「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。
第十章 橋と事故物件
永代橋崩落事故にまつわる霊現象
戸山の徳川尾張藩の下屋敷について調べるために国立国会図書館デジタルコレクションで『江戸叢書』を見ていた時のこと。
同じ十二巻に所収された『遊歴雑記』巻の四に「深川富賀(ママ)岡八幡宮永代寺」という項目があって、そこに深川の富岡八幡宮の祭礼の際、永代橋が崩落し、千人以上の男女が溺死したという“怪事”があったと書かれていた。
永代橋の崩落とは、文化四(1807)年8月19日に起きた史上最悪と言われる橋の事故である。その惨事は同時代のさまざまな書籍に伝えられている。
とくに大田南畝(1749~1823)編の『夢の浮橋』は、被害者等に広く詳細に取材して書かれたルポルタージュで、事故の規模と悲惨さが伝わってくる(『燕石十種』第四巻)。
同じ大田南畝が採録した『夢浮橋附録』は、江戸鎌倉河岸の酒家豊島屋十右衛門が目の当たりにしたことを書き、その日に伴った画工に祭礼の賑わいを描かせたものなのだが……それによれば、富岡八幡宮の神事は本社再建のため長らく中絶していたところ、文化四年、久々の祭礼だった上、8月15日は雨で延引し、19日となって、諸方から聞き伝えて見物人の数がおびただしくなった。そのため橋が崩れた時は“千石どうしへ米の落入るがごとく、あまたの群集左右よりおちかさなり”、その叫び声で“耳もつぶるゝ計也”という大惨事になったという(『燕石十種』第五巻)。
また、『南総里見八犬伝』で名高い曲亭馬琴(1767~1848)も、『兎園小説余録』に事件のことを書き記している。
その中で興味深いのは、一種、霊的ともいえる奇談の数々が伝えられていることだ。
たとえば事故後、夜な夜な橋のほとりの水中に“陰火”が燃えていることがあり、また、“鬼哭の声”がしたこともあるというので、南の橋詰めに小屋を作って法師が鉦を打ち鳴らし、常念仏を唱えていた、と。
こうした怪奇現象は大田南畝編の『夢の浮橋』にも多々伝えられている。
以下、『夢の浮橋』から話を拾ってみると……。
京橋水谷町の材木商が妾を連れて祭見物に行こうとしていたのを、本妻が察した。立腹した本妻は、それとは言わずに、急に髪をセットして着物を着替えなどして、
「祭を見に行きましょう。一緒に来てくださいな。もしも小汚い私なんかを連れて行くのが面倒なら、あなたひとりで留守番してください」
と言いだした。妾と行くとは言えない夫は、仕方なしに留守番をして、妾との祭見物にも行かずに家にいた。ところが永代橋の事故が起きたわけである。妻の亡骸を見ると、憎かったことも忘れ、哀れに思った。そんなふうに思ったせいなのか、その晩から妾のもとに亡き妻が現れ、恨めしげに見つめる。これを知った近所の人もだんだんと噂をするうちに、七日目に当たる夕方、京橋のほうから蜂が幾千ともなく群がり来て、夫が妾に持たせていた手ぬぐい店の軒に集まったので、店の者も驚いて追い払ったところ、蜂は南のほうを目指して皆、飛び去った。
“是もまた亡妻の霊なり”
と、誰言うともなく恐れ合ったという。
妾に対して具体的に悪さをするわけではないところが、かえって真実味を帯びている。
前兆めいたこんな話もある。
祭当日の早朝、“小童”が一人、永代橋を渡りながら、“此橋後に落ちるぞ”と言いながら二、三遍、往復していた。それで橋の番人が出てきて、“不吉なる事をいふものなり”と言って棒で追い払うと、どこへともなく行方をくらました……。
死後、我が家に帰ろうとした魂もあったようで、亀島町の裏店に住んでいた祐益という老医が祭見物に行って、日暮れ時、袖もぐっしょりと濡れ、泥まみれになって帰って来たと妻の目には見えたのに、しばらくすると見失った。不審に思っていると近所の人が来て、橋から落ちて死んだ夫の亡骸が見つかった。帰宅したように見えたのは、亡き魂の“一念”が我が家に帰ってきたのであろう、という。
こうした話を読んでいて思い出されるのは2011年の東日本大震災である。
