事故物件の日本史【第8回】なぜ平賀源内は人を殺めてしまったのか?|大塚ひかり

「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。

第八章 平賀源内と凶宅

呪われた家に住んで殺人を犯した源内さん

前章で、不吉な凶宅にあえて住む人がいた、藤原兼家や平賀源内(1728~1799)のように……と書いた。
そうなのだ。エレキテルで有名な源内さんも凶宅に住んでいた。
しかも、ここで彼は人を殺している。
この事件が謎だらけで、「事件の実相については諸説紛々」(芳賀徹『平賀源内』)。
「ある大名(田沼意次か)の別荘の修理普請について、源内が町人某と争った」ものの、「和議協同することになり、源内宅で仲直りの酒宴」となった。町人某は泥酔して寝てしまい、源内も居眠りしてしまったが、目覚めると、彼が綿密に書き込んだ普請の計画書が見当たらない。源内は逆上し、町人に斬り付けた。ところが町人が逃げ帰ったあと、後悔した源内が切腹覚悟で身辺を片づけ始めると、なくなったと思った書類が出てきた。また別説によると、殺した相手は前夜から泊まりに来ていた源内の門弟二人だったともいい、彼らが源内の秘密にしていた書類を盗み読みしたことに気づいた源内が、逆上して斬り付けたのだともいう(芳賀氏前掲書)。
殺した相手も人数も定かではないのである。
確かなことは「代々不吉なことのつづいた凶宅として人々が敬遠していた」(芳賀氏前掲書)いわば呪われた家を、広くて安いからと源内が買い取った。まさにその年、その家で事件を起こし、間もなく獄死した、ということだ。
合理的な源内は、凶宅の噂など気にはしなかったのかもしれないが、実は「事件の起るしばらく前から」異常な言動があったと言い(芳賀氏前掲書)、どこにいても事件は起きたのかもしれない。

源内の住んだ“凶宅”

ここで源内の著作と人となりについて少し触れると、彼は風来山人の名で戯作も残しており、『根南志具佐<ねなしぐさ>』は美貌の役者・菊之丞を巡る男色物である。菊之丞に入れ込んだ坊主が、寺のものを売り飛ばし、地獄に堕ちるのだが、坊主が後生大事に持っていた菊之丞の絵姿に閻魔王が一目惚れし、菊之丞を水に溺れさせて地獄に連れて来るよう龍王に命じる。龍王の支配下にある河童がその役目を買って出るものの、菊之丞と恋仲になり、役目を果たさず、後篇では閻魔王に蹴り殺されてしまう。あげく、その亡魂は娑婆をさまよい、人の体を借りて“男色千人切の馬鹿を尽す”という、悲劇とも喜劇ともつかぬ顛末となる。
源内は男色家としても有名で、『江戸男色細見』という男色風俗店ガイドブックのような本も出している。その「序」では、餅好きが酒の趣を知らず、酒飲みが羊羹を嫌うのと同じで、男色と女色は趣味の問題であると主張した上で、男色に肩入れしている。
当時の男色はいわゆる両刀、両性愛であることがほとんどだ。男色ということば自体、女色の対義語で、男目線の用語である。しかし、こと源内に関しては、今のゲイ(男性同性愛者)という意味での男色家であった。
先の殺人事件に関しても、男色絡みという説もあるほどだ(別冊太陽『平賀源内』芳賀徹・田中優子対談)。
殺しの動機はともかく、ここで気になるのは源内の住んでいた凶宅である。
大田南畝(1749~1823)の『一話一言』の源内の箇所を当たってみると、
“火浣布を考へ出して、御勘定奉行一色安芸守殿につきて公に献り上覧に入る、後神田白壁町の裏に住居す、又藤十郎新道に移り、又柳原細川玄蕃殿やしき前の町屋に移り(此頃門口に柳を一もと植置けり)終に馬喰町の町屋に移る(一検校の住しし凶宅なり)”
と、ついのすみかとなった馬喰町(神田橋本町……東神田一丁目)の町家は“一検校の住しし凶宅なり”という注記がある。しかるに、
“安永八年己亥十一月廿日の夜病狂喪心して人を殺し(米屋の子なりといふ)獄に下る、同十二月十八日病て獄中に死す”
ということに。こうして死んでしまった源内のために、友の杉田玄白が私財で墓碑を建てたことが記されている(巻二「平賀鳩渓」……『蜀山人全集巻四』増訂一話一言)。
ここに記された“一検校”というのは「神山検校」と呼ばれる金貸しなのだが、そもそもこの家、「もと金貸を業とする浪人が住んでいたが、何かの子細があって、その浪人はこの家で切腹した。そのあとへ、神山検校という、これも金貸業の盲人が入っていたが、不正な利を得ていたことがばれ、その身は追放となり、その子は井戸におちて死んだ」(城福勇『人物叢書 平賀源内』)
という、凶事の連鎖する曰く付きの凶宅であった。源内はそんな不吉な家に住んだわけである。

