事故物件の日本史【第12回】日本各地に存在する皿屋敷伝説|大塚ひかり

「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。

第十二章 更地と皿屋敷

皿屋敷の謎

いちま~い、にま~い……と、女の幽霊が皿の数を数え、十枚目でしくしく泣くという怪談「皿屋敷」、小さいころ、テレビで見て怖かったものだ。
この「皿屋敷」の「さら」が「更地」の「さら」を意味するという説がある。
江戸後期の『嬉遊笑覧』(1830)には、
「もともと皿屋敷は家屋のない更地の屋敷という意味だったのが、これにこじつけて皿を割った女の怪談を作ったのであろう」(“本よりさらやしきは家居もなきさら地の屋敷と云しを、これに附会して皿を破りし女の怪談を設しなるべし”)(巻六下)
とある。また、明治初期の『寒檠璅綴』(かんけいさてつ、かんけいそうてつ、とも)にも、江戸牛込の番町はじめ、松江や加州(加賀)、播州加東郡にも皿屋敷跡というものがあるが、
「これは、皿屋敷というのは除け地のことで、人の住まない土地はさら地・さら屋敷ということから、皿の字をつけて、こじつけて怪談としたのであろう」(“コレハ皿屋舗トハ除地ノコトニテ、人スマヌ地ハサラ地サラ屋舗トイフヨリ、皿ノ字ヲ加テ附会ノ怪談ヲイゝシナルベシ”)(巻之二)
と、更地(さら地)の「さら」と同音の皿をこじつけて作った怪談としている。
確かに「皿屋敷」と名のつく怪談は、播州皿屋敷、番町皿屋敷など地名がついている。
全国の皿屋敷を調査・分析した伊藤篤によると、皿屋敷伝説は播州や東京の番町だけでなく日本各地にあって、南九州、島根、宮城、高知、兵庫に多く、とくに新潟県佐渡では狭い島内に異なる皿屋敷伝説が四カ所も集まっているという(『日本の皿屋敷伝説』)。
伊藤氏は、その理由についてははっきりしないとしながらも、「佐渡などでは、銀(金)山開発に伴って、廻船業者による本土との交通がさかんであったということも、皿屋敷のような特異な伝説の伝播を可能にしたものであろう」と推測。伝説の伝播には舟運や演劇、売薬商人を通してのものなどがあるという。そのあたりの詳細については伊藤氏の本を読んでいただくとして……。
ここでは皿屋敷伝説の内容を伊藤氏の本や『西播怪談実記』の「姫路皿屋敷の事」を参考に見ていきたい。
それによると、皿屋敷伝説にはいくつかの話型がある。
まず屋敷勤めの侍女が皿を割ったため抜き打ちにされる、もしくは虐待されて井戸に身投げする。その後、「一枚、二枚……」と皿を数える幽霊が出て、祈祷をしてもやまず、新居に移っても、結局、家は断絶することとなり、屋敷は廃墟になる。こうしたパターンの筋が主流である。
侍女が主人に横恋慕され、皿をなくしたと言いがかりをつけられ関係を迫られて井戸に身を投げ、その後幽霊が出て主人は狂い死にするというパターンもある。
ほぼ全話に共通するのは使用人の女性が些細な事や主人の勝手で虐待されて死に追い込まれ、その後、家は断絶、屋敷は空き屋になるということだ。
これは、何を意味するのか。
この話にはどういう背景があるのだろう。

皿屋敷伝説発生の時代背景

一つには、当時の女中の低い地位というのがあろう。
第五章「池袋の女」でも紹介したように、江戸時代の女中は犯されて当然、妊娠させられても文句も言えない立場にあることが少なくない。
しかるに伊藤氏によれば、皿屋敷伝説の時代設定のほとんどが1600年代であると言い、これは庶民の経済力や識字率が上昇した時代に重なり、「主従関係全般についての意識も変化」してきたのではないか、という。主家の横暴に対し、泣き寝入りという選択をしない、報復したいという意識が強まってきたというのである。
この主張には、目からウロコが落ちる思いであった。
1600年代といえば、下人などの隷属農民に依存する名主経営から小農経営へ移行、市場経済の勃興などから、「だれもが生涯に一度は結婚するのが当たり前という生涯独身率の低い『皆婚社会』が成立した「十六・十七世紀」(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』)に重なる。
庶民の経済力や意識の高まりと共に、初めて被害者意識が芽生えた、もしくは強まった……というのは考えられることだ。
自分が被害者であるという意識は、あまりにも人権が蹂躙された洗脳状態では、湧いてこないからである。
それは、セクハラということばがない時代、セクハラがなかったのかといえば、そんなことはなく、むしろずっと多かったことを思い出してみれば分かることだ。私が二十代のころなどは、今なら完全にアウトなセクハラは日常にごろごろしていたものだ。
江戸時代の川柳に、下女への性的暴行が盛んに詠まれるようになったのも、一つには、それを異常なものとして問題視する目線が芽生えていたために、人々の意識にのぼるようになった……ということもあったのかもしれない。空気を吸うように当たり前のことであれば、取り立てて川柳に詠む必要もないからだ。逆に言うと、使用人への性的暴行を含めた横暴は、江戸時代になる前は当たり前過ぎて、文芸の素材にもならなかったのかもしれない。

残虐事件の跡地?

