新聞記者として働き、違和感を覚えながらも男社会に溶け込もうと努力してきた日々。でも、それは本当に正しいことだったのだろうか?
現場取材やこれまでの体験などで感じたことを、「ジェンダー」というフィルターを通して綴っていく本連載。読むことで、皆さんの心の中にもある“モヤモヤ”が少しでも晴れていってくれることを願っています。
【第9回】日本人女性の7割がその存在を知らない「中絶薬」
生まれて初めて知った「中絶薬」という薬
わたしには2歳下の妹がいる。6年前にオランダに移住し、夫と子どもと暮らしている。
日本でもコロナが猛威を振るい始めた、2020年の初夏のこと。
「妊娠が分かったよ」
妹とスマホでビデオ通話していたら、うれしそうな表情で報告があった。
ただ、その後、診察で心拍が確認できず、初期の流産と判明した。
処置として、助産師や医師から提案されたのが「飲む中絶薬」だった。
生まれて初めて中絶薬について聞いた妹は、面食らった。
中絶薬について説明すると……。
主に妊娠初期の人を対象とする2種類の飲み薬。まず、最初に「妊娠継続に必要なホルモンを止める薬」(ミフェプリストン)を服用。次に36~48時間後、「子宮の収縮を促す薬」(ミソプロストール)を飲んで、妊娠によって生成されたものを体の外に出す。この過程は、中絶でも流産の処置でも変わらないので、妹は流産の処置に使ったというわけだ。
日本では現在、製薬企業のラインファーマ(東京都港区)が「メフィーゴパック」という商品名で製造・販売する。承認されたのは、つい昨年(2023)4月のこと。わたしも今でこそ知っているが、4年前に妹から聞いたときは、大げさではなく、この世にそんな薬があるなんて知らなかった。
処置の選択肢を自分で選ぶことができた
実際に使った感想を妹に聞いてみると、「満足のいく経験だった」。
一言でいうと、重い生理と似たような感じ。自宅で家族と一緒に過ごしながら、安全に処置を終えられたという。
少し長いが、妹の体験談をご紹介したい。
◆
妊娠8週目の検査で心拍がないと判明。どうするかについて、①中絶薬を使う②自然に出てくるのを待つ③手術をする――を病院で提案された。
医師は「3つのうち、手術だけはファーストチョイスとしては勧めない。子宮を傷つける危険性があるから」
残る2つの選択肢は、体に与える影響は同じ。ただし薬なら自分でタイミングを決められると説明されたので、薬を選んだ。自分の体のことを自分で決める……簡単なようで、実はこれまでの人生で、あまりやってこなかったと気づく。
薬は自宅で服用するが、異常な出血や痛みがあれば24時間対応の電話があるので、大丈夫だと思った。それに病院でひとりぼっちで過ごすより、自宅で家族と一緒にいる方がリラックスできる。
服用のタイミングについても、医師から厳密な指示はなかった。
「都合のいい時間に服用してね。ただし、あまり待つと自然に出てきちゃうから、待ちすぎないように」
そこで学校に子どもを送った後、1番目の薬(ミフェプリストン)を飲んだ。すぐに猛烈な眠気と吐き気に襲われた。でも、実際に吐くほどではなかった。
翌々日、2番目の薬(ミソプロストール)を飲む。寒気と眠気を感じた。出血が続き、生理が重いときのようなおなかがひきつれる痛みがある。痛み止めを飲んでやり過ごした。
ここで、医師に聞き忘れていた疑問がわいた。
「どういう状態になったら流産完了なの?」
布団に寝転がりながらネット検索。すると、アメリカ在住の日本人医師(女性)の体験ブログにたどり着いた。
親切にも「こんなものが出てくる」という写真が載っていた(見たい人だけクリックして見るように配慮されていた)。2番目の薬を服用してからしばらくして、血の塊→血じゃない何か、の順番で出てきた。事前にブログを見ていて予想できたので助かった。
最初の薬を飲んでから排出まで3日くらいかかった計算。起き上がって歩くと出血量が少し増えるので1週間くらいは寝ていた。その後は元通りに動けるようになった。
(体験談ここまで)
◆
妹にとってこの処置が「満足のいく経験」になったのは、中絶薬の便利さだけでなく、医療関係者の対応が大きかったという。
「助産師や医師は体調だけでなく、常に精神状態を気遣ってくれた。処置の選択肢を複数示され、納得のいく説明を受けた上で、自分で選べた」
そんな言葉を聞いて、妹は医療の場で「尊重された」と感じられたんだな、と思った。
ただ、医師にものすごく驚かれた場面があったという。
それは会話の中で妹がこう伝えたときのこと。
「日本では中絶薬は認可されていない」
オランダ人の女性医師は、文字通り目がまん丸になった。
「世界の多くの国で使われていて安全性は保障されている。なんで? 日本って医療が進んでいる国だよね?」
安全な薬というイメージが伝わってこない日本