盲人史上、希有な「大事件」との関係

ここで神山検校について説明したい。
まず検校とは盲人の官位の一種で、上から検校、別当、勾当、座頭の四官がある、その最上位である。そうした官位を得るには「一定の官金(官銭・官銀)を必要とした」(加藤康昭『日本盲人社会史研究』)。中世には、芸に秀でた者に授けられた官位が、近世になると「まったく芸能から切り離され」(加藤氏前掲書)、カネで官位が買えるようになる。
つまり最上の官位を得ていた神山検校は、相当の金持ちだったのだ。
加藤氏によれば、検校になるには四十五両もの官金がかかり、しかも勾当からいったん別当になり、そこからさらに……という道筋なので、そのつどカネがかかる。
そのためのカネは芸能や医業で稼ぎ、さらにそうした納付のための官金を高利貸しに回して利子を取ることが盲人には許されていた。
こうした盲人の官金貸し付けが最も発達していたのが宝暦・天明期(1751~1788)であった(加藤氏前掲書)。
源内が神山検校のいた「凶宅」に移り、事件を起こして獄死したのが安永八年(1779)だから、まさに盲人高利貸しの全盛期である。
そして前年の安永七年(1778)には、盲人史上でも希有な「大事件」があった。
盲人たちによる不当な高利貸しが発覚し、八検校・一勾当・一座頭が検挙処分されるという前代未聞の事件が起きていたのである(中山太郎『日本盲人史』)。
中山氏の前掲書をよく読むと、なんとその中に「神山検校」の名があった。
彼は安永七年九月二十四日に入牢、安永八年二月九日に追放されたが、天明六年(1786)には将軍家治薨去<こうきょ>のために赦免され、寛政三年(1791)、神山秀一として復座帰官がゆるされたことがうかがえる(中山氏前掲書)。
神山検校が追放された安永八年は、源内が凶宅に住み、殺人を犯して獄死したのと同年だ。
二月に検校が追放され、その後、源内がそこに住み、事件を起こした……と考えると時系列的にもつじつまが合う。
肝心の神山検校の住所だが、中山氏の前掲書によると「神田久右衛門町一丁目代地宇兵衛店」とある。今の東神田のあたりで、古地図を見ると(国立国会図書館デジタルコレクション〔江戸切絵図〕日本橋北神田浜町絵図」)橋本町や馬喰町とは目と鼻の先だ。
源内の住んでいたのが神山検校の家であったかどうかはともかく、たとえ別の家であったとしても、至近距離にある二宅で、二人の男が相次いで罪を犯して捕らえられるという大事件が起きていたことは、確かな事実である。
源内の頭の中に、凶宅のイメージがあって、それにとらわれるあまり、つまりは大島てるのいう、「事故物件」という事実そのものが「入居者の精神に影響を及ぼし」(→第1)、ただでさえ精神不安定になっていた当時の源内に追い打ちをかけたのか、全くの偶然なのかは、今となっては分からない。
が、この凶宅に対して、源内が、三善清行ややましたひでこのような敬意を持っていたかというと、大いに疑問だ。
大事な書類を盗まれたと勘違いしたことも、彼の家がいかに乱雑であったかを物語っていよう。あるいはそれが事件の発端ではないにしても、そのように取り沙汰されるほど、晩年の源内の家と暮らしは荒れていたのだ。

大塚ひかり(おおつか・ひかり)

1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。

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