私たちの当たり前をひっくり返し、新しいものの見方と考え方を示してくれる文化人類学。長年、文化人類学者として、ボルネオの森に生きる狩猟民プナンの人々とともに暮らし、研究してきた奥野克巳さんが、これまでの人類学の知見に基づいて昨年6月に上梓した『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』は、現在3刷となっています。
昨年11月には、ジュンク堂書店池袋本店にて、NHKのディレクターで、ヤノマミをはじめとする南米アマゾンの先住民を長らく取材し番組制作を手がけた国分拓さんをゲストに迎えたトークイベントが行われました。今回は、その模様を「コレカラ」にて特別公開いたします。
最後となる第5回目は、狩猟民が「死」というものをどのように考えているかというお話です。
【第5回】狩猟民は「死」をどう捉えているのか
死者との交歓
国分:NHKスペシャル「アウラ 未知のイゾラド 最後のひとり」では、アウレ、アウラと名付けられた二人のイゾラドのうち、生き残ったアウラを取材しました。アウラは他の先住民保護区で暮らしていますが、そこは3万人規模の街から60kmくらいと、比較的、都市部に近い保護区です。
奥野:アウレはすでに亡くなったんですね。病気でしたか。
国分:ええ、癌だったようです。
奥野:アウラのドキュメンタリーでは、死に対してどのように考えているのか、ということも描かれていましたね。プナンもそうですが、先住民、とりわけ狩猟民は、往々にして死のための弔いを行わないし、死んだ人の名前も言ってはいけない。故人が持っていたものは全て捨ててしまう。そういった形で忘れようとする。確かナレーションでも語られていたと思いますが、ご著書の『ヤノマミ』の中でも国分さんは同じようなことを書かれていましたね。
国分:ヤノマミの死については非常に面白いところがありますね。いくらお願いしても撮影できないことがあったのですが、ひとつは夫婦が畑に行くところについてきてはいけないということでした。彼らは畑でセックスをするわけです。
もうひとつは、死にまつわることです。ヤノマミでは死者が出ると火葬するのですが、集落の中央で焼き、残った骨をもらってきて自分の家族の囲炉裏の下に埋めます。それを1年に1回掘り起こしてきて、バナナのコンポートみたいなものを作り、それと骨を混ぜて食べるんです。そして、エクワナという幻覚剤を飲む。そうやって死者と交流するというか交歓するのでしょうね。それだけは絶対に撮影してはダメだと言われました。その場にいるだけならよいかと聞くと「長老に相談します」と言われたのですが、カメラマンは「撮影できないのにいても意味がない」と言って帰ってしまったんです。潔いなあと思いましたが、撮影できないなら番組にはならないわけですから、テレビの人間としては正しいとも言える。本当は見るべきだったのでしょうけれども、撮影できないので帰ってきました。
奥野:それは、ある種のカニバリズムでしょうか。
国分:そうでしょうね。同化というのか、憑依というのか。死者を身体に流し込む。ヤノマミ以外の人間には隠すということは、彼らにとって重い、何らかの意味を持っていることだと思います。死者との関わりが、彼らにとって重要だったのではないかと思いますね。
奥野:プナンでは、死者の名前を語ってはいけないし、死んだ人が持っていたものは全て焼却してしまう。
国分:燃やしてしまいますね。ヤノマミもそうでした。
森の民の時間の感覚
国分:僕たちが滞在していた150日の間、誰かの死を経験することはありませんでした。それは、幸運なことだったと思います。誰かが死んで亡くなったとすると、ある種の集団ヒステリーが起きて、こいつがなんで死んだかという話になると思うんですね。そうすると絶対、僕たちのせいにされるのではないかという恐怖がありました。一度だけ、子どもが蛇に噛まれて危ないときがあって、やはりそういう集団ヒステリーのような状態になり、逃げてきたことがありました。
奥野:これは私の仮説ですが、死にまつわるそうした事柄は、彼らの時間性と関わっているのではないかと考えています。つまり、過去や未来をどのように考えているのか、という問題です。例えば、プナンでは、「将来、何になりたい?」と聞いても、答えることができません。答えられないというよりも、そもそも、何を言っているのかがわからないようなのです。
国分:「あなたの将来の夢は?」という質問は、そもそもあり得ない質問なわけですね。
奥野:あり得ないですね。未来のことについてもそうであるように、過去についても語らないし、語れないのだろうと思います。プナンは反省しないというのが、私の仮説ですが、それはどういうことかと言うと、過去をある事象と捉えて対象化しないということなのです。過去の出来事をある事象として取り出してきて云々ということはしない。未来についても過去についてもそのように考えているということは、私たちが考えている時間とは別の時間性を生きていると言えるかもしれません。彼らが死をどのように考えているかは、彼らの時間性を考える意味でも、思索の手がかりになるのではないかと思います。
(構成◉大野真)
プロフィール
奥野克巳(おくの・かつみ)
立教大学異文化コミュニケーション学部教授。1962年生まれ。20歳でメキシコ・シエラマドレ山脈先住民テペワノの村に滞在し、バングラデシュで上座部仏教の僧となり、トルコのクルディスタンを旅し、インドネシアを一年間経巡った後に文化人類学を専攻。1994~95年に東南アジア・ボルネオ島焼畑民カリスのシャーマニズムと呪術の調査研究、2006年以降、同島の狩猟民プナンとともに学んでいる。単著に『一億年の森の思考法』『絡まり合う生命』『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』、共著・共編著に『今日のアニミズム』『モア・ザン・ヒューマン』『マンガ人類学講義』『たぐい』Vol.1~4.など。共訳書にコーン著『森は考える』ウィラースレフ著『ソウル・ハンターズ』インゴルド著『人類学とは何か』など。
国分拓(こくぶん・ひろむ)
1965年宮城県古川市(現大崎市)生まれ。1988年早稲田大学法学部卒、NHK入局。NHKディレクター。手がけた番組に『ヤノマミ』(ニューヨークフィルムフェスティバル銀賞ほか)『ファベーラの十字架 2010夏』『マジカルミステリー“工場”ツアー』『あの日から1年 南相馬 原発最前線の街に生きる』『ガリンペイロ 黄金を求める男たち』(ギャラクシー賞月間賞)『最後のイゾラド 森の果て 未知の人々』(モンテカルロテレビ祭入賞ほか)『ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉』『北の万葉集 2020』ほか。著書『ヤノマミ』で2010年石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、2011年大宅壮一ノンフクション賞受賞。他の著作に『ノモレ』『ガリンペイロ』がある。
連載一覧
- 第1回 フィールドワークが持つ暴力性
- 第2回 人間が「主語」ではない世界
- 第3回 文明に触れたことがない人々「イゾラド」
- 第4回 文明化することの悲劇
- 第5回 狩猟民は「死」をどう捉えているのか