妹によると当時、日本語でネット検索して出てくる中絶薬の情報は「まるでホラー」だった。出てくるワードは「違法」「流血」「死の危険」「自宅で血の海になり、痛みにのたうち回る」といったものばかり。
たとえば、中絶手術を手がける神奈川県内の婦人科クリニックのサイト。
「服用すると大量出血で死に至る恐れがある」
日本では未承認だったので仕方ないかもしれないが、医者が発信している情報がこうなのだ。怖くなるのは当然だ。
ホラーな検索結果の中で、唯一役立ったというサイトもここで紹介しておく。日本発ではなく、海外の中絶支援団体「Women on Web」だ(※産婦人科医が創設した国際団体。2005年からインターネットで安全な中絶を受けられない人たちに情報提供し、オンライン診療で中絶薬を郵送している。サイトには日本語表記もある)。
承認後の現在はさすがに、ホラーのような記述は激減している。ただ、マスメディアの報道でも「副作用の恐れ」「医師の厳しい管理が必要」などと危険性が強調され、今も安全で安心な薬というイメージは伝わってこない。
しかも、日本では厳しい使用条件がついた。薬は母体保護法の指定医師しか扱えず、医療機関はベッドがある入院可能な病院に限定。中絶の完了まで、入院か院内待機が必要……。
これに対し、世界保健機関(WHO)は「妊娠初期の女性が自宅で中絶薬を服用しても安全」と発表しているし、自宅で服用ができるオランダとだいぶ違う。なぜなんだろう。
海外では最もポピュラーな方法のはずなのに…
中絶薬について知った後、中絶について考える市民団体が発信する情報や、研究者やジャーナリストが書いた著書や論考を読むようになり、ますます日本と海外とのギャップを感じるようになった。
そもそも、中絶薬は1980年代にフランスで開発され、いまや80カ国以上で使われている。海外ではこの20年で広く普及し、妊娠初期の中絶では最もポピュラーな方法になっているという。その安全性と効果の高さは、WHOが2019年、「必須医薬品リスト」に入れたことでも証明されている。
翻って日本。世界初のフランスと中国での認可が1988年だったことを考えると、承認には35年もかかっている。経口避妊薬(ピル)が長年導入されなかったことと激似だが、ピルは日本でも1970年代に解禁を訴える女性運動があった。中絶薬について、多くの女性が存在すら知らなかったのは、そのあたりの背景もありそうだ。
もっといろいろ知りたいと思っていたところ、フリーライター・編集者の大橋由香子さんの論考(「世界」2023年4月号)で、国際団体「Women on Web」(WoW)のサイトで日本人女性が中絶薬を使った体験談が読めることを知った。妹が「唯一役立った」と言っていたあのサイトだ。
WoWの創設者で産婦人科医のレベッカ・ゴンパーツさんとリサーチャーの加藤雅枝さんによる「中絶薬に伴う痛みと出血~2021年にWoWから支援を受けた日本人女性の中絶薬服用体験」という発表である。
それによると、薬を服用した日本人46人全員が「とても満足」「満足」と回答。それぞれの体験談を総合し、こんな風にまとめられている。
「重い出血や、痛みがあってもじきにおさまるものであり、中絶薬を服用した女性の満足度は非常に高い」
この発表には、日本への懸念も書かれている。
「日本のメディアで報道される中絶薬に関する情報はあまりにも誤解が多いと感じざるを得ない」
そのため、WoWには日本の女性から「出血が止まらないと聞きましたが本当ですか」「痛みはどれくらいなのですか」と不安を抱く質問が数多く寄せられているそうだ。
もちろん、WoWは手術より薬がいいと勧めているわけではない。シンプルに「選択肢を増やしましょう」と言っているだけだ。
実際、日本でも重大な事故は起きていない。国内で中絶薬を製造・販売するラインファーマが実施した市販後半年間の調査では「重篤な副作用」の報告はゼロ。大規模な調査研究でも同じである。国の研究班が昨年5~10月に2096施設で行われた中絶3万6007件を分析したところ、子宮破裂や大量出血といった重い合併症は、手術では0.2~0.6%の割合で起きたが、薬ではゼロという結果になったという。
厚労省はこうした調査結果を受け、入院や院内待機の条件を緩和することを検討しはじめている。そんなニュースを読んでいると、思わず「日本でも広がるのでは」と期待が高まるが、現実にはそんなに簡単な話ではなさそうだ。薬の承認後も、日本ならではの「ガラパゴス」状態が続いているからだ。
中絶薬の広がりを阻む、数々のハードル
まず、使いたいと思っても、アクセスが難しい。ラインファーマによれば、中絶薬を取り扱う医療機関は全国で計191カ所(8月16日現在)。中絶ができる母体保護法の指定医師がいる医療機関のうち、どのくらいの割合なのか。産婦人科医の職業団体「日本産婦人科医会」に問い合わせてみた。するとこんな回答が。
「会員は2023年で4859施設。その多くに指定医師がいると思うが、内訳は分からない。指定医師がすべてうちの会員というわけでもない。厚労省でも数は把握していない」