この震災の際も、さまざまな霊現象が伝えられたもので、こうしたことを見ると、霊魂というのは存在するのだろうか……とも、死んだ人と何とかしてつながりたいという人々の切なる思いが霊現象という形になるのだろうか……とも、思うところはさまざまだ。
震災では津波の被害が甚大で、つまりは水の被害ということで、永代橋崩落事件との共通項もある。
ただ、永代橋崩落事故は、橋が構造的に大勢を支えきれなかったゆえに起きた人災の側面もあるのだが……。
そもそも橋自体が、水難と切っても切れない上、地域の境界の役割を果たすため、怪異の起きがちな場所として古典文学の随所に出てくる曰く付きの場でもあるのだ。
有名なのが『源氏物語』の巻名にもなった「橋姫」である。
橋は怪異と出会う場所
「橋姫」とは橋を守る女神で、とくに宇治橋のものが知られている。それで『源氏物語』の薫(源氏の晩年の正妻・女三の宮が柏木に犯されて生まれた子。源氏はその事実を知りながら我が子として育てた)は、宇治に住む八の宮の姫たちを橋姫になぞらえ、歌を贈る。そこから「橋姫」という巻名がついたのである。
薫が姫たちに贈った歌は、『古今和歌集』に収められた名高い歌を踏まえている。
“さ筵<むしろ>に衣<ころも>片敷<かたし>き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫”
という読人知らずの一首がそれで、宇治の橋姫には夫を待ついじらしい女のイメージがあった。
一方で嫉妬深い女のイメージもあった。
平安後期の歌学書『奥義抄』によると、この歌は「橋姫の物語」というものの中にあり、昔、妻を二人持つ男がいて、元の妻がつわりで七色のワカメをほしがった。ところが男がワカメを採りに海辺に行くと、龍王に魅入られてしまう。それで元の妻が海辺に探しに行って浜辺の家に泊まったところ、男が出てきてこの歌を詠んだものの、明朝、消えてしまった。話を聞いた新しい妻が同じように海辺で男を待っていると、男はまたこの歌を詠んで出てきたので、新しい妻は、「私を忘れて、元の妻を恋うるのか」と嫉妬してつかみかかると、男も浜辺の家も消えてしまったという。
後述のように橋姫に関しては恐ろしい伝説も多く、とくに宇治の橋姫は「嫉みの神」として古くから有名で、橋の上でなく下を通らないと、橋姫の嫉妬で男女は離婚するという(『定本柳田國男集』第五巻「一つ目小僧その他」)。柳田によると「ネタミ」の古意は「憤り嫌ひまたは不承知」であったといい、そういう気質のある神を橋の辺に祭ることで外敵の侵入を防いだのであって、もとは道祖神のように男女二神の結合力で以て侵入者を突き飛ばすと信じられていたのだという。
橋姫にいじらしさと恐ろしさの両面があるのは、身内には優しく、敵には恐ろしい顔で防御するため、柔と剛と二つのイメージが生じたのかもしれない。
平安末期の『今昔物語集』には、こんな話も収められている。
昔、近江守の館に若く元気な男どもが集まって双六をしたり食べたり飲んだりするついでに、一人の男が、
「この国の安義橋<あぎのはし>という橋は、昔は人が行き来していたのだが、どんな言い伝えがあるのか、今は無事に通りおおせた者はいないという噂が立って、誰も通らなくなった」
と言う。すると、口達者で、それなりに腕に覚えのあるお調子者が、
「俺ならその橋を渡ってやるぞ。どんなに恐ろしい鬼であろうと、この館でナンバーワンの鹿毛<かげ>(鹿毛の馬)に乗りさえすれば、渡れる」
と言い出した。それを受けた皆が皆、
「それはいい。まっすぐ行けば近い道を、この噂のせいで遠回りしているんだから、この噂が本当なのか嘘なのか、はっきりさせようぜ。また、こいつの勇気の程も見よう」
とけしかけた。事情を知った近江守は、
「そういうことなら」
と鹿毛を提供。引くに引けなくなった男は、胸がつぶれる思いをしながらも、橋を渡ることにした。
恐怖で気分も悪くなる中、男が橋の中ほどまで行くと、人がひとり立っている。
