人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!
【第10回】失敗した焼き芋屋の屋台と『プロテスタンティズムの精神と資本主義の精神』
「売買の身体感覚」
文化人類学を勉強するために大学院へ進学した時のことである。指導教員から海外で調査地を決めるよう勧められ、僕はキューバを選んだ。先生は「キューバを選んだのならば、日本語で書かれた論文や本は全部読むように」と言った。「キューバを選んだのならば」というのは、中国や韓国やタイといった日本人の研究者が多い地域を選んだのならば、日本語文献も膨大になって読み切ることはできないだろうが、キューバぐらい日本人研究者の少ない地域であるならば、全部読まねばならないという意味だ。
僕は言われた通りに片端から論文を読んでいった。その中に面白い記述があった。
日本では教育制度の中で文化祭や学園祭といった場が与えられ、売買の基本を学ぶことで子供達は「資本主義社会」に適応していく。それに対して、キューバの教育制度ではボランティアが奨励され、キューバの子どもたちは社会に奉仕する感覚を学ぶという。
その論文を読むまで、確かに考えが及ばなかった。
僕たちは「資本主義的な経済体制が支配的な社会」で生きるために、資本主義的な振る舞いを学んでいく。例えば売買の感覚である。第一回の連載でも話したことだけど、「売買」は人間社会における交換の方法として決して唯一無二の方法でない。「贈与交換(贈答品を送り合うことで「交換」とするやり方)」も広く見られる。一つの財やサービスを単一の価格で匿名の相手と交換するのはちょっと特別な「交換」のやり方だ。
でも、僕たちは売買を「モノを手に入れるための一般的な手段」と思い込んでいる。何も知らない子どもが独りでにそのように思い始めるわけではない。同じような文化に生きる近しい他者とのコミュニケーションの中で学んでいくのだ。このコミュニケーションの一つが教育だ。子どもたちは文化祭や地域の子ども祭りの出店を運営したり、買い物をしたりする中で商売の基本を学んでいく。
コロンビアに住んでいた頃、親しくしていたコロンビア人の友人に日本円にして3万円ばかり貸して欲しいと打診された。当時、コロンビアの平均月収は6万円ほどと言われていた。日本の平均月収は30万円ほどなので、日本で15万円を貸して欲しいと頼まれたようなものだ。大金である。
ラテンアメリカで生活する中で、「金を貸して欲しい」と頼まれたことは以前にもあった。その経験を通して、この場合「貸して欲しい」とは「贈与してほしい」を意味すると僕にはわかっていた。
僕は長年の貧乏学生生活を経てから仕事を始めたせいで、にわかに現金を手にして金銭感覚が狂っていたし、その後の成り行きに興味が出て3万円を渡した。果たして友人はその金でハンバーガーを売る屋台を買い、失業していた親戚にその屋台を任せた。屋台は割と順調に売り上げていたが、ある日友人に「もう一万円貸してほしい」と頼まれた。話をよくよく聞くと、屋台を任せていた親戚が順調な売上に気が大きくなって、親族を招いてパーティをやり、ハンバーガーの仕入れ代まで使い込んでしまったらしい。僕は「売上と利益は違う」と説明し、売上を全部使ってしまってはいけないと諭したがそれを聞いた友人には、ピンと来ていないようだった。
別のコロンビア人の友人にことの顛末を話し、「売上と利益の違いがわからないってことがある?」と愚痴を溢したところ、「私の親戚で売上と利益の違いを理解しているのは私ぐらいだろう」と言った。さらに僕は「そんなの、学校で習うだろう」と悪態をついた。友人は「でも、日本人は踊れないでしょ」と返事をした。
それを聞いて思い出した。あるコロンビアのビジネス人類学者の研究発表を聞いたとき、日本の会社で「NOMIKAI」をするように、コロンビアでは従業員を慰労するためにパーティをすると説明していた。従業員たちはパートナーをパーティに連れて行き、社長は会場を盛り上げて、みんなでダンスをする。確かに、教育の中でダンスを身につけなければコロンビア社会では生きていけないだろう。
もしかしたら、「日本でもダンスが体育の必修科目に入ったじゃないか」とツッコミが入るかもしれない。たしかに今の若い人たちは僕たちの世代に比べるとダンスが上手な人が多いのかもしれない。(ちなみに、僕はダンスを踊れない。たくさんのラテンアメリカ人の友人が精魂込めてダンスを教え込んだにも関わらず。)でも、ここで僕が「教育」というとき、そこにはインフォーマルなコミュニケーションが含まれている。僕の知る限り、ラテンアメリカでも学校教育の学科としてダンスが存在するわけではない。でも、学校のなかで、「ダンスを踊ることがどういうことか」を学んでいく。
例えばこんなことがあった。
