事故物件の日本史【第1回】『源氏物語』の舞台は王朝心霊スポット〜河原院と二条院|大塚ひかり

「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。

はじめに “凶宅”から福宅へ…事故物件に秘められる未来へのメッセージを探る

「大島てる」というサイトをご存知だろうか。事故物件を地図上に掲載したウェブサイトで、運営者のお祖母様の名前をとっているといい、運営者はイベント・執筆活動などもこの名で行っている。
サイトの存在を知った時、激しくテンションが上がったものだ。
なぜなら、古典文学には曰く付きの邸宅、いわば事故物件がけっこうあって、私はそれを長年ファイリングしていたからだ。
大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部の書いた『源氏物語』にしても、その舞台は当時の事故物件的な屋敷がモデルになっている。
有名な神社仏閣なども、非業の死を遂げた人を祀っていたり、不幸が続いた家をそのまま寺にしたりといった、いわば事故物件であることが多いものだ。
日本には古戦場跡も多く、歴史のある町ほど、事件の現場となった場所も多い。
古い歴史を持つ建造物は、すべてが事故物件と言っても過言ではない。

このように、古典文学にはまればはまるほど、歴史を学べば学ぶほど、事故物件への興味が増した私は、大島てるの著書を読み、イベントにも二度ほど足を運んだ。
そこで印象的だったのは、大島氏の伝える孤独死の部屋の悲惨さだ。
殺人事件の起きた部屋は事故からすぐに処理されるため、意外とその後の状態は良い。けれど何日も発見されない孤独死の場合、体液が床にしみこんで、虫も大量発生し、その後始末は、感染症の危険があり、専門知識も必要とされ、非常に難儀であるという。
しかも超高齢社会となった現代日本では、こうした孤独死による事故物件は増加の一途を辿っている。
誰もが事故物件と無縁ではいられぬ時代がきているのである。

事故物件の中には、繰り返し不幸が起きる、曰く付きの物件もある。
一度ミソのついた物件は審査が甘くなるなどして、不審者が集まりやすいのか? と思いきや、さにあらず。大島氏によれば、
「事故物件だと入居審査は逆に厳しくなることが多い」(『事故物件サイト・大島てるの絶対に借りてはいけない物件』)
という。
「家主が最も嫌がるのが、続けて事故を起こされることだから」(前掲書)
である。
ではなぜ殺人が多発するような「多重事故物件」が生まれるのか。大島氏によるとその原因は「間取りや周辺環境」が精神に与える悪影響や、「極端に低い賃料」などにある。
「事故物件」という事実そのものが「入居者の精神に影響を及ぼし」、不安感から情緒不安定になって自殺……というルートもあるらしい。
いわばマインドコントロールによる事故物件化で、こうした傾向は、古典文学の事故物件の中にも見いだされる。
古典文学にはこの手の、繰り返し不幸が起きる事故物件に対する呼び名もある。
“凶宅”だ。
凶宅とは古代中国の「風水説に基づく一種の俗信」で、「居住する者に祟りをなす不吉な邸宅」を指す(岡村繁『白氏文集』一「凶宅詩」解題)。
もちろん古典文学には、凶宅と名指しこそされないものの、明らかな凶宅もあるし、歴史上の人物にもこうした曰く付きの物件に関わってしまった人たちも少なくない。
事故物件はずっと昔から存在し、注目されてきたのである。
なぜと考えるに、不幸のあった家に住むと、不幸が「伝染する」という考え方が一つあるからだろう。
朱に交われば赤くなるというが、ただでさえ人は環境に左右されやすい。そんな環境の一つに「住まい」がある。
我が子の教育のため、三度も引っ越しをした「孟母三遷」の故事を引くまでもなく、住まいや土地が心身に与える影響は大きい。
だからこそ、人は家相を気にし、土地柄を選ぶ。
そして何か不幸が起きた場合は、「家土地のせいだったのではないか?」と思い至る。
その家土地が曰く付きであれば、なおさらである。
けれど家土地との向かい方によっては、凶を吉に、凶宅を、いわば福宅(というのは私の造語だが)に変えることができるとしたら……。
実は、凶宅を私が面白く感じるのは、凶宅で不幸にあう人がいる一方、凶宅と呼ばれる家に住むことによって、むしろ大きく運の開けた人がいることなのである。
つまりは凶宅を福に転じる人たちがいる。
その違いは一体どこにあるのか……を考えることは、孤独死や空き家率の増加で、今後ますます事故物件に遭遇する確率の高い世界に住むことになる我々にとって、一条の光を見いだすことに重なるはずだ。
本稿では、歴史や古典文学に現れるワケあり住宅や土地を紹介することで、その裏に潜む人の心模様に迫りたい。
そして事故物件に秘められる未来へのメッセージを読み取って、貴重な家土地を次世代につなげる手だてを考えてみたいと思っている。