「あれが鬼だな」と、どきどきしながら見ると、それは、なよやかな薄紫の衣に、濃い紫の単衣、紅の袴を長々と履いて、口をおおった、色っぽい眼差しの女であった。
男を見て恥ずかしそうにしながらも、“喜<うれ>し”と思っている様子。男は彼女を見るとすっかり理性を失って、「馬に乗せて行きたい」と思うものの、
「いや、こんな所に女がいるわけがない。これは鬼だ」と思い返して、目をつぶって通り過ぎようとした。すると女は、
「どうしてそんな冷たく素通りなさるのです。私はこんな思いもかけないひどい所に捨てて行かれたのに。人里まで連れて行ってください」
と言う。
その様子に、男は、髪も身の毛もよだつ心地がしたので、馬を早めて飛ぶが如くに行くと、女の、
“穴情無<あななさけな>”(ああひどい)
という声が、地響きのように聞こえる。
「やはり鬼だった」と思った男が、「観音様、お助け下さい」と祈りながら馬に鞭打ち行くと、鬼が走って馬の尻に手をかけ引っ張ろうとする。馬には油が塗ってあるので、滑ってつかむことができない。男が振り返ると、鬼の顔は真っ赤で敷物のようにでかい。目は一つ、丈は九尺、手の指は三つで、爪は五寸ほどで刀のよう。色は緑青で、目は琥珀の如く、頭はよもぎのようにぼうぼうに乱れている。それをどうにか振り切って、黄昏時にやっとのことで館に帰り着いた。
ところが……その後、同母弟に化けた鬼によって、結局、男は殺されてしまうのである(巻第二十七第十三)。
橋と人柱と事故物件
いったんは助かったのに、その後、再び襲われ命を落とすというのは、古今東西、ホラーの定番で、恐ろしい……。
『今昔物語集』の巻第二十七にはほかにも、東国から上京した人が今の大津市の勢田の橋を渡ったあたりで鬼に遭遇した話(第十四。未完)、同じく勢田の橋の上で、怪しい女に遭遇し、別の橋の西のたもとにいる女へ、中身を見ずに箱を渡すよう託されたものの忘れて帰宅、男の留守中、妻が嫉妬して中を見ると、人の目玉をくりぬいたものや毛が少しついた男根を切り取ったものがたくさん入っており、戻って来た男はあわてて、別の橋の女に渡したものの、死んでしまった話(第二十二)など、橋の怪異が多く伝えられている。
こうして見ると、橋と女、橋と鬼の関わりは深いと言わざるを得ない。
そのルーツを考えると、橋の造成技術や建築事情に行きつくようだ。
『今昔物語集』より300年ほど前に書かれた『日本霊異記』にはこんな話がある。
役優婆塞<えんのうばそく>(役行者)がもろもろの鬼神をせっついて、
「大和国の金峰山と葛城山のあいだに橋を架け渡せ」
と命じたため神々が愁嘆、文武天皇の御代に、葛城山の一言主大神が人に憑依して「役優婆塞は天皇を滅ぼそうとしている」と讒言した。天皇は役優婆塞の母親を人質にしたので、役優婆塞は出頭し、伊豆に流された(上巻第二十七)。
役行者が伊豆に流されたことは、正史の『続日本紀』文武天皇三年五月二十四日条にも見えており、ここで“役君小角<えんのきみをづの>”と記される彼は、
“能く鬼神を役使して、水を汲み薪を採らしむ。若し命を用ゐずは、則ち呪を以て縛る”
とされ、鬼神を意のままに使っていたと信じられていた。
昔話にも鬼が作った橋の説話が各地に残っている。
先端技術を要する橋の造成はかつて鬼神の仕業と考えられていたわけだ。
加えて、橋の建設を無事済ますため、あるいは橋の事故を防ぐため、「人柱」を立てたという話も古くから語られている。
有名なのが、
「雉も鳴かずば打たれまい」
ということわざの成立と共に語られる大坂の長柄橋の人柱伝説だ。
南北朝時代の説話集『神道集』に収められた「橋姫明神事」によると、そもそも“橋姫”と申す神は、日本国内の大小の河川の橋を守る神で、摂洲の長柄川の橋姫、淀川の橋姫、宇治川の橋姫など、数多い。長柄の橋姫に関して言うと、斉明天皇の御代、摂津の国で長柄の橋が架けられた時、人柱が立てられた。それがこの川の橋姫となった。そのため川で死ぬ人は皆、橋姫の眷族となるという。
