普段着としての名著【第1回】僕がプレゼントした花束が潜在的なゴミだった理由と『贈与論』|室越龍之介

人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!

【第1回】僕がプレゼントした花束が潜在的なゴミだった理由と『贈与論』

「花は潜在的なゴミである」と僕のプレゼントを評されたことがある。
なぜこんなことを言われるに至ったか。
順を追って話そう。
僕は福岡に住む大学生だった。朝から晩まで授業を詰め込んでいたし、アルバイトも大学構内の雑用を引き受けていたので、ほとんど大学のあたりで生活が終始していた。大学まで徒歩5分の家で一人暮らしをしていたので、僕の家は友人たちの溜まり場となっていた。毎日のように友人たちと食事したり、酒を飲んだりしていたものの、人間関係に広がりはなかった。気の合う友人たちとの気ままな時間。特に浮いた話もなく、ぼんやりと日々を過ごしていたのだった。
だが、そんな灰色の日々にも終わりが来るものである。
ある日、僕は別の大学の友人に誘われるまま、アート展示会に行った。学生が趣味的にやっている展示会で、その交流イベントの頭数合わせに行ったのだったのではないかと思う。よく覚えていない。
僕は生来出不精である。人に誘われて外にでるとき、いつもどこか居心地が悪い。おまけに人見知りである。人のたくさんいるところは、それだけで精神力を削られていくようだった。誘われたままに来てみたものの、僕は後悔し始めていた。
なんとなく不機嫌なまま突っ立っていると、友人が一人の女性を連れてきた。「よその大学の友達だ」という。背のすらっと高い、色の白い人で、ラフな感じにオーバーサイズのカットソーを着ていた。どちらかといえば、このイベントの参加者として馴染んでいる様子だったにも関わらず、彼女も居心地が悪そうな様子だった。
友人は「この人の家には漫画や本がたくさんある」と僕のことを紹介した。
彼女はそれを聞くと目を輝かせ、自分の好きな小説家や漫画の話を始めた。会話が滑らかに進んでいく。僕にはそれがとても魅力的に思えた。ストレスなく会話ができるというのは、僕にとってとても重要なことだったので。
なんとはなしに本の貸し借りの約束をし、その日は別れた。
後日、本当に本を貸すために、再びその人に会うことになった。そしてまた、本を返して貰うために会い、新しい本を貸した。僕から本を何度か貸しているうちに、彼女はお返しに僕の知らない作家の本を貸してくれるようになった。
貸したり借りたりが続いているうちにほどなく、お互いの家に行って、本棚から本や漫画を勝手に抜き取り、次の週にそれを返す、といった間柄になった。本や漫画について深夜まで話し込んでは、彼女の家まで送って行った。
僕は毎週のように彼女に会うのが楽しみになった。むしろそのために一週間を生活しているようだった。
僕からみて彼女はとても美しかったし、一緒に過ごす時間は楽しかった。僕は彼女のことが好きだった。だが、残念なことに僕にそれをうまく表現する能力がなかった。
そんな中、僕が彼女への好意を募らせていることに関して、忠告してくれる者も現れた。僕が彼女とよく会うようになったことに気がついた友人は「あの子が頻繁に会っている男はお前だけではない。お前も彼女に拘泥してはいけない」というようなことを言った。確かに、彼女は人目を引くほどの美人だったので、彼女に惹かれる人間も僕ばかりではあるまいとは思ってはいた。まあ、真偽のほどはよくわからない。いずれにせよ、この件で僕が傷つかないよう友人なりの気遣いだったのだろう。彼にしてみれば、僕が張り込んでいるのは、勝てる見込みのないゲームだったのだ。
だが、えてしてこの種のアドバイスはうまく機能しない。僕は助言について深く考えることはなかったし、彼女とのやりとりはそのまま続いた。
今となっては、彼女が僕のことをどう思っていたか、確かなことはわからない。友達だとは思ってくれていたかもしれない。しかし、少なくとも恋愛関係としては、僕の一方的な片思いだった。
二十歳そこそこの僕は愚かであった。自分を友人と見てくれている人を恋愛関係に巻き込むということの「暴力性」について、あまり深く考えてはいなかった。考えていなかったので、僕は彼女と恋愛関係に進みたい、という気持ちを持つようになった。
その一方で、僕には一気に交際を直談判するという勇気はなかった。もう少し漸進的に物事を運んでいきたかった。頭を捻った結果、思いついたのは、プレゼントをするのがよかろうということだった。
その日は、彼女の誕生日だったか、バレンタインデーだったか。とにかく、プレゼントをする口実のある日であった。福岡市の繁華街を歩いていた僕はふと見かけた花屋で花瓶を見つけた。華奢ですっと伸びていて美しいガラス製。僕はこれをプレゼントとすることに決めた。
花瓶だけをラッピングしてもらうのも変だと思った僕は、花屋に小さな花束を作ってもらった。バラを一輪と周りにそれを彩るよういくつかの花を入れてもらう。花瓶に活けられた花束を持ち、僕は意気揚々と自分の家に引き上げた。彼女が夕食を食べに僕の部屋に来る約束になっていたからだ。
彼女は僕の家にやってきて、一緒に夕食を食べた。
僕は満を持して、花束をプレゼントした。
彼女は花束を受け取ると、「花かよ!」という表情をした。
僕は自分がプレゼント選択を失敗したと悟った。
彼女は困っているような顔つきのまま、プレゼントにお礼を言った後、言葉を選んでいるように逡巡した。
表情通り「花かよ!」と伝えるのは、いささか直截に過ぎるので言うには憚られる。プレゼント選びが失敗であるということは伝えたいが、上手い言葉を見つけられないという様子だった。
ようやくためらいがちに「花というのはプレゼントとして…」とか「花は手入れが大変である」とかしばらくポツポツと話した後に、えいや!といった感じで「花は潜在的なゴミだ」というようなことを言った。
長い時間をかけて上手い言葉を探した割に、あまりに婉曲になっていない言葉選びに思わず二人で笑ってしまった。
彼女の言い分もわかる。
まず、花はプレゼントとして賛否が分かれる。姿や色味の好みもある。それに香りの好みもある。高価なわけでないし、なにかの用途に使えるわけでもない。その上、貰ってしまったが最後、手入れがとても面倒だ。
そして、いずれ枯れる。
枯れてしまえば捨てるしかない。ゴミになってしまう。
いずれゴミになってしまうのだから、「潜在的なゴミ」というのは言い得て妙だった。