第一章 なぜ『源氏物語』の舞台は事故物件ばかりなのか/前編

六条院のモデル・河原院には融の幽霊や謎の鬼が……

今年の大河ドラマ「光る君へ」。『源氏物語』の作者である紫式部が主人公だが、『源氏物語』の舞台は曰く付きの心霊スポットや墓ということを、ご存知だろうか?
以下、拙著『やばい源氏物語』と重複する部分もあるが、説明すると……。
そもそも源氏が壮年期に建てた邸宅・六条院からして、当時の人(読者は宮廷周辺及びその関係者に限られるが)が聞けば、あああそこか……と思い至るような場所だった。
それは、源融(822~895)の霊が出てくることで有名な河原院である。
正確には「邸宅跡の寺」と言ったほうがよかろう。
源融は嵯峨天皇の皇子で、六条大路に壮大な邸宅を建設。その庭園は、陸奥の塩竃を模し、池に海水を汲み入れるという贅を尽くした作りで有名だった。ところが融の死後、917年に邸宅が宇多法皇(867~931)の手に渡る。これから怪異現象が起きるようになる。
院政期の説話集『江談抄』によれば、法皇が、寵愛する京極御息所と河原院を訪れ、“房内の事”(セックス)を始めた。すると、塗籠<ぬりごめ>(ウォークインクローゼット的な納戸部屋)から人が現れ、
「融でございます。御息所を頂戴したいと存じます」と言う。
法皇が「そなたは生前、私の臣下だった。私は主上だぞ。なんでみだりにそのようなことを言うのだ。罷り去れ」
と叱責すると、融の霊は法皇の腰に抱きついた。御息所は半死半生となり、加持祈祷をしてかろうじて息を吹き返したという。
同じ話は鎌倉時代の『古事談』巻第一にもあり、また『今昔物語集』巻第二十七第二や『宇治拾遺物語集』巻第十二にも宇多法皇が河原院滞在中、融が現れたことが記されている。
そもそも融はなぜ宇多院に恨みを抱くようになったのか。河原院を院が相続したからというのもあるが、実は皇位を巡る恨みが絡んでいる。
というのも、宇多院はもとは、融と同様、源氏の姓を賜った臣下であった。平安後期の歴史物語『大鏡』の伝えるところによると、太政大臣の藤原基経が陽成院(陽成天皇)を退位させて光孝天皇を即位させようとした際、
「近い皇胤を求めるならここに融もおりますが」
と融が言った。けれど、
「いったん姓を賜って臣下としてお仕えした人が皇位についた前例はない」と、基経に退けられてしまった。
これについては融は陽成天皇の即位以来、自宅に引き籠もっていたため、光孝天皇擁立の朝議に出席していなかったという説もあるのだが、源氏ということで皇位継承者から外された融にしてみれば、同じ源氏であるにもかかわらず宇多が即位したことは納得しにくいものがあろう。まして死後、精魂込めて造成した屋敷に宇多が住まうことになれば、融の死霊が悔しがったとしても無理はない。そう当時の人は考えたのだろう。
しかもこの話、まんざら根拠がないとも言えず、平安中期の漢詩文集『本朝文粋』巻十四には、宇多法皇が融の霊を慰めるため供養をした際の願文が収められているのだ。
それによれば、延長4(926)年、融の“亡霊”が女官に憑いて、自分(融)は地獄に墜ちたと言う。理由は、生前、“殺生を事と為す”というから穏やかではないが……狩りで動物を殺すということも殺生なので、そういう類いだったのかもしれない。いずれにしても融は生前の殺生の罪により地獄に堕ち、地獄の責め苦の合間、“昔日の愛執”によって時々河原院を訪れている、と。そこで宇多院は融の苦を除くため、七箇所の寺に布施と願文を修めることにしたという。
当時、融の霊は鎮めるべきものとして現れたのは、本当のようなのである。
が、そんなふうに供養してもなお融の霊は現れたのか、河原院は不吉な場所として敬遠されたようで、宇多院の死後は寺となる。不吉な場所や不幸のあった場所が「寺」になるのも当時の常で、これについては章を改めて詳述する。

ちなみに河原院は宇多院が手放したあと、融以外の霊も出たようで、平安末期の『今昔物語集』には都に位を買いに出かけた東国人(『源氏物語』の「東屋」巻でも浮舟の継父が「うちには大臣の位を求めるための宝物とてそろわぬ物はない」と豪語している)が河原院に宿泊し、その妻が“鬼”に吸い殺された話が語られている(巻第二十七第十七)。
「多重事故物件」化したわけである。