それというのも、この橋はこれまでたびたび架けられたが、長続きがしなかった。架けても架けても落ちてしまっていたのだ。それで、人柱を立てようと内密に相談をしていた。折しも、浅黄の袴の膝が切れた部分を白い布で縫い付けた男がやって来た。その妻と思しき女も、二、三歳の幼い子を背負って通りかかった。そこで野辺の鶏(原文ママ)が鳴く声がして射られてしまったので、この男は、
「可哀想に。鳴かなければ捕られはしなかったものを」
と言いながら、これから我が身に起きる不思議なことは知る由もなかった。男は橋の材木の上に休みながら、
「こういう、架けても架けても落ちる橋には、人柱を立てるものだ。ただしその有様は、浅黄の袴の膝の切れた部分を、白い布端で縫い付けたものを着ている者を取って、人柱に立てれば、まちがいなく橋は成就するだろう」(国立国会図書館デジタルコレクション『神道集』の原文を筆者が訳した)
と言った。実は男は、袴の切れたのを、妻が白い布で繕っていたことを、夢にも知らなかったのである。しかるに、ほかならぬ我が身が人柱の条件そのものだったので、これを聞いた橋奉行は彼をつかまえ、人柱に立ててしまった。その妻も同じように人柱に立てられたため、妻は悲しんで一首の歌を橋の柱に結び、泣く泣く幼児を背負ったまま川に身を沈めた。その歌は、
「喋ったばかりに長柄の橋の人柱になってしまった。鳴かなければ雉も捕られはしなかったのに」(“物イヘハ長柄丿橋ノハシ柱 泣スハ雉ノトラレサラマシ”)
それで、この女がこの橋の“橋姫”となった。人々は哀れんで橋の端に社を建て、“橋姫明神”として祀ったという(第三十九)。
夫が人柱になり妻が橋姫になる……というのは、柳田国男の言う、もとは男女二神の結合力で侵入者を突き飛ばす橋の神の原形を彷彿させる。
そして、人柱を埋めて作られたといういきさつ自体がすでに事故物件とも言える。
鬼神が作ったという伝説といい、橋は異界とつながりやすい要素を孕んでいるわけだ。
水と異界
橋に限らず、水と関連する場所は事故物件になりやすい。
川や海が水難事故と切っても切れない関係であるのはもとより、橋や井戸では人が身投げするなど、やはり死との親和性が高い。
冬の風呂やトイレは今でもヒートショックやいきみなどで倒れやすい場所であるが、前近代のトイレは、古代は川を利用しての水辺にあり、中古・中世も水路に汚物を捨てに行くなど、水との関わりは深い。かつ外にあって脳卒中などで倒れて人が死にやすい場所であった。
『古事記』では、美女がトイレで排泄しようとした際、“溝<みぞ>より流れ下りて”来た三輪山神の化けた丹塗矢で陰部をつつかれ、それがきっかけで神の妻になったり、ヤマトタケルノ命が兄が厠に入ったのを待ち伏せし、つかみつぶして殺したりと、怪異にあいやすい場としても描かれている。第二章で紹介した古代中国の『捜神後記』で、李頤<りい>の親族が凶宅で滅するきっかけとなったのも、李の父が厠で怪異にあったからであった(トイレと怪異については拙著『うん古典ーーうんこで読み解く日本の歴史』に記した)。
京都の六道珍皇寺には、平安時代の学者・小野篁が現世と冥界を往来したと言い伝えられる井戸もある。
水のあるところは死と関係し、だからこそ異界への入り口や通路になりやすく、事故物件にもなりやすいのだろう。いわば現世と異界の「境」である。
「池袋の女」や「池尻の女」を雇うと怪異が起きるという江戸時代の俗信も(→第五章)、一つには水に関わる土地柄も手伝って、異界に近い者とされていたからかもしれない。
橋や川は村と村をつなぐ「境」になっていることが多いもので、あの世(異界)とこの世の「両界に通じている」(飯島吉晴「厠考ーー異界としての厠」……小松和彦責任編集『境界』)とも言う。
しかも前近代、自分の住む村から出ることはさまざまな危険がつきまとっていた。
そうした現実的な危険を含めて、橋は事故物件につながりやすかったと思われるのだ。
大塚ひかり(おおつか・ひかり)
1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。