マルセル・モースと贈り物の不思議

そんな気まずい夜を忘れて生活していたある日、僕は一冊の本を読んだ。
『贈与論』というタイトルで、「アルカイックな社会における交換の形態と理由」という副題が付いている。
マルセル・モースというフランスの文化人類学者が書いた本だ。古い本でフランス語での初出版は1925年。
アルカイックというのは、「古代の」という意味の言葉だ。ただ、同じく古いものを指すのに使う「クラシック」が「完全な」というニュアンスがあるのに対し、アルカイックという言葉には「未完成の」というニュアンスがあるらしい。
つまり、アルカイックな社会とはモースが生きた西欧近代と対比して、未熟な社会というわけだ。
この本の中で取り上げられるアルカイックな社会というのは、古代ローマ、ゲルマン、古代インドのことで、これらの古い時代の法や規範を丹念に検討している。そして、モースは歴史を紐解くだけにとどまらない。同時に、ほかの人類学者がフィールドワークを通して収集した同時代の非西欧社会の事例も取り上げた。メラネシア、ポリネシア、アメリカ北西部太平洋沿岸地域などの社会だ。
モースはこの本の中で、古今東西の非西欧社会の事例を検討し、「贈り物をする」ということについて新しい見方を僕に示した。

交換と贈与

僕たちが「何かモノが欲しい」と思ったとき普通はどうするだろうか。
お店に行って購入する、というのが一般的なのではないかと思う。
これに対して、売買以外にもモノを手にいれる方法がある、という方もいるだろう。例えば、自分が作った米を漁師さんのところへ持って行き、魚と交換してもらう。いわゆる「物々交換」だ。モノとモノを直接交換すれば、売買しなくても良い。
確かに、売買と物々交換は確かに違うやり方に思える。でも、果たしてそうだろうか。米と魚を交換する、といっても米一俵とイワシ一匹を交換したりはしない。だいたいこれくらいの量の米とこれくらいの量の魚という風におおよその交換比率が決まっているはずだ。
物々交換ではおおよそ同じ価値を持ったモノを交換する。等価交換というわけだ。
つまり、売買と物々交換は実は似たようなものだ。同じような価値を持つものを等価交換するとき、貨幣を経由するかしないかの違いでしかない。
では、売買や物々交換のような等価交換の以外にもモノを手にいれる方法なんてあるのだろうか。
実は、ある。
それが「贈与」だ。
つまり、欲しいものがあれば、贈り物を受け取ればよい。
「欲しいものを手に入れるに贈り物を待つのは馬鹿げている」と思われるかもしれない。
だが、贈与を応答する機会は日常に溢れている。
例えば、年中行事だ。
代表的なのはお正月に渡されるお年玉で、年長者から年少者へ金品が贈与される。若い世代ではあまり馴染みのないものかもしれないが、お盆の時期にやり取りされるお中元や年末にやり取りされるお歳暮も仕事上の知人や親戚に贈り物をする習慣だ。他にも、出生祝いも七五三も成人式、結婚式、葬式と人生の節目に様々な名目で贈り物をする。
社会の中には、そういう「贈り物をする」契機がもともと組み込まれている。
モースの検討したあらゆる社会でそうだ。
だが、贈り物を貰ってしまって、ハイ終わり!というわけにはいかない。
出生祝いには内祝いといってお返しをするし、結婚式では引き出物が配られる。お中元やお歳暮も貰いっぱなしではない。受け取ったからにはこちらからも贈り返す。
つまり、贈り物を貰えば、返礼をしなければならないわけだ。
では、お返しをしたくないから貰わなければよい、とあなたは言うかもしれない。
しかし、モースはそれもダメだという。
贈り物を断るというのは、多くの社会で相手に対する敵意として理解される。波風を立てないようにするには、贈られたものは受け入れないといけない。