つまり実数は不明。ただ全国で最低4000カ所以上はあると推測できる。仮に4000カ所とすれば、現段階では5%程度となる。全体の1割にも満たない。というか、日本中探して200カ所もないなんて、あまりに少なすぎる。
次のハードルとして、値段が高い。中絶薬の値段は数百円という国もあり、高くても数万円が相場だという。ところが、産婦人科医会の前会長は、薬を使う中絶費用について「手術と同じくらい」と発言した。日本では中絶に健康保険は原則適用されないので、手術も海外と比べて相当に高額といわれている。ジャーナリスト古川雅子さんが調べた「薬を用いた中絶」の価格帯調査(「AERA」2023年12月18日号)によると、「10万~12万円」が最多、次が「16万~18万円」だったという。薬の投与だけなのに、高すぎるのでは……。
そして中絶手術と同じように、女性が結婚している場合は「配偶者の同意」が必要。未婚でも、父親と推定される男性の同意を求める医療機関は少なくない。「医者が勝手に自分の子どもを中絶した」と男性から訴えられないための対策だという。同意を求める国は、世界でも11の国・地域というが、いまだに日本はそんな段階なのだ。
当然の結果として、知名度が低い。
前出のラインファーマの調査では「7割の人がいまだに中絶薬を知らない」という結果が出ている。今年5月に同社が2000人の女性を対象に実施した意識調査によると、「知っている」と答えた人はたった29%だった。
中絶薬はいまだに日本の女性にとって、はるか遠い存在なのだ。
妊娠初期に中絶薬を使えば、自然な流産と同じように、安全に妊娠を終了させられることが分かっているのに、なぜ日本人女性だけがこんな状態におかれているのか。
悔しさがこみ上げる。
わたしは薬をきっかけに中絶について興味を持ったが、最も衝撃だったのは、日本の中絶は特殊であると気づいたことだ。
たとえば金属の器具を使って子宮の内容物を取り出す「掻爬(そうは)法」が今も使われていること。WHOが安全性の観点から「吸引法」と「中絶薬」に切り替えるよう注意喚起している時代おくれの手術法という。それって医療というより「伝統芸能」のようだ。
前出のジャーナリスト古川雅子さんがネット連載した調査報道も驚きだった。
なぜ日本では35年も中絶薬の導入が遅れたのかという謎を解き明かし、「科学ジャーナリスト賞優秀賞2024」を受けた労作(*1)である。
それを読むと、日本産婦人科医会を筆頭として母体保護法の指定医師たちが導入に長年消極的だったこと、そこへ「安易な中絶をさせないように」と女性の自己決定権を無視する一部の政治家が便乗している様子が伝わってくる。女性の健康や人権を守るという視点はどこにもない。あまりに闇が深すぎる。
もっと社会全体で中絶の話を
最後に、妹から聞いた余談。オランダで知り合った日本人女性4人に自分の流産の話をしたら、なんと全員が流産を経験していたそうだ。
「流産や死産、中絶って、人に言わないだけで大勢の女性が経験しているんだと思った」
きっとそうなのだろう。自分自身でも思い当たる。世間でおおっぴらに話されるのは、出産に結びつく妊娠の話ばかりだ。それ以外の結果に終わった妊娠の話は、まるでタブーのよう。そんな空気が、日本で中絶の問題が前に進まないひとつの原因なのかもしれない。
もっと社会全体で中絶の話をしていかなきゃ、と思った。
是非の道徳論ではなく、保障されるべき医療の話として、女性の人生と直結する大事な選択肢の話として。
もう「ガラパゴス」はごめんだ。
(*1)https://news.yahoo.co.jp/articles/e5688b69db3b3837d043b907f75a081d830f668f
出田阿生(いでた・あお)
新聞記者。1974年東京生まれ。小学校時代は長崎の漁村でも暮らす。愛知、埼玉県の地方支局を経て、東京で司法担当、多様なニュースを特集する「こちら特報部」という面や文化面を担当し、現在は再び埼玉で勤務中。「立派なおじさん記者」を目指した己の愚行に気づき、ここ10年はジェンダー問題が日々の関心事に。「不惑」の年代で惑いまくりつつ(おそらく死ぬまで)、いっそ面白がるしかないと開き直りました。
連載一覧
- 第1回 立派な「男」になろうとしていた私
- 第2回 被害者の声を聞く…それはフラワーデモから始まった
- 第3回 家父長制クソ食らえ
- 第4回 祖母の死とケア労働
- 第5回 「水着撮影会」問題を自分事として考える
- 第6回 ”何かになること”を押しつけられない社会へ
- 第7回 日本社会が認めたがらない言葉「フェミサイド」
- 第8回 アフターピルの市販化を阻むものは何か?
- 第9回 日本人女性の7割がその存在を知らない「中絶薬」
- 第10回 「社会はそんなに不公正ではない」と思いたい人たち