キューバのディスコで僕をダンスに誘ってきた女性に「僕はダンスが踊れないよ」といったとき、彼女は「ダンスが上手かどうかは大事」と返事をした。「なぜ?」と僕が聞くと「ダンスが上手な人はセックスも上手だから」と彼女。
なにも僕は「ラテンアメリカでは、ダンスはセックスの上手さを示す指標として扱われる」ことを主張したいのではない。だけれども、ダンスが一つのコミュニケーションとして、社会的な地位を獲得しているということの証左であると指摘できると思う。普段の学校生活のなかで折々ダンスをする機会に晒されるラテンアメリカの子ども達はダンスを言語表現のように学んでいく。
同じように日本の教育でも子どもたちはインフォーマルなレベルで「商売」を学んでいく。文化祭という「遊び」の中で、マーケティングをし、広報をし、会計をする基礎的な身体感覚を養っていく。
僕が初めて「売買の身体感覚」を経験したのは小学校1年生のときだ。
僕が通っていた小学校では、毎年春に農作業を始め、秋に収穫するとその収穫物を使って文化祭で出店をやるという伝統があった。1年生はサツマイモを栽培する。サツマイモは埋めておけば育つので、小さな子どもでも栽培できるということだろう。収穫は楽しかった記憶がある。みんなで歓声を上げながらサツマイモを掘り出していった。
さて、問題は出店である。
わずか6、7歳の子どもがサツマイモで作れる商品は限られているし、店舗経営もまともにできるわけはない。先生に指示された通りにイモを輪切りにし、七輪で焼いて、プラスチックパックに入れたものを売らされた。
小学1年生の「焼き芋屋」である。
だが、普通の一本のサツマイモをホカホカに焼いて提供する焼き芋屋とは違う。七輪の上のイモをつまみ食いすると見た目通りにまずい。中が生焼けで外側の焦げた輪切りのイモが雑然と放り込まれたパックを販売する異形の「焼き芋屋」をやったのだ。
文化祭にやってきた保護者や上級生はそのイモを買っていく。
価値のないものを義理のために買わせる。
これが僕の得た「売買の身体感覚」であった。
資本主義を考えた二人の俊才
空虚なものを義理のために買わせる。いまだにこの因習に僕は囚われている。自分で商売をする諸先輩方に、「商売は値付けが命」と口を酸っぱくして言われ続けてきたのに、フリーランスになってからも値付けはずっと下手なままだ。自分の仕事がどうも七輪で焼いた輪切りのサツマイモのように思えてならない。
そう思うと商売をすることも億劫になる。お客さんには申し訳ない気持ちになる。
成長と繁栄の資本主義にあって、一人でおっかなびっくりの資本主義をやっている。困ったものである。
だが、疑問に思う。
なぜ資本主義は成長と繁栄に向かうのか。
それを準備したものは何か?
僕たちが文化祭で資本主義を学ぶように、資本主義を生み出した近代のヨーロッパ人たちもどこかで資本主義を学んだはずだ。
一体どこで?
この疑問に二人の著名なドイツ人社会科学者が挑戦した。
一人は言わずとしれた『資本論』の著者、カール・マルクス。
もう一人は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたマックス・ウェーバーだ。
二人は世代のズレはあるもののほぼ同時代の人物だ。マルクスが1883年に64歳で没したとき、ウェーバーは18歳であった。同時代のドイツ(当時はまだプロイセン王国だったが)に生まれた俊才はともに「資本主義」に着目した。
なぜだろうか。
18世紀の後半からヨーロッパ大陸に先駆けて、まずイギリスで産業革命が起きた。広大な植民地に裏打ちされた生産力によって、イギリスは経済的・技術的な先進国となった。当初、イギリスからの安い工業生産品を輸入せざるを得なかったヨーロッパ大陸各国も、19世紀に入るとキャッチアップが始まり、ベルギー、フランスなどが産業革命を達成して行った。少し遅れて、1834年にドイツ関税同盟が成立すると、ドイツでも産業革命が起き、本格的な資本主義経済に突入していった。
二人は100年ほどの間に起きた急激な社会変化のなかで、「資本主義というものはいったいぜんたいどういったことなのか?」を考えようとしたのだ。
二人のアプローチには正反対とも言えるところがある。
説明してみよう。
僕は、マルクスが『資本論』のなかで資本主義について二つのこと説明をしていると考えている。(大変大雑把な理解なので、より正確に知りたい方は佐々木隆治教授の著作を読むことをお勧めする。お手軽なのは、ちくま新書から出ている『カール・マルクス: 「資本主義」と闘った社会思想家』なので1冊目にお勧めしたい。)
一つは、資本主義という経済システム(生産様式)のモデルの提示だ。資本主義とは、いかなる仕組みで機能しているのかを詳しく説明してある。
もう一つは、資本主義という経済システムの誕生の仕組みだ。歴史的経緯を丹念に辿ることで、どうやって資本主義が生み出されてきたかを明らかにしている。
