事故物件の日本史【第3回】中国から日本に伝わった“凶宅”ということば|大塚ひかり

「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
本連載では、主として平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫っていきます。

第二章 そもそも凶宅とは

凶宅のルーツは古代中国古典……凶宅肯定と凶宅否定と

日本の事故物件について語る前に、古代中国の古典文学にルーツをもつ“凶宅”について、説明したい。
白居易(772~846)の『白氏文集』は、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』にも引用され、平安貴族にも親しまれていた。
その巻第一には、その名も「凶宅詩」なる作品が収められている。内容は、人間の凶は住宅によらず、住む人間次第という趣旨で、凶宅という概念を否定する、きわめて合理的なものだ。
こうしたことがわざわざ詩として作られる前提には、中国文学に多く“凶宅”が描かれ、信じられていたという現実があった。
岡村繁による「凶宅詩」の解題によると、凶宅とは、「居住する者に祟りをなす不吉な邸宅」で、「中国の伝統的な相地相宅の術である風水説に基づく一種の俗信」であり、唐代ではとくに「伝奇小説」の題材として好んで描かれていた(新釈漢文大系『白氏文集』一)。
居住する者に災いをなす住宅や土地という概念は古代中国で広く共有されていたようで、「凶宅」ということばが使われていなくても、たとえば陶潜(作者については異説あり)の『捜神後記』(六朝)を読んでいたら、巻七に「壁中一物」と題するこんな話があった。
曰く、宋の襄城<じょうじょう>(郡名)の李頤<りい>の父は、“妖邪”(妖しくよこしまなもの)を信じぬ合理主義者であった。
しかるに“一宅”(一軒の家)があり、元来、“凶”(不吉)で、人が住むことができず、住む者はすぐに死んでしまう。李頤の父は、この家を買って、長年穏やかに暮らし、子孫も栄えていた。
しかも二千石<にせんせき>(中国古代の軍の太守の禄が二千石であったことから地方長官)となり、転居して官に就くこととなって、内外の親戚を招いて宴を催すことにした。その時、李頤の父が言うには、
「天下には結局、“吉凶”などというものがあるのだろうか。この“宅”はもともと“凶”ではあったが、私はここに住んでから長年幸せに暮らし、官を進めることができた。“鬼”が一体どこにいるというのか。今後はここを“吉宅”としよう。住みたい者は留まって、心に厭うこともない」
そう語り終え、“廁”(便所)に行ったところ、壁の中に“一物”があるのが見える。巻いたむしろほどの大きさで、高さは五尺ほどで、真っ白である。すぐに戻って刀を取って半分に切ると、二人の人間になった。それを横に切ると今度は四人になった。彼らは李の刀を奪い取って殺し、宴会の行われていた座敷に至ると、李の子や弟たちを殺した。李を姓とする者は必ず殺され、姓が異なる者は殺されずに済んだ。
子の頤はまだ幼くてふところに抱かれており、異変を察した乳母が抱いて裏門から出て、他家に隠していたために、一人だけ難を免れた。そして湘東(郡名)の太守(郡守。扶持は二千石)に出世したのであった。

名高い凶宅に住んだものの、子孫は繁栄、出世もして、もう大丈夫と思ったところで、一族全滅というのが怖い。正確には乳飲み子だった李頤だけが助かったわけだが、いったんは万事がうまく運び、『白氏文集』の「凶宅詩」さながら、凶は人の心がもたらすものだったのか……と思いきや、どんでん返しがあるところが恐ろしいのである。
凶宅を否定する人が、結果的には凶宅の魔の手に掛かってしまう、というわけで、つまりは凶宅肯定の物語と言える。さらに突きつめていけば、この李頤の父は、凶宅を否定しながらも、ずっとそこが凶宅であることを意識していたからこそ、転居の日、そのことに触れたのである。そして最後の最後に、その「とらわれ」が最悪の形で現実のものになってしまった……そう考えると、これもまた、凶宅は人の心がなせるわざとも言え、凶宅の恐ろしさ以上に、人の心の弱さ、マインドコントロールの恐ろしさが浮き彫りになり、「事故物件」という事実そのものが「入居者の精神に影響を及ぼす」という大島てるの説が頭をよぎる(『事故物件サイト・大島てるの絶対に借りてはいけない物件』)。

このように「凶宅」について語られた文脈では、大別して凶宅肯定派と否定派がある。
肯定派は『捜神後記』のように、凶宅など迷信だと思わせたところで、結局、凶事が起きるという展開。
否定派は『白氏文集』のように、凶宅で凶事が起きるのはあくまで人の心のなせるわざ、吉凶は家ではなく人間が決めるという考え方である。

日本の凶宅

日本の古典文学にも「凶宅」ということばは出てくる。しかし、いずれも『白氏文集』の「凶宅詩」の引用で、しかも凶宅とは無関係の文脈である。
それでは日本には凶宅はないのかというと、そんなことはなく、「凶宅」ということばこそ使われずとも、住む人に祟りをなす不吉な家は多々あるのだ。次章では、そんな日本の凶宅をご紹介しよう。

 