それなら、どうでもいいもの、なにか無価値なものをお返しすれば、とあなたは思いつくかもしれない。
それもだめだ。
返礼品は贈り物と同じような価値を持つかそれ以上の価値を持たなければならないとモースは言う。
例えば、あなたが友人から誕生日に高級品を貰い、その友人の誕生日に100円均一の商品を贈ってはいけないのと同じである。もしそんなことをすれば、周りの人々はあなたのことをケチで性悪な人間だと考えるだろう。
贈り物と返礼品は等価である必要があるのだ。
そう考えると、売買や物物交換と贈与を通した交換は結局同じであるとあなたは言うかもしれない。どちらも同じ価値を持つものを交換しているのだから。
では、どこが違うのだろうか。
売買のような交換においては、対価を要求することがルールとして正当である。つまり、お金を払って商品を受け取れなければ、裁判を起こすことができる。だが、贈与の場合はそうはいかない。返礼品を贈ることはあくまでもマナーや倫理の問題であって、ルールの問題ではない。「あなたにこれを贈ったのだから、あなたはあれを返礼しなくてはならない」と要求することは正当ではない。この正当性の有無こそが普通の交換と贈与交換の大きな違いだ。贈与は法的義務を負うからではなく、自発的に行わなければならない。
まとめるとこうだ。
モースは様々な社会の事例を検討する中で、「贈り物には返礼をしなければならない」「返礼は貰った贈り物と同じ価値かより高価なものでなければならない」といったマナーやタブー(禁忌)が多くの社会で普遍的に存在することに気がついた。
そして、モースは続ける。
このマナーによって、贈り物は二つのことを可能にする。
一つは、人間と人間を親密にさせること。もう一つは、人間に人間を支配させることだ。

贈与による支配

一つ目の人間と人間を親密にする、というのは想像しやすいだろう。
贈り物を交換することはコミュニケーションを促す。遠方に住む友人からプレゼントが届けば、あなたはただ受け取ったりしないはずだ。電話をかけて、プレゼントの到着を報告して、雑談でもするのではないか。
贈り物とそれに対する返礼が続けば、相手は「貰い得」を良しとするような悪人ではないことが明らかになる。あなたは相手を信頼する。
コミュニケーションと信頼を通して人間と人間は仲良くなっていく。
もう一つの贈り物をすることで相手を支配する、というのは直感的にはわかりにくいかもしれない。
お年玉の例を見てみよう。お年玉は年長者から若年者に渡される。だけれども、これまでの贈与のルールとは違い、若年者は年長者に返礼する義務はない。大人と子供は経済的格差があるから仕方ないと言われるかもしれない。だが、落語家やお笑い芸人なども、師匠が弟子にお年玉を与える。収入が逆転しても同じことだ。そして、同じく返礼の義務はない。
大人と子供、師匠と弟子のように、従属関係が決まっているとき、返礼の義務はない。贈与を通した分配は一方的に行われる。
例えば、モースは“ポトラッチ”という宗教儀礼を紹介している。
ポトラッチとは北米先住民の習慣だ。社会的地位の高い人物は、時々宴会を開き、招いたお客に対して、これまで貯めてきた財産を惜しみなく振る舞う。
招かれた客は別の機会にやはりポトラッチを行い、財産を客に与える。
この時、振る舞った財産が多ければ多いほど、みんなに尊敬され社会的地位を得る。そして、贈り物に十分な返礼をすることができない者は奴隷になってしまったという。
価値の高い贈り物は、相手との間に上下関係を作り出す。贈り物を返礼できなければ、上下関係は覆すことができなくなり、相手の方が絶対的に偉いということを認めなければならなくなる。