そうした庶民の意識の向上に加え、この手の残虐な事件はいつの時代にもあって、とりわけ身分制の確固たる世では、見過ごしにされていたということがあったと思う。
現代も、いじめと呼ぶにはあまりに凄惨な犯罪や虐待は後を絶たない。
今も記憶に残っているのは2021年、旭川の女子中学生が上級生らに自慰行為を強要され、画像を拡散させると脅されて、最後には抵抗する気力も失い、「死ぬから画像を消してください」と言って川に飛び込んで死んでしまった事件である(旭川女子中学生いじめ凍死事件)。
これなどはネットが普及した現代社会ならではの犯罪にも見えるものの、江戸時代や明治初期にもこの手の残酷な少年犯罪は数多くあった。
氏家幹人の『江戸の少年』には、村の娘が他村の男と「密通」した上、同居したというので、家に帰ってきていた娘を「つるしあげよう」と、十人ほどの村の男たちが「輪姦」したという明治初期の山口県の事件が載っている。しかも同じく氏家氏によれば、事件にもならぬ、慣習的ないじめとして、幕末の番方(宿直勤番して警衛や雑務を行う幕臣)では、「『御改め』と称して新入りの陰茎の形や重さをたしかめ、帳面に付ける」という儀式が行われていたという(『江戸の怪奇譚』)。
今なら犯罪以外のなにものでもないが、昔は新入りが必ず通り抜けねばならない通過儀礼だったのだから、事件化するいじめはもっと凄まじいものがあったに違いない。
文政六(1823)年、松平外記が同僚五人を殺傷した事件は、いじめに対する復讐だったという。氏家氏によれば、外記のいた江戸城西丸書院番の酒井山城守組は「古株による若手・新入りいびりで評判の組」で、拝領の肩衣に「陽物」(男根)のいたずら書きをされたり、弁当箱に馬糞を入れられたり、鞭で打ちたたく者もいた。いじめたほうは軽いおふざけ程度の気持ちだったのかもしれないが、外記は同僚五人に斬りつけ、三人は即死、自害するという凄惨な結末になってしまう。しかも酒井山城守はそれを隠蔽しようと、重傷を負った二人を放置したまま対策を練っていたため、治療が遅れ、この二人も死去。その上、即死した三人の傷口を外科医に縫わせ、刃傷沙汰はなかったかのように繕って、血糊のついた畳を取り替えた。あまりにひどい隠蔽工作には驚くほかなく、いじめやいびりを生んだのはこういう腐った土壌ゆえだろう。しかしこうまで隠そうとしたにもかかわらず、事件が明るみに出たのは、外記が書き置きを残していたからであった。しかも事件後七ヶ月以上経って、外記の事件を模倣するような殺傷事件が発生し、外記の亡霊のしわざと噂されたという(氏家氏前掲書)。
いやはや、今も昔も陰惨な事件というものはあるものだ。興味のある方は氏家氏の著作に当たってほしいのだが……。
たとえば、こんなふうに、もともと凄惨な事件があって、のちにその亡霊が出たというような噂が立ち、人も住まなくなった屋敷(もしくは更地になった屋敷跡)といった事故物件と結びついて創作されたのが皿屋敷の伝説ではないか。皿屋敷伝説の中には、侍女の中指を切り落とすといった虐待を加えるバージョンもある(伊藤氏前掲書)ことを思うと、そんなふうに考えたくもなる。

事故物件になりやすい不吉な土地

ついでに言うと、昔は、そこに人が踏み込むと凶事が起きると信じられていた不吉な土地があった。
それが三角形の土地である。
『東海道四谷怪談』には、「深川三角屋敷の場」という舞台があり、
「不吉な『三角』の名の連想が、この場の設定を生んだ」(郡司正勝校注『東海道四谷怪談』頭注)
という。
柳田國男の『禁忌習俗語彙』にも、
「宅地の形の三角なものを、三隅屋敷<みすまやしき>といつて非常にきらふ地方がある」とあり、安定感に欠け、家も効率的に建てにくい三角の土地は嫌われていた。
ほかにも、「因幡の八頭郡」には「火災の絶間が無いといふ」鯰屋敷<なまづやしき>と呼ばれる「凶宅」があったといい、「どういふのを鯰屋敷といふか」は分からぬものの、「山一重南隣のナマメスヂなどと、関係ある語なることは想像せられる」という。ナマメスヂとは国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」によれば、岡山にはそう呼ばれる場所があるようで、「ナメラスジ、ナマメスジは怪獣の行き交う道と考えられている。津山市田町一区の本沢邸では、丁度ナメラスジの部分のみ通行の妨げにならぬため土塀の一部が切ってあった」という。
要は妖怪的なものの通り道のようで、鯰屋敷がナマメスジと関係があるとすれば、そういう鬼神の領域に家を建てると凶宅になるということなのだろう。
柳田の前掲書には、
「作ると必ず凶事があるといふ畑を、土佐高岡郡ではカンバタと謂ふ」といい、これは「神畑」の意ではないかなどとあったりもあるので、昔は人と鬼神の領域が分けられていて、そこに人が住むと災いが起きる、と考えられていたようだ。
三角の土地も、単に利用しにくいというだけでなく、死者の頭に三角の布をつけることにも通じる、死の世界への連想から忌まれたものかもしれない。

大塚ひかり(おおつか・ひかり)

1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。

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