人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!
【第9回】『ヨブ記』とその昔赤ちゃんだった人々
僕たちは世界に遅れてやってくる
「10ヶ月もお腹の中にいたくせによくそんな生意気な口をきける」と母に言われたことがある。
10ヶ月もお腹の中にいるのは、すべての人類にとって避け難い事態である。母親の腹を借りずに、この世に生まれ出たものはいない。
卵生の生き物だって、卵の時分は母胎の力を借りねばいけない。
思えば、単細胞生物だって、自分のコピー元となった分裂前の個体がいた訳だ。本当の始原に生まれた生き物以外は、大抵母のしがらみの中で生まれざるをえない。
これが母胎に留まる「借り」であるのであれば、僕たちは生まれながらに巨大な負債を追っている。10ヶ月も他人の行動を制限しておいて、(しばしば行動不能にしておいて、)どうやってそれを贖うことができるだろうか。
だが、普段、僕たちは自分たちに先駆けて世界にやってきた人々に負債を抱えているなどと微塵も思っていない。
僕たちが生まれた時には「世界」はすでにそこにあった。こんにち、僕たちは「世界」を、偶然による宇宙の生成以降、さらに偶然が種々起きた結果、存在すると考えている。だから、「世界」に対して何も負ってはいないと感じる。
たまたまあった「世界」にたまたま生まれただけだ。
たまたまあった「世界」にたまたま生まれただけであれば、「世界」に対し何の負債も責任もない。ただ、そう言うものだ、というだけである。
果たしてそうだろうか。
例えば、「社会」はどうだろうか。僕たちが生まれたときに、すでに「社会」はある。家族があり、政治組織があり、祭りがある。家族も政治組織も祭りもない場所に生まれた人間はあまりいないのではないか。
家族も政治組織も祭りも組織するのに労力がかかる。生存に必要な資源以上の物資を蕩尽して作られる。
「家族を作るのにそれほど物資を消費するものか!」とツッコミが入るかもしれない。現代社会においては、書類を市役所なり区役所なりに提出してしまえば、お手軽に結婚できる。一緒に生活できたり、配偶者控除があったりとかえって生活コストは下がるかもしれない。だけれども、多くの社会では、結婚は社会から、特にお互いの家族からの承認を要する。承認を得るためにでは一定の手続き(=儀礼)があり、そこでは時間が費やされ、物資が交換される。例えば、日本にも結納という習慣がある。家具や着物などの結納品が両家の間を贈答されるという行事だ。
当たり前になっているから普段気にもとめないのだが、社会的な関係を築くには、案外たくさんの資源が必要になる。
そうやって多くの先人たちがたくさんのリソースを使って編んできたのが社会である。僕たちは生まれながらにしてその社会を享受する。他人の生産物にフリーライドするところから人生は始まる。
「いや!そんなことないぞ!オレは社会からなんの恩恵も受けずに大きくなった!」という人もあるかもしれない。僕にはうまく想像することはできないが、もしかしたら、社会から恩恵を受けずに育つことも可能かもしれない。
でも、そんな人でもおそらく言語は話すはずだ。
実は言語だって借りものだ。
僕たちは言語を自分で作り出したわけではない。必ず、言語を話す他の人、つまり他者から言語を受け取る。
言語は何千年、あるいは何万年もかけて運ばれてきた。僕たちが生まれるずっと前に生み出された体系を僕たちは生まれてからただ受け取る。そして、その恩恵を受けながら残りの人生を生きていく。
世界は我々に先駆けて存在する。
先人が築いてきた偉大な世界、僕たちはそれを受け取って生きていくわけだ。
聖書、稀代のベストセラー
世界に遅れてやってきた人物が、先駆けてそこにあった存在にめちゃくちゃ怒られる物語がある。世界で一番刷られた本『聖書』にその物語は載っている。
聖書は言わずと知れたキリスト教の聖典である。こんにちの近代社会を形作る上で、大きな役割を果たしたのがキリスト教圏の国々であった。なので、現在の日本においてさえ、さまざまな分野、例えば言葉や思想、社会の仕組みやエンターテイメントにまでキリスト教は強く影響を与えている。
例えば、民主主義や資本主義を支える基礎的な概念である「個人」という考え方をとってみても、そうだ。多くの社会では政治的単位として、家族や氏族(同じ祖先を持つと考える人々の集団のこと)といった社会集団が用いられる。だが、ヨーロッパの民主主義では「個人」が政治参加の単位だ。このようになったのは、キリスト教において、人間一人ひとりが神に向き合っている、という考え方の影響を受けているのではないかと言われている。神と人間の間に中間を繋ぐ存在がないように、国家と個人の間にもないというわけだ。
