モヤモヤしながら生きてきた【第2回】被害者の声を聞く…それはフラワーデモから始まった|出田阿生

新聞記者として働き、違和感を覚えながらも男社会に溶け込もうと努力してきた日々。でも、それは本当に正しいことだったのだろうか?
現場取材やこれまでの体験などで感じたことを、「ジェンダー」というフィルターを通して綴っていく本連載。読むことで、皆さんの心の中にもある“モヤモヤ”が少しでも晴れていってくれることを願っています。

【第2回】被害者の声を聞く…それはフラワーデモから始まった

身近な人、たとえば家族に「性暴力を受けた」と告白されたら、どうすればいいだろうか。思わず、耳をふさぎたくなるかもしれない。どこかに「性の話はタブー」という意識がある。しかも性被害の話は、話すのも聞くのもつらい。その人が大事な存在であるほど、被害を現実だと認めたくない気持ちになる。自分も傷つくから……。

日常にあふれかえる性暴力に、社会は耳を傾けてこなかった

昨年7月、俳優の服部吉次(よしつぐ)さん(79)の記者会見を動画で視聴して、そんなことを思った。吉次さんはジャニー喜多川氏に「幼少時に性暴力を受けていた」と明かした。80歳近くなった今も苦しみは続き、悪夢をみたり情緒不安定になったりする。ネクタイをしめた白髪の男性が、淡々と語る姿に衝撃を受けた。

高名な作曲家、服部良一さんの次男。「青い山脈」の作曲家といえば私でも知っている。ジャニー氏は父の仕事の縁で家に出入りしていた。70年前のことで、当時吉次さんは小学2年、わずか8歳だったという。ジャニー氏が週末、自宅に泊まりに来て一緒の部屋で寝た。暗闇の中で性器を触られ、口淫された。肛門性交もされかけた。2年半にわたり100回以上被害を受けた。

70年もの沈黙につながったきっかけは、家族の言葉だった。最初の被害の翌朝、姉に「夕べは楽しかった?」と何げなく聞かれた。吉次さんはこう答えた。「おちんちんを触られた」

ところが、姉から返ってきた言葉に吉次さんは衝撃を受ける。

「やめなさいよ、そんな気持ち悪い話しないでよ!」

普通に話そうとしていた吉次さんは、突然の姉の怒りに動転した。

「姉とは5歳くらい離れていた」というから、当時は中学生になったばかりだろうか。吉次さんの姉もまだ子どもだった。対処しようのない困惑を、怒りの形で表現しただけなのだろうと想像する。

自分の体験は言ってはいけないこと、汚らわしいことなのか。それ以来、きょうだいにも両親にも被害を一切話せなくなったという。記者会見では「自分の沈黙が後に多大な被害者を生んだことを悔いている」と自身を責めていたが、決してそれは吉次さんのせいではない。

性被害は、真剣に耳を傾けてくれる人がいなければ語れない。吉次さんと同じように口を封じられた被害者が世の中には数知れずいる。社会が耳を傾けてこなかった結果、日常にあふれかえる性暴力が「ないこと」にされてきた。

2019年4月に始まった街頭行動「フラワーデモ」

吉次さんは、実は被害を記者会見で明かす以前に、ある場所で「告白してみようか」と心を動かされたことがあったという。それを知って思わず興奮した。

その場所は「フラワーデモ」。デモといってもシュプレヒコールや行進はしない。2019年4月に始まった、「社会から性暴力をなくしたい」と訴える街頭行動だ。参加者は花を持って集まる。自身や周囲であった被害体験を語ったり、自分の思いをぶつけたり、人々の話を聞いたりする。私も最初に取材に行ったとき、こんな場所があるのかと驚いた。静かなのに熱気に満ちている。生まれて初めて見る光景だった。

出発点は、性被害の実態からズレまくった司法への怒りだ。その年の3月、理不尽な性暴力事件の無罪判決が4件も相次いだ。たとえば名古屋地裁岡崎支部は、未成年の娘をレイプし続けていた実の父親を無罪にした。被害はすべて認定したが、結論だけが「娘は逃げようとすれば父の元から逃げられたはずなので無罪」という判決だった。父が生計を握っており、年下のきょうだいを人質に取られた形の女子高生がどう逃げるのか。あまりにも現実離れしていた。

作家北原みのりさんや漫画家田房永子さん、編集者松尾亜紀子さんらが「何かできないか」という思いからこのデモを発案。SNSを通じて「4月11日の夜に東京駅前に花を持って集まろう」と呼びかけた。

