異を起こしたといいます」
大変興味深い話で、帰宅後早速調べたところ、町奉行だった根岸鎮衛による雑話集『耳袋』(江戸後期)巻の二に「池尻村の女召仕(ママ)うまじき事」として、こんな話が載っていた。
池尻村(今の世田谷区池尻)生まれの女を召し使うと、必ず怪異があると伝えられていた。著者(根岸鎮衛)が評定所留役を勤めていたころ、同所の書役(評定所で書類の清書を司る)に大竹栄蔵という者がいたが、彼の親の代に不思議なことがあって、それは池尻村の女のせいだという。享保(本によっては寛保)延享のころであったか、栄蔵方にて、ふと天井の上で、大石が落ちたほどの音がして、天井が騒がしいので人を入れて見たところ、何も怪しいことはないものの、天井へ上る者の顔がススで黒くなっていた。その他、灯火などが折節しぜんと出ることもあったので、火の元を恐れ、神主・山伏に依頼し、色々と祈祷したものの、効果がない。ある老人がこれを聞いて、
「もしや池袋・池尻あたりの女を召し使われておいでではないか」
と尋ねたため、召し使う女を調べたところ、池尻の者の由を申したため、さっそく暇をつかわした。するとその後は怪異がやんだ。池尻村の産土神は、甚だ氏子を惜しむため、その場所の女がよそへ行って、誰かがその女と交わったりすると、必ず“妖怪”があると聞き伝えている。と、老人は語った。そのころ栄蔵は幼少だったが、彼の親がそうした女を“侵<ママ>しける事ありしや”(犯したことがあったのだろうか)と、栄蔵は語ったという。
産土神が氏子を惜しむなら、池尻や池袋の男と交わっても怪異があってもよさそうなのに、女限定であるのが不思議である(この疑問については、あとで述べるように、私なりの仮説というか答がある)。
同類の話は、小日向水道端(文京区小日向)の廓然寺住職・十方庵敬順の『遊歴雑記』(江戸後期)第四編の上にも、あった。
それによると、秩父郡の“三害”として、“子<ね>ブツテウ”“ナマタコ”“お崎狐”がある、と。どれも憑き物の類いで、この三害の家筋に生まれた者は、忌み嫌われて結婚も避けられた。
中でもお崎狐というのは、狐の憑き物というのだが……。
東武小日向上水端の御持筒組の与力・高須鍋五郎方に、練馬の者という22、3の下女がいた。実家は池袋村の百姓で、江戸者ではないが江戸馴れて、かいがいしく、容姿も相応の生まれつきであった。この女に鍋五郎が手をつけたところ、あるたそがれ時、勝手口に人の話し声がしたので、その下女が出て見るなり、わっと声をあげて駆け込んできた。どうしたのかと尋ねると、下女が言うには、台所の入り口に、いかにも背の高い男が、手ぬぐいで頬かぶりして、すっくと立っていたと、震えながら言う。
これは曲者かと鍋五郎が出てみると、誰もいない。あちこち探してもいないのだが、そのうち屋根や雨戸に石をばらばらと打つ音がする。人影は見えずに石の投げる音が深夜になってもやまない。
3日間、昼夜を問わずまるでやまなかったのだが、南隣の者の養父の助言により、下女に暇を出したところ、怪事がぴたりとやんだ。
後で思うに、この怪事のあるあいだ、家の者は皆恐怖して夜明けまで眠れなかったのに、その下女だけはいつものように熟睡していた。
この下女はお崎狐の家筋の子孫で、鍋五郎が彼女を犯したため、こんな怪事が起きたのではないかという(四十八)。
ここでもまた女限定だ。
しかも、『耳袋』の報告する池尻村の女同様、主人に犯されている。
私が『遊歴雑記』のこの話を知ったのは柳田国男の『巫女考』によってで、それによれば、
「池袋の村民はそれは自分の村では無く少し離れた沼袋村の事だと主張する」という(『定本柳田國男集』第九巻所収)。
あるいは目黒辺の某村のことともいい、いずれにしても「東京に近い村に妙な心理上の威力を有する部落があること」だけは確かであるという。