二条院には浦島太郎の弟の霊が……

『源氏物語』に話を戻そう。
六条院が源氏の中年以降の邸宅なら、二条院はそれ以前の源氏のメイン邸宅で、もとは源氏の母・桐壺更衣の里邸だった。それが更衣→源氏→妻の紫の上→紫の上の継孫の匂宮というふうに相続された。紫の上は、身分の低い明石の君の生んだ明石の中宮の養母であり、中宮の子の匂宮のことも可愛がって育てていた関係から譲渡されたもので、『源氏物語』の正編では六条院の次に重要な邸宅だ。
この二条院のモデルについては大きく分けて二説ある。
一つは『源氏物語』の注釈書の『河海抄』(室町初期)が主張する陽成院説。
もう一つは『河海抄』より少しあとの時代にできた注釈書『花鳥余情』(室町中期)の法興院説だ。
まず陽成院はもとは二条院と呼ばれていたが、そこに陽成院(868~949)が住んだことから陽成院と名が付いた。そして院の死後は、敷地の中央に道が通され、北の町は人家になり、南の町は池などが少し残っていた。
ここが六条院同様、心霊スポットとして有名だった。
『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』の伝えるところによると、池から翁が出てきて、怪異を働くのである。詳細は『やばい源氏物語』で紹介したのでそちらをごらん頂きたいが、「事故物件の日本史」的に気になるのは、
“そこは物すむ所にてなんありける”
という『宇治拾遺物語』の語である。この話では、怪異が起きたのは陽成院在世中のことで、その住まい(二条院=陽成院)はもともと物の怪が棲む場所であった。しかも、
“我はこれ、昔住みし主なり”
と、浦島太郎の弟と称する翁は言っていた。
つまり、もともと曰く付きの場所だったというのである。
それが本当だとすれば、そんな場所に退位後の陽成院が住むことになったのは実に興味深いものがある。

「多重事故物件」化した二条院

というのも陽成院は、有名な狂気のミカドで、そもそも彼が退位したきっかけが、殺人を犯したからと言われている。歴史書の『日本三代実録』には源益<すすむ>が殿上に侍している際、にわかに“格殺”(殴殺)されたが、宮中では事を秘して外部の人は知らなかったこと、益は陽成天皇の乳母子(乳兄弟)であることが記されている(元慶七年十一月十日条)。
犯人は名指しされぬものの、翌年2月、天皇は17歳の若さで退位。
約300年後の九条兼実の日記『玉葉』によれば陽成院は“暴悪無双”で、自ら刀を抜き、人を殺害したために“昭宣公”(藤原基経)によって帝位をおろされたと明記してある(承安二年十一月二十日条)。
『三代実録』と殺人方法についての記述は違えど、兼実は基経の子孫。確かな伝えではないだろうか。
平安中期の歴史書『扶桑略記』にはこんな話もある。
退位5年後の889年10月29日、陽成院が部下に命じ、駿河介の娘を追って捕らえさせ、“陵轢”を極め“琴絃”で顔を縛り“水底”に漬けた。受領の娘をレイプして陵辱を極めたあげく、琴の糸で顔をぐるぐる巻きにして水底に漬けたというのだ(仁和五年十月二十九日条)。
陽成院の怪異は池がポイントとなっているが、院が受領の娘を沈めた水底というのは、ひょっとして自邸の池ではなかったか。
「光る君へ」では、藤原道長の兄・道兼が紫式部の母を殺したという設定になっている。実際にはそうした史実は伝えられていないものの、当時の大貴族や皇族の中には、中下流貴族に対してこのように人もなげな振る舞いをする者もいたのである。『源氏物語』で、理想の主人公とされる光源氏ですら、両親のいない夕顔をデート中に変死させ、遺族にも知らせぬまま荼毘に付している。こうした非道とも言える記述は、当時の大貴族の横暴さを反映しているのだろう。
が、陽成院(もと二条院)の怪異の記事が書かれたのは、いずれも陽成院がそこに住んで以後のことである(建物と人物の呼び名が同じなので混乱するかもだが、しばしご辛抱頂きたい)。
陽成院がそこに住むまではたとえ怪異があったにしても、怪異の記録はなく、陽成院が住んだあと、そういえばそこはもともと怪異があった、というような語りが行われるようになったわけである。
つまり、陽成院が二条院に住み(そこからその場所は陽成院と呼ばれるようになる)、そこで悪事を重ねることで、あたかも以前から曰く付きの場所であったかのように考えられるようになった……もともと場所が悪かった、という発想である(あるいは探ってみたら、本当にそうだったのかもしれないが)。
陽成院の居住前からそこが曰く付きの場所であったにせよ、ないにせよ、そこでは院が生前、事件を起こし、死後も怪異の起きる場所となったのだから、河原院同様、「多重事故物件」化が起きていることは確かである。
陽成院の一件は、凶宅の成り立ちということからしても、興味深いものがある。

さて二条院のもう一つのモデル説は、『河海抄』より少しあとの時代にできた『源氏物語』注釈書『花鳥余情』(室町中期)の法興院説で、現在はこちらのほうが有力だ(が、あとで記すように私は陽成院説に傾いている)。
「光る君へ」では、道長の父・兼家(929~990)はなかなかえぐいキャラ設定になっているが、法興院は、この兼家の別邸で、陽成院同様、もとは二条院と呼ばれていた。これが正真正銘の凶宅で、もともと物の怪が棲む恐ろしい所だったのに、兼家が好んで住まいにしているうちに発病、本邸に戻って療養後、出家。そこを寺にしたものの、死んでしまったという(『栄花物語』巻第三)。
このあたりの詳細については第三章で説明するが、陽成院・法興院のどちらがモデルであったとしても、『源氏物語』の二条院は、曰く付きの邸宅を下敷きにしていたのである。

大塚ひかり(おおつか・ひかり)

1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。

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