東京と大阪で初めて開かれたデモは、翌月も11日に開催。さらに瞬く間に各地に広がり、1年後にはすべての都道府県の街頭で開催されるようになった。

東京会場はいつも、東京駅と皇居の間にある「行幸通り」の一角。毎回、午後7時にスタートする。この場所はここ数年、結婚写真を撮影する人気スポットになっている。真っ白なドレスとタキシードの男女があちこちでポーズを取る。

そんな幸せそうなカップルが行き交う広場の片隅で、花を持った人々が、マイクを持つ人を真剣なまなざしで見つめる。多いときには数百人もの輪ができた。

「話したい」と思った人たちが順番に手を挙げ、前に出るのがルール。「ずっと誰にも言えなかったことを、初めて話します」と語り出す人が大勢いた。

「あなたを信じる」「あなたは悪くないよ」

吉次さんも、この場所を何度か訪れていたのだという。

「妻が行っていたので、僕も参加した。いろんな方が発言していて、妻に『どうする?あなたもしゃべる?』と言われて、ちょっとグラッときたんですね」

「グラッときた」のは、何人もの人が過去の性被害体験を語っていたから。「ここなら自分が子ども時代の性被害の話をしてもおかしくない」と思ったという。ただ、そのときは結局、勇気を出せずじまいだった。後で「発言すればよかった」と何度も悔やんだ。その後悔が今回の記者会見につながったそうだ。

私も、吉次さんの気持ちが分かる気がする。取材で毎月のフラワーデモに折に触れて通うたび、「ここなら自分をさらけ出しても、受け入れられるかも」と思ったからだ。

発言者の中には、記憶がよみがえって言葉に詰まる人、泣き崩れそうになる人もいる。すると参加者から拍手や励ましの声が発される。「大丈夫だよ」「あなたを信じる」「あなたは悪くないよ」――。「傾聴」という言葉は知っていたが、それが目の前で現実の光景と化していた。司会者もしばしば涙ぐんでいた。

何年分かの取材ノートを見返すと、寒いときは手がかじかんで字が震えてミミズのようになっている。涙がにじんだ筆跡もある。客観的な報道とか中立性とかいう取材者としての感覚は吹っ飛び、涙と鼻水を垂らしながらメモを取っていた。

日本社会にずっと欠けていたもの

フラワーデモが持つ「磁力」はなんだったのか。

呼びかけ人の北原みのりさんに初回のデモを振り返ってもらったことがある。「無罪判決に憤って、『花を持って集まろう』とSNSで呼びかけただけなのに、400人以上が集まってほんとうに驚いた。最初に呼びかけ人らが無罪判決への憤りを訴えた。予定の1時間が終わったが、誰も帰らない。やがて群集の中から1人が手を挙げ『話したい』と言った。その人はマイクを握ると、『幼少期の性暴力のトラウマで進学をあきらめ、非正規の仕事でセクハラを受けた。なぜ被害者が転々としなければいけないのか』と語った。すると、他の人も次々と手を挙げて語り始めたんです」

あれから4年がたった。当時ほどの規模ではなくなったものの、今も毎月花を持って集まり、性暴力被害者に寄り添う気持ちを表すデモが、各地で続いている。マイクを持たず、プラカードを持って数人が静かに立つ「スタンディング」だけのところもある。それでも、「性暴力被害者に寄り添う」というスタンスは変わらない。

北原さんはこう説明する。「花は、あなたの声を聞くという意思表明。日本社会にはその意思がずっと欠けていたから」。だからこそ、フラワーデモが「これまで聞かれなかった声を聞く場所」になったのだった。

今も忘れられないある女性のスピーチ

私はフラワーデモに参加して、相反する気持ちを抱いた。ホッと安堵すると同時に、暗澹(あんたん)たる思いも渦巻いた。「安堵」の方は、自分自身も幼少時から変質者には遭遇していたので、「自分だけが特別ではなかった」と知ることができたから。同時に、あまりにも性暴力が日常にあふれかえっている現実に直面して言葉を失った。

とりわけ、家族間の性暴力を打ち明ける女性の多さに打ちのめされた。父に、兄に、親戚に……。ある横浜市の40代女性のスピーチが忘れられない。中学2年、14歳のときから実父にレイプされ続けたという体験を持つ人だ。

外見では分からない。私は、彼女が話し始めるまで「きっと裕福で幸せな家庭があるんだろうな」と勝手な想像をしていたくらいだ。フラワーデモの特徴は、「被害者」が抽象的な存在ではなく、隣にいる生身の人間の体験だと実感できるところにある。その人の肉声や表情、たたずまいを目の当たりにするからだ。