マルクスについてちゃんと説明するのはこのエッセイには荷が重すぎるので、また別の機会に譲ることとしたい。
のだが、言及してしまった以上、二つ目の「資本主義の誕生」について、とても大雑把に少しだけ触れたい。というのも、マルクスは「資本主義の誕生」を経済システムの発展による歴史的必然と捉えたからだ。マルクスは、人類の営みを、食糧生産や物品の交換を行う経済的な部分をよりハードウェア的な部分と捉え、これを下部構造と呼んだ。そして、政治や、芸術や宗教のような社会的な意識の部分をよりソフトウェア的な部分と捉え、こちらを上部構造と呼び、社会の二つに分けた。そして、ハードウェアが変化するとそれに従ってソフトウェアも変化すると考えた。
つまり、人間の歴史においては、まず経済システムというハードウェアが変化し、それに従って、思想や宗教といったソフトウェアも変化すると考えたわけだ。
ウェーバーとマルクスのアプローチが異なるのはこの点だ。
ウェーバーはマルクスとは違い、経済システムのモデルや資本主義がどのように機能しているのかについて考えたわけではない。欧米の各地域で資本主義がうまく機能した地域とそれほど機能していない地域の違いに着目し、その理由を文化的な背景に求めたのだ。
つまり、ウェーバーは、人間の文化や宗教というソフトウェアがまずあり、そのソフトウェアで機能させられるハードウェア(資本主義)が受容されたと考えたという点で、ある意味逆の考え方をしているようなのだ。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
さて、僕はさきほど、「資本主義は成長と繁栄に向かう」と述べた。
こう言ってしまうと、「資本主義の精神」という言葉が、あたかも「成功のために闘争心剥き出して仕事をする心持ち」のように思えてくる。「令和の虎」や「REAL VALUE」といった事業投資番組を見てみると、泣いたり怒ったり怒鳴り合ったり、感情をむき出しにして、成功を切望しているように思える。
「これこそが資本主義の精神ではないか!」と思えてくるが、ウェーバーの言い分は違う。ウェーバーは資本主義の精神を、快楽や栄光のためではなく、純粋に貨幣を獲得し、獲得した貨幣をすべて投資に回すような、ちょっと狂気じみた行動原理と捉えていたようだ。
たくさん稼いだお金で遊び呆けたり、威張ったりするのではなくて、ただひたすらお金を稼ぎ、増やすことに心血を注ぐ。これこそが「資本主義の精神」なのだという。
「資本主義の精神」にとっては、合理性がとても大切だ。なぜなら、最も効率的にお金を増やすためには、合理的に考えることが必要になる。
歴史を勉強した人には、このような直向きな合理性は近代になって出てきた考え方のように思えるだろう。難しい言葉を出すと啓蒙思想的な考え方から、「合理的に考えることでめちゃくちゃ効率的にお金を増やしていく」資本主義の精神が登場したように思えるのではないだろうか。
啓蒙思想と言っても時代や地域によっていろいろな考え方があるので、一口に説明するのは難しいが、あえてざっくりと言うと「人間には理性があるので、その理性の力によってものごとに取り組もう」という考え方ではないかと思う。
人間の理性を重んじるとは、つまり、神の担当範囲を狭める考え方でもある。
聖書や教会が主張するような世界認識よりも、人間の理性によって分析された世界認識を重んじるというわけだ。この考え方が徹底されて、無神論や唯物論といった考え方が出てきた。
つまり、宗教を否定し、人間の理性を重んじて、合理的に思考する人々が「資本主義の精神」を持つに至ったと考えたくなる。
でも、ウェーバーは違うと言う。
ウェーバーはポーランドやドイツなどヨーロッパのいくつかの地域を比較して、カトリックが信仰されている地域よりも、プロテスタンティズムが信仰されている地域の方が近代的な産業が発展していることを発見した。
念のため説明しておくとカトリックとはローマ教皇を頂点とした教会組織とその信徒のことを指し、プロテスタントとは16世紀にローマ・カトリック教会の腐敗と堕落を批判する運動であった宗教改革によって登場した比較的新しい宗派を指す。
プロテスタントには、さらに多くの宗派があるが、ウェーバーはとくにカルヴァン派とカルヴァン派の影響によって登場した宗派について詳しく論じている。
もしかしたら、一般的な感覚では、宗教的にすごく支配的なカトリックとその支配から逃れた比較的自由なプロテスタントといったイメージを持っているかもしれない。だから、厳格なカトリック地域では近代化が遅れたので経済的に発展できず、自由なプロテスタント地域では近代化が促進され経済的に発展したのだと。
でも、これは間違った解釈だ。
なにを以って「厳格」であるとか「自由」であるとか断じるのは難しいところもあるが、実際はどちらかと言うと逆なのだ。