つまり、キリスト教は歴史や社会に広汎な影響を与えてきたといえる。そんなキリスト教がその考え方を広く伝えるのに使ったツールのひとつが聖書だ。
現在の形の聖書は、393年、ヒッポ公会議において成立した。公会議とは、ローマ・カトリック教会で、教会全体におよぶ教義・規律に関する事項を審議決定するための宗教会議のこと。それまで種々様々あったテキストのうち、どの文献が聖書であり、どの文献が聖書でないかを決めたのだ。そうやって定められたテキストは、今日までに3000以上の言語に翻訳されている。これは世界にある言語の約半数に及ぶ。おそらくこれほどまでに翻訳された書籍は他にはない。つまり、ベストセラーという点では他の追随を許さないほど世に出回っている本なのだ。
だけれども、日本では読み切ったことがある人は少ないかもしれない。
文化庁が出している『宗教年鑑』によれば、日本のクリスチャン人口は1.5%程度。クリスチャンの居住地には地域差もあるので、人生で日本人のクリスチャンに会ったことはないという人がいてもおかしくない。
僕自身はクリスチャンではないのだが、子どもの頃、プロテスタントの日曜学校に通っていた時期がある。実はその頃から聖書を読み始めた。聖書は面白い書物だ。今でも、時々ランダムにページを開けて読んだりしている。
聖書には大きく分けて、旧約聖書と新約聖書の二つの部分がある。
その成り立ちはこうだ。キリスト教は1世紀ごろのローマ帝国時代、いまのパレスチナに当たる中東のレヴァント地方で生まれた。当時その地域に住んでいたユダヤ人たちの宗教であるユダヤ教の改革運動だったものが、分派してキリスト教として成立したといわれる。なので、旧約聖書はユダヤ教の聖典タナハと共通する内容を含む。要は分派前の聖典部分。新約聖書はキリスト教徒によって預言者と信じられているナザレのイエスやその弟子たちの言行録、手紙などで構成されている。つまり、分派後の聖典部分だ。
問題にしたいのは、ヨブである。
聖書の中でもっとも印象的な人物の一人、ヨブ。
ヨブが登場するのは、旧約聖書に含まれるヨブ記である。
旧約聖書は律法書と呼ばれる天地創造からモーセの死までを描いた物語、イスラエル人(ユダヤ人はイスラエル人の一支族)がレヴァント地域に入ってきてからの歴史書、古代イスラエル王国が崩壊し、イスラエル人がバビロニアという現在のイラクあたりに連れされて後、レヴァント地域に帰還した時代に登場した様々な預言者たちを描いた預言書などで構成されている。これに加えて、古代イスラエルの詩歌や文学で構成された詩書ないし、知恵文学とよばれる部分がある。
ヨブ記はそのうちの詩書に含まれる。つまり、旧約聖書の中でもちょっと変わった位置付けだ。律法書、歴史書、預言書は基本的に天地創造からイスラエル人の歴史を扱っている。詩書だけがそこから外れているからだ。
さて、すこし前置きが長くなった。
では、ヨブの数奇な物語について見てみよう。
ヨブ、哀れなる男
ヨブ記の書き出しはこうだ。
ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、雌ろば五百頭の財産があり、しよう人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
(「ヨブ記1.1-3」『聖書』新共同訳 ※以下引用全て同書)
つまり、ヨブは金持ちの上に、敬虔な男で全てを持ち合わせていたわけだ。
場面は一瞬で転換する。
神の御前、神の使いが集まる会に悪魔サタンもやってきた。
神はサタンに「ヨブを見たか?」と問いかける。ヨブほど敬虔な人間はいないとサタンに自慢する。
サタンは「それは対価のおかげだ」と返事をする。神がヨブを富貴にしているので、ヨブはそれに感謝して敬虔であるに過ぎない。ヨブが財産を失えば、一気に信仰心を無くすはずだと言い返す。
神はサタンに思うようにしてみるよう促す。
サタンは地上に降りていって、ヨブの子どもたちを殺し、財産を奪い、ヨブをひどい皮膚病にする。
ヨブはそれでも神への畏れを捨てない。ヨブの妻でさえ、「神を呪って死ぬ方がマシだ」と諭すのだが、ヨブは「愚かしい」とそれを断じ、「神から幸福をいただいたなら、不幸もいただこうではないか」と自分の運命を受け入れる。