従って、贈り物を贈ることには、もともと他人を支配したいという欲望が含まれる。モースはこれを「基底的な他者支配への志向」と呼んだ。
ルマン系諸語ではGiftという単語が、「贈り物」という意味と「毒」という意味を持つという。贈り物の持つ二面性をゲルマン人は的確に把握していたわけだ。

なぜ「花は潜在的なゴミ」なのか?

さて、僕が思うにこういうことだ。
「贈り物をもらったら、返礼をしなければならない」
「返礼できない者は劣位に置かれる」
これは人間が持つ贈与という習慣の普遍的なルールだ。
そして、このルールは贈与に二面性をもたらす。
つまり、親密さと支配という二つの面だ。プレゼントは、仲良くなろうというメッセージを持ちうるし、お前を支配してやるというメッセージにもなりうる。
『贈与論』を読み終わり、僕はハッと彼女にプレゼントした花束のことを思い出した。
なぜ彼女は「花は潜在的なゴミである」と言ったのか?
僕は彼女と仲良くなりたくて、プレゼントを送った。これはモースに聞くまでもないことだが、贈り物の持つ能力の一つを使ったことになる。
だが、問題は「なぜそのプレゼントはゴミとされたのか?」である。
思うに、彼女は僕に支配されたくなかったのである。「プレゼントを受け取る」という行為によって僕に対して負債を負いたくなかったのだ。「このプレゼントは只事ではない」というのは彼女もわかっていただろう。花の持つ象徴性を考えれば、「プレゼントを受け取る」ということはそこに込められている僕の恋愛的愛情を受け取るということになってしまう。受け取ってしまえば、返礼として同じものを贈り返さなければならない。それができなければ負債となる。そして、負債を負ってしまえば支配される。
支配されてしまえば、彼女と僕の関係は前のようにはいかなくなってしまうのだ。
なので「このプレゼントは無価値だ」とみなし、そこに乗った恋愛的愛情の意味を受け取らなければ、僕に負債を負わなくてもよくなる。
僕はまったく鈍感だったわけだ。
プレゼントの暴力性に無頓着だった。
彼女は僕の恋愛的愛情を受け入れない、ということを優しく穏やかに伝えてくれたのだ。
すべての花がゴミなのではない。
僕が彼女に渡してしまった花だけが、僕たちの関係のためにゴミとされたのである。

支配なき親密さ

この話には後日譚がある。
実は、花束の気まずい夜のあとも僕たちは以前通り行き来を続けていた。
そして、数ヶ月ののち、彼女は就職のため福岡を去ることになった。
引越の当日、僕は彼女の家に呼び出された。
一度彼女が福岡を去ってしまえばもう二度と会えないかもしれないなと僕は思いながら、僕は彼女の家を訪れた。僕が着いた時には、彼女の家は空っぽだった。彼女は僕の到着に気がつくと、玄関先で小さな紙袋を寄越した。開けてみると、美しい工業デザインが施された青いタンブラーグラスだった。
「今まで色々と良くしてくれたお礼」であると彼女は言った。
僕は、このグラスはあの花瓶の返礼であろうとピンと来た。
僕のプレゼントはまったく無価値とされたわけではなかったようだった。
恋愛的愛情はやんわりと退けたけれども、友人的愛情として「贈り物と同じ価値の返礼」をくれたのだ。
僕はいまでも夏になるとこのグラスでウイスキーを飲む。

編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP

室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)

1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。

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