要は、兼業巫女のような存在が心理的な威力を発揮しているというのだが、一方で、池袋の一村が狐憑きの家筋というのは根拠のない想像であって、こんな災いを人にもたらすのは狐憑きの家に違いなかろうという偏見から出た説であろう、ともいう。
江戸時代の下女は犯していい存在
池袋の女に関しては、果たしてそれが巫女的な存在だったのか、はたまた産土神がよそに出て行く女を惜しんで、彼女と交わる者に祟りをなしたのか、私にはとんと分からないのだが、気になるのは『耳袋』の池尻の女、『遊歴雑記』の池袋の女が、いずれも下女として雇われた上、そこの主人に犯されていることだ。
現代なら、従業員を犯すなど言語道断の犯罪だが、実は江戸時代、下女は「犯されて当然」「犯してもいい存在」と見られていた。
ということを、拙著『ジェンダーレスの日本史』を書いている時、下女について調べて知って、愕然としたことがある。
江戸時代の川柳には、下女が望まぬ妊娠をする句が多く、さらにレイプや集団レイプとなると、数え切れないほどたくさん詠まれている。
前掲の拙著では、当初それをたくさんあげつらい、一章として独立させていたのだが、編集部から「あまりに過酷すぎて読むのがつらい」と言われ、私自身も掲載に迷いがあったため、「前近代の性の闇」として、男色の闇などと共に軽く紹介するに留めたといういきさつがあった。この時没にした川柳を、手持ちの『誹風末摘花』(青木信光編『浮世絵・川柳 末摘花』)等からいくつか紹介しよう。
“かたい下女むしつてやれと男ども”
お堅い下女を犯してやろうと男どもが襲うのである。
“ぬか袋頬張りて下女腹が抜け”
これは『浮世絵・川柳 末摘花』の注によると、「湯帰りに輪姦されたるなり。ぬか袋を頬張るは、猿轡に用ひたるなり」とのこと。銭湯帰りに輪姦され、しかも体を洗うためのぬか袋が猿ぐつわに使われている。
“八九人頬破りして下女を待ち”
八、九人の男が輪姦しようと下女を待ち伏せしている。
“むごい事下女胯ぐらを明け渡し”
文字通り、下女が股ぐらを明け渡してしまっている。
“一番づゝで堪忍と下女詫びる”
輪姦される下女が「せめて一人一回ずつにして」と懇願している。
“災難は替りごつこに下女される”
かわりばんこに下女がされている。これも輪姦だ。
以下は、岡田甫編『定本誹風末摘花』より。
“おりかさなつて下女をするむごい事”
これも輪姦。
“もうおれハいやだと下女を替り合”
輪姦しているうち、男が飽きてしまい、「もう俺はいい」となって交替しているわけだ。
こうして並べると、改めて胸が悪くなってくる。
なぜこんなにも下女はレイプされてしまうのか。
男尊女卑の考え方に加え、下女は家の所有物で、犯していい存在という階級意識があったということがあろう。
『誹風末摘花』には、
“入聟は下女と一緒に追ン出され”
“下女に腹ふり向けられる馬鹿つつら”(以上『浮世絵・川柳 末摘花』)
“おつとりへのこで欠付<ママ>下女をする”
“四ツ目やの心見に下女される也”(以上『定本誹風末摘花』)
など、下女とのセックスや妊娠の句が数えきれぬほどある。
おっとり刀(大急ぎで刀を取って駆けつけること)ならぬ、おっとりへのこで下女を犯すのだ。
また、四目屋とは、両国にあった性具や性薬の店で、下女はその実験台、試し斬りならぬ試しセックスにも使われたのである。
下女は好色で、犯されるのを待っているというニュアンスの句も多々ある。
“あたる者さいわゐに下女させる也”
下女はさせ子と思われていたのである。
中でも今の神奈川県、相模出身の下女は好色というレッテルを貼られていた。
“重宝な穴のあいてる相模下女”
“相模下女へのこ出入になれたもの”
相模下女は人間ではなく、性器そのものと見られていたふしがある。
さらに簡単にさせると思われていたため、相手にするのはつまらぬと言う男もいたらしい。
“下女などは手がるいなどゝ色男”