彼女が最初の被害に遭った翌朝、トイレに行くと下着に真っ赤な血がついていた。何が起きたか全く理解できなかった。それから3~4年、毎日のように被害は続いた。父親は彼女を脅した。「誰かに話したら一家心中だからな」。助けを求めることをあきらめた。

心身に異変が起きた。体育の授業で縄跳びを飛ぶとダーッと尿が流れた。なすすべもなく駅のホームで失禁したこともある。「情けなくて、いっそ殺してくれればよかったのにと思った。自分の体を引き裂きたい衝動に駆られた」

被害を周囲に打ち明けたとき、「悲劇のヒロイン気取り」「忘れた方がいい」などと言われたことがあると語った。

「こんなみじめな人生を、同情を買うためだけに話す人なんていない。誰にも知られたくなかった」

それでもフラワーデモで大勢に思いを打ち明けたのは、「声を上げなければ被害者の屈辱が知られないままだから」。

発言の最後、彼女は涙を流して声を振り絞った。

「今もたくさんの子どもたちが同じ目に遭っている。加害者が何事もなかったように暮らす社会を変えたい」

「#me too」運動の世界的な広がりのなかで…

フラワーデモが始まる前、性被害を告発する「#me too(ミートゥー)」がハリウッドから世界に広がっていた。欧米だけではなく、お隣の韓国でも「ミートゥー」は社会現象になっていた。男が女性を無差別に殺害した事件が発生し、動機が加害者の女性蔑視だったとして大規模な抗議デモが繰り広げられた。当時、私は「なぜ日本ではミートゥーが広がらないのか」と疑問に思っていた。なんと傲慢だったんだろう。フラワーデモのおかげで思い知った。

被害者が告発しないのは、声を上げようとしても周囲が聞こうとしないからだ。社会に蔓延した「口封じ」の圧力が、被害者を黙らせ続ける。服部吉次さんの話は、自分の体験でも分かっていたことだった。

「そういうことは人には言わない方がいい」

私が小学2年生の時のこと。

同級生のミカちゃんの家に遊びに行った。ミカちゃんの住む都営団地の階段を上がっている途中、高校生くらいに見える男がズボンを下げて立っていた。学ラン姿だった。性的な知識がゼロだったので逃げようとも思わず、「なんだか変な人だな」と思ってそばを通り抜けようとした。突然手をつかまれ、性器を握らされた。その時点ではそれが自慰行為ということさえ分からなかった。しばらくして男が脱力した瞬間に走って逃げ、ミカちゃんのお母さんに「怖かった」と事の顛末(てんまつ)を話した。「大変だったね」と慰めてもらえると思ったら、違った。嫌なものを見るような顔で「そういうことは人には言わない方がいい」と注意された。びっくりした。そうか、言っちゃいけないことなんだ……。

帰宅して、おそるおそる祖母に「変なお兄ちゃんがいたよ」とだけ話してみた。「おまえはいつも口を半開きにしてボーッとしているから」と言われた。大好きな祖母を恨む気持ちは全くない。そう言うしかなかったんだろう。皮膚が赤くなるくらい、何度も何度もせっけんで手を洗ったけれど、どうしても汚れが落ちない気がした。そして、無知な7歳の子どもにも、「黙っていろ」という社会の圧力はきちんと通じた。

この体験を、「ミートゥー(私も)」と題して、新聞の小さなコラム記事に書いた。だが、ビビリの私はひきょうにも、成人した後に遭遇した性暴力については書く勇気がなかった。「おまえにも落ち度があるんじゃないのか」と批判されるのが怖かったからだ。

フラワーデモが教えてくれたこと

沈黙を破る責務は被害者にはない。この社会に生きる、一般の人たちが、被害者の声を聞こうとするかどうかにかかっている。フラワーデモはそれを教えてくれた。それでも、声を上げるのは難しい。ジャニー氏の被害者に誹謗中傷が殺到するのを見ても、そう思う。世の中には信じられない、信じたくないような性暴力が身近なあちこちに存在している。その事実を直視することからしか始まらないことを、自分自身も含めてたくさんの人が知った。もう、「なかったこと」にはできないと思う。

出田阿生(いでた・あお)

新聞記者(1997年入社)。東京生まれ。小学校時代は長崎の漁村でも暮らす。愛知、埼玉県の地方支局を経て、東京で司法担当、多様なニュースを特集する「こちら特報部」という面や文化面を担当し、現在は再び埼玉で勤務中。「立派なおじさん記者」を目指した己の愚行に気づき、ここ10年はジェンダー問題が日々の関心事に。「不惑」を超えて惑いつつ(おそらく死ぬまで)、いっそ面白がるしかないと開き直りました。

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(イラスト 安里貴志)

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