そうやってすべてを失ったヨブの元に三人の友人がやってくる。そして、ヨブと問答を始める。
三人の友人は、因果応報の話をする。
ヨブが富んでいた時は、ヨブは正しかったのだが、ヨブが落ちぶれたということは、何か神に対して罪を犯したに違いない、それを認めるんだと詰め寄る。
ヨブは、心当たりがないと言う。
それもそのはずだ。彼らは知らないが、神に促されたサタンがすべてを奪ったのだ。
言い換えれば、ヨブは正しかったからすべてを奪われた。神さえも称賛するような正しさのために、実験台にされてしまっていたのだ。
それはヨブも心当たりもないはずだ。
三人の言い分もひどい。
この世で不遇なのは、何か罪を犯したからだと決めつけいるわけだ。これは、見過ごせない。そのようなロジックは貧しさや病気のなかで苦しんでいる人たちを本当に痛めつける。僕は若い時分、ハンセン病療養施設に少しだけ滞在したことがある。ハンセン病は「業病」と呼ばれていて、前世の悪行の報いで罹るのだと言われていた。ハンセン病の患者たちは言われのない中傷に長く苦しんできた。
こういった、「現状の困難」から架空の原因を探すような因果応報論は本当にタチが悪い。
このタチの悪い友人たちにヨブは弱音を吐く。
「私の生まれた日は消え失せよ(こんな目に遭うなら生まれてこない方がよかったな)」とか「混沌に帰りたい(死にたいな)」などと愚痴をこぼす。
友人たちは、やいやい「反省しろ、神に謝れ」と詰め寄る。
ヨブは心当たりもないのにやたらめったら反省したら、かえって神に悪いという。
それもそうだ。財産を失ったことで、神に縋(すが)るということは、ヨブは財産のために神を畏れていたのだ、というサタンの主張を補強することになる。ヨブは決して、そのように神に縋ることはできないと言う。
「神に謝れ!」「謝らない!」と四人の議論がヒートアップしてきたその時、ついに神がヨブの前に現れる。(神が現れる!?それって、ありなんだ、と初読の時に僕は思った。)
神はヨブに対して言う。
わたしが大地を据えたときお前はどこいたのか。
知っていたと言うなら理解していることを言ってみよ。
誰がその広がりを定めたかを知っているのか。
誰がその上に測り縄を張ったのか。
(中略)
お前は一生に一度でも朝に命令し曙に役割を指示したことがあるか。
大地のヘリをつかんで神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。
つまり、神様はヨブにこう言うことを言っている。
「わたしが万物を創造したとき、何も手伝わなかったのに、文句垂れないでください」と。
すごい言い分である。
「10ヶ月もお腹にいたくせに、生意気な口をきく」を彷彿とさせる。
ヨブ、お前もか。
世界に遅れてやってきたひと。
創造されたひと。
文句垂れたら、怒られるひと。
神様がサタンを促したから、ヨブはこんな目に遭っている。神の正しさ、そして神を恐れる自分の正しさについて病を押して、三人の友人にあれほど説いていたヨブに向かって、この言い種である。
神は一通り、ヨブに釘を刺したのち、ヨブが三人の友人にした主張は正しいという。できる上司なら、逆の順序で諭して欲しかった。「君は正しいけど、文句も垂れたよね?」と。「お前、文句垂れただろ!」と散々詰めておいて、「まあ、対応は正しかったからいいよ」と締めくくる上司は怖い。
ヨブは、そんな神とのやりとりを通じて、世界の真理を理解する。
神の作り出したこの世界は、人間中心には回っていない。神の計画に沿って色々なことが起きる。人間の身に降りかかる災いも神の計画のうちなのだ。
神はヨブに尋ねる。
お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために私を有罪とさえするのか。
もしヨブの身に起きた様々な不幸が神の計画のもとにある、ということを否定してしまったら、同じく神に創造されたヨブを肯定できなくなるという矛盾が引き起こる。
ヨブは、神の計画が成就されつつあることを喜び、自分の身に起きた幸運も災いも同じく神の恩寵のうちであることを理解して、塵と灰の上に伏して、悔い改める。
神はそれから三人の友人たちに言う。
「私はお前とお前の友人に対して怒っている。お前たちはわたしについて私の僕(しもべ)ヨブのように正しく語らなかったからだ」
ヨブは神に詰められている三人の友人のために神に祈り、三人も神に赦される。