下女のほうでも、色男は御免だという向きもあったと考えられていたのか、
“色男くふにやたりぬと相模下女”
という句もある。
(以上、同前)
それにしてもなぜ相模なのか。
『人国記』という今でいう県民性辞典のようなものが江戸時代に出版(成立は室町時代とも言われるが不明)されており、その「相模」の項にも、
“常に栄花を好み、好味を求めて酒色を翫ぶ風儀、十人に八、九人かくの如くなり”(『人国記』巻之上)
とあり、相模の人は美食や飲酒、色事が大好きな者が多いという偏見をもたれていたようだ。
平安中期の歌人の相模が藤原定頼と通じて離婚騒ぎを起こしたことなどが影響しているのか。しかしこの程度の好色な女性は平安時代には掃いて捨てるほどいるので、相模の下女が好色とされる根拠は不明である。
「池袋の女」伝説は、犯される下女側の防衛の結果か
このように、江戸時代の下女が、人権はないも同然の扱いを受けていたことを、「池袋の女」と考え合わせるに、池袋や沼袋といった、そこの土地出身の女を犯すと怪事が起きるという話は、彼女たちを守りたいと思った土地の人々が流した防衛的な都市伝説、あるいは実際に彼女たちを守るため村の男が出動した結果、流布したものではなかったろうか(下女自身がそうした噂を利用して自己防衛的に工作した可能性もあるかもしれない)。
それなら女限定であるのも合点がいく。男でも寺のチゴなどは犯されただろうし、下男でも無理に性交を結ばれされることはあっただろうが、その頻度は女に比べて少なかろうし、川柳を見る限り犯されるのは下女ばかりと言っていい。
そういう意味では、産土神が氏子を惜しんでのことという『耳袋』の説明は合点がいく。要は、池袋や池尻の人々が、その土地出身の女を大事に思い、守ろうとしたのを、産土神と言い換えたのだろうと私は解釈する。
一方、巫女とか憑き物とどう関係するのかはよく分からない(あるいはそうした信仰が衰退した結果、妙な偏見が強化されたのだろうか)。
「池袋の女」の伝説とは、下女奉公に出る江戸近郊の娘を守るための都市伝説ではないかと思うのだ。
ただ事故物件の日本史的に言うと、巫女とか憑き物といった筋の解釈のほうが興味深い。
先の池袋の女を犯した時の怪異を報告した『遊歴雑記』の言う、お崎狐の憑いている家筋の者の屋敷は、今回のテーマを考える際に示唆的な、曰く付きの存在だからである。
繁栄か滅亡か……お崎狐を祀る家の果て
『遊歴雑記』が言うには、お崎狐を信じて家で“飼祭れば”身代が上向く一方で、もしもその家が衰える時節に至ると、最初より百倍も貧しくなる。この狐を飼いだすと、いったんは裕福になっても、もとは狐のもたらしたものなので、身代が衰微すると、家財を売り尽くし、水も飲みかね、親子兄弟は別れ別れになってその家を捨て、逃げ退く者もあるという(第四編の上 四十八)。
要は、狐憑きの家は、極端に富裕にも貧しくもなるというのだ。
そしてその家に所属する者は、他家のほしいと思ったものを奪い取るとも考えられていたため忌み嫌われていた。池袋や池尻の女と交わると怪異が起きるというのは、こうした憑き物筋の考え方が一つにはあった。
ただし、彼女らを憑き物筋の家の者としたのは、あくまで外部の者だろう。
狐憑きの家筋が差別されていた当時、自らそうした家筋の者だと触れて回ることは考えにくいからだ。
いずれにしても、下女はあちこちから来るだろうに、なぜ池袋や池尻なのか。「池」というのがポイントなのか。だとすると水の神か何かが関わっているのか……「池袋の女」の謎は奥が深そうだ。
大塚ひかり(おおつか・ひかり)
1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。
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