第三章 凶宅に振り回された人たち 兼家の別邸(二条院)ほか

凶宅で命を縮めた権力者、兼家

前章で触れたように、日本にも「凶宅」ということばは伝わり、とくに『白氏文集』の「凶宅詩」は複数の古典文学に引用されている。
が、それらは凶宅そのものとは無関係の文脈だ。
鎌倉時代の『古今著聞集』巻第十七「怪異」の「序」では、“白氏文集の凶宅の詩にいへるが如く”と、その段で綴られる怪異は基本的には人の心のなせるわざと主張するために、「凶宅詩」を使っている。『十訓抄』第二の「憍慢を離るべきこと」(二ノ五)でも、“文集一巻の凶宅の詩には、驕りは物の満てるなり 老は数の終りなり ともいふ”と、驕慢の恐ろしさを主張するために引用されているだけで、どちらも凶宅の話ではない。
では、日本に凶宅の話がないのかといえば、そんなことはない。
『源氏物語』の舞台のモデルとなった不吉な邸宅や邸宅跡を見ても分かるように(→第一章)、凶宅ということばこそ使われずとも、住む人や近づく人に災いをなす不吉な家の存在は信じられ、そこに住んだ実在の人物たちもいた。
大河ドラマ「光る君へ」でもおなじみの、平安中期の藤原兼家もその一人である。
第一章でも紹介したように、『源氏物語』の二条院のモデルには二説あって、一つは陽成院が退位後に住んだ二条院(別名・陽成院)、そしてもう一つが、兼家の別邸であった法興院だ。この法興院のもとの名が二条院であった。
『栄花物語』によると、この二条院は、もともと物の怪の恐ろしい場所で、案の定、兼家はそこで発病し、さまざまな物の怪が現れる中には、女三の宮(村上天皇の皇女・保子内親王)の霊もいた。女三の宮は兼家がちょっと通って捨ててしまったため、心痛のあまり死んでしまった女性である。そんなこともあって、道隆等の息子たちが、
「やはり場所を変えてはどうか」
と勧めても、兼家はこの二条院を素晴らしい所と考え、聞き入れぬうちに病気は重くなる一方となった。それで本邸に移り、990年5月8日(『日本紀略』によれば5月10日)に出家。二条院をそのまま寺にして、快復したらそこに住もうというつもりだったのが、7月2日に死んでしまったのだった(巻第三)。
少しあとの『大鏡』でもこの二条院は不吉な場所で、皆が“こころよからぬ所”と言っていたのに、兼家は非常に面白い所だと気に入って聞き入れなかった。そして、
「東山などがとても近く見えるのが山里のようで風情がある」
と言って、月の明るい夜などは格子も下ろさず外を眺めていた。
ある時、目に見えない何かが、はらはらと格子を全部下ろしてしまったので、お付きの人々は怖がって騒いでいたのに、兼家は少しも驚かず、枕元にある太刀を引き抜いて、
「月を見ようと上げた格子を下ろすのは何者のしわざだ。無礼千万! もとのように皆上げろ。さもなくばひどい目にあうぞ」
と言うと、すぐに格子がもと通りになった。
このように落ち着かないことがいろいろあって、子息たちも相続せず、兼家の死の直前に寺にしたというわけだ。

勇気だけでは乗り越えられない

兼家は、凶宅をものともしない合理的な精神と勇気があったように見える。
にもかかわらず、結局、凶宅の餌食になる形となってしまったのは、なぜなのか。少なくともそのように当時の人や子孫に受け止められていたのはなぜなのだろう。
と考えた時、平安末期の『今昔物語集』の“僧都殿”の話が心に浮かぶ。
“僧都殿”とは、冷泉院小路の南、東洞院大路の東の角にあって、“極タル悪キ所”だった。つまりは凶宅だったため、うかつに人が住むことがなかった。
その冷泉院小路の真北は、源扶義<すけよし>が住む家で、その舅は讃岐守源是輔だった。男が女の家に通う、あるいは住み込む婿入婚が基本の当時、源是輔の家に、婿として扶義が住んでいたのである。ちなみに扶義は源倫子の兄、つまりは藤原道長の義兄である。
この家から見ると、向かいの僧都殿の西北の角に榎の大木があったが、黄昏時には、僧都殿の寝殿の前から赤い単衣<ひとえぎぬ>(裏地の付かない着物)が飛び上がり、その西北の榎のほうへ飛んで行き、梢に登っていく。
そのため人は怖がって近寄ることはなかったが、その讃岐守の家に宿直していた武士が、この単衣が飛んで行くのを見て、
「この俺があの単衣を射落としてやるからな」
と言いだした。同輩たちは、
「絶対無理だよ」
と言いつのりながら、しだいに男をけしかけるので、男も、
「絶対射てやる」
とムキになって、夕暮れ時にその僧都殿に行って待ち伏せしていた。そのうち、東のほうの、竹が少し生えている中から、この赤い単衣がいつものように伸び上がって飛んで行く。男は弓に矢をつがえ、強く引くと、単衣の真ん中を貫いた。ところが、単衣は矢に射られながら、いつもと同じように榎に登って行く。その矢の当たったと思しき所の土を見ると、血がおびただしくこぼれていた。
男が、讃岐守の家に戻り、同輩たちに事の次第を語ったところ、「絶対無理だ」と言い争っていた同輩たちは、
“極<いみじ>ク恐<おぢ>ケリ”
ひどくおびえた。しかもその武士は、その夜、
“寝死<ねじに>ニナム死ニケリ”
寝たまま死んでしまったのである。そのため、言い争いをしていた者たちをはじめ、この話を聞いた者は皆、
「つまらぬことをして死んだものだ」
と非難したのであった(巻第二十七第四)。

兼家や武士に共通するのは、凶宅に立ち向かう勇気である。
しかし結果的には、二人とも、凶宅に負けるような形で、死んでしまった。
一体何がいけなかったのか……と考えた時、思い出すのは、平安前期の漢学者、三善清行<きよつら>(847~918)宰相のことだ。

大塚ひかり(おおつか・ひかり)

1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。

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