神はヨブに二倍の財産を返し、ヨブは再び七人の息子と三人の娘をもうける。(それでOKなのか?とも僕は思ったのだが…。サタンに殺された子どもたちは帰ってこない)
あらかじめある世界で大人になる
僕は神学に明るいわけでも、キリスト教について深い見識があるわけでもない。
ここまで述べたことも、ここから述べることも神学的に正しい理解ではない。
だけれども、ヨブ記を読んで受け取ったことではある。
僕たちはヨブと同じである。世界に遅れてやってきた。
世界において、僕たちに先駆けて起きたことについて、すでに何一つ影響を及ぼすことはできない。人類が蒸気機関をもっと早く発明したり、第二次世界大戦の開戦を避けたりするために僕たちができることは何もない。
ヨブが全ては神の計画であると受け入れたように、僕たちもこのあるがままの世界の有り様を受け入れるしかない。
そして、我が身に起きる幸福も不幸も同じく世界のメカニズムのなかで引き起こることであり、それを僕たちの側で取捨選択できることではない、ということを受け入れるしかない。
僕たちは親を選ぶことはできないし、僕たち自身が誰であるのかということすら選ぶことができない。
ただ、気がついたら僕たち自身として世界に放り出され、多くの先人の恩恵にフリーライドしながら成長することしかできない。
そして、どのような出自でどのような選択をしたとしても、辛いことや悲しいことが起きる。僕たちが悪いことをしたからではなく、メカニズムとして、ただの現象としてそういうことが起きる。残念ながら僕たちはそれを引き受けなければならない。
僕は、何も犯罪やハラスメントがあったとき、「残念だったね。世界ってそう言うもんだから」と言いたいわけではない。
僕たちの社会では、人間が犯した罪は人間社会の裁きによって、人間に償わせるのが当たり前だ。人間による人間への加害は起こるべきではない。他人を踏みつけにした人間が罰されるのは当たり前である。
法律によって社会で裁けないような罪もあるだろう。不倫相手に、自分の悪行を告発されたことを恨みに思って、「不倫相手は死んだ方が良い」などと言って回る男などはやはり何らかの仕組みで裁かれた方が良い。自分で反省できないなら。
だが、このような人間の悪行を超えて、不運は降りかかる。
電車の中で足を踏まれるとか、レストランで自分の注文だけ忘れられるといったことは起きる。株式市場の乱高下で財産を一切合財失うこともあるだろう。
僕たちは生まれてきた以上、そういった世界にいることを肯定するしかない。もし世界がありのままであることを肯定できなければサタンと同じになってしまう。すべての出来事を恣意的な因果で結びつけて、あちこちに難癖をつけてまわるようになる。「あの人が富んでいるのは、こういう不正があるせいだ」とか「自分が不幸なのはこういう陰謀があるから」というような妄想に囚われる。社会の不条理はすべて「外国人」のせい、などと考えて、旅行者や外国人労働者をカメラ片手に追い回すような人間になってしまう。そういう人たちは「世界が理由も意味もなくただそのようであることを許容できなくなっている。つまり、「世界」そのものと戦うしか他に方法はなくなってしまっているのだ。
母の言った「10ヶ月もお腹の中にいたくせによくそんな生意気な口をきける」と神の言った「私が天地を据えたとき、お前はどこにいたのか」は僕の中で共鳴している。
二人とも「大人になれ」と言っているのだ。「世界」に恨み言を言うのをやめて、ありのままの世界を受け入れろと言っているのだ。
もはやなんの影響を及ぼすことのできない過去の出来事に規定された不条理が起きうる世界の中で、文句を垂れたりせずに、日々の責任を全うする大人になること。
それが求められている。
なるほど、その通りである。
世界に遅れてやってきた赤ちゃんはいずれ大人にならなければならない。
しかし、ここだけの話、残念ながら僕にもそのような責任を逃れて、「私の生まれた日消え失せよ」と呟きたい夜はあるのである。
すべてを失い、皮膚病に苦しみ、妻にも三人の友人にも的外れな説教をされるヨブのように。
編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP
室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)
1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。