カトリックにおいてはある意味で教会に所属していれば、すなわちキリスト教徒である、ということになる。赤ちゃんが産まれれば教会に連れて行って洗礼(キリスト教徒になる儀式のこと)を受け、教会の名簿に乗る。毎週日曜日にはミサに行き、何か悪いことをすれば神父さまに告解をする。逆に言うとそれさえしていれば、OKということになる。
神はあらかじめ救う人を予定している。だが、それとは別に救うか救わないかあらかじめ決められていない人たちもいる。そう言った人たちは、人生をかけていいことをすれば、神の慈悲によって救済される。
これを予定説という。
対して、宗教改革を行ったルター、そして、特にカルヴァンはちょっと違う解釈をした。
神はあらかじめ誰を救い、誰を救わないか決めていると考えたのだ。人生でいいことをしようが、悪いことをしようが神はそんなことで決断を変えない。神の計画の下、救済か滅亡か、裁きはすでに決まっているというのだ。
これを二重予定説という。
二重予定説を聞くと、僕のようなのらくらした人間は「じゃあ、何をやろうがやるまいが自由じゃん!」と好き勝手享楽的に生き、怠惰を貪ることになるだろう。
だが、カルヴァン派の人々は事態をもっと深刻に受け止めた。
救いに選ばれた者は信仰を勤労によって証明しなければならず、現世の仕事に成功することこそが救いに選ばれた証明になると考えたのだ。
つまり、カトリックでは、洗礼やミサといった決まりきった儀式をこなしていけばOKだったのに対し、プロテスタントでは自分があらかじめ救われていることを証明するために、清廉潔白で勤勉に生活をしなければならなくなった。かえって厳格になったのだ。
したがって、救済の証として、生活を合理化し、仕事に専念すること。
これが「プロテスタンティズムの倫理」と言うわけだ。
二重予定説・信団・天職
さて、ここからちょっと議論が難しくなるかもしれない。(ことによっては、読み飛ばしても良い。次の節の頭に簡潔なまとめを書いておくので。)
二重予定説については、すでに説明したのだが、ウェーバーの話を理解しようとするとさらに二つの概念を押さえておく必要がある。
一つは信団(ゼクテ)と呼ばれるものである。
さきほど説明したようにローマ・カトリック教会では物心もつかぬ子どものころに洗礼を受けたとしても教会に所属するキリスト教徒ということになってしまう。自分の意思抜きに制度のなかに入っていける。
しかし、プロテスタントでは、自分の意思でキリスト教徒になる必要がある。
つまり、国家や既存の教会といった自動的に人を巻き込んでいってしまうような組織に対抗して、信念を持つ人々が自発的に作るグループに参加する必要がある。ウェーバーはそういった自発的な信仰集団を信団と呼ぶ。信団に入るような人々は、対抗組織のメンバーであるという性格上国家機関のような既存の政治システムのなかに入り込むのは難しい。歴史的には、実際に排除されたことすらある。
そうすると自発的なエネルギーは経済活動に向かいやすくなる。
さらに、信団ではビジネスにとってとても重要な「信用」を作り出すこともできる。同じく理念をともにする人々が信団を形成するためには、行動を以って自分の信念を示す必要が出てくる。そうすると、行動は信用を生む。ある信団に属しているということは、それだけ信用があることを示しうる。
信団は「プロテスタンティズムの倫理」を社会的に実践し、制度化する場であるということのようだ。
さて、二重予定説によって勤労をすることが良いとされ、勤労する人々が信団を形成したり、信用し合ってビジネスをやったりする。
だが、一体どんな仕事をするべきなのだろうか。
ここで二つの目の概念「天職」が出てくる。
どうやらウェーバーの時代には、貨幣を獲得し、利潤を投資に回すための労働を「天職」と呼んでいたらしい。天職を通じて資本主義社会の発展に貢献することが倫理的な義務として奨励されていた。
ウェーバーはこの「天職」という言葉がどこからやってきて、どのように使われてきたのかを調べた。そして、ルターこそが今日的な意味で「天職」という概念を使い始めたと主張した。つまり、ルターが「職業は神によって授けられたものである」というニュアンスを付与したのだ。
職業が神に授けられるという考え方もそれまでのローマ・カトリック的な労働観とは異なる。例えば、中世のキリスト教神学者であるトマス・アクィナスは、人は働かなくても生きていけるだけの財産があるのなら、働く必要はないと考えていた。祈ったり成果を歌ったり、つまり神について考える時間の方が生産的だと考えたのだ。
しかし、プロテスタンティズムにおいては違う。
神に与えられた職業、つまり、天職に就いて労働することが神の栄光を増すための活動となるのだ。
カルヴァン派の影響を受け、イギリスで生まれたピューリタン(清教徒)と呼ばれる人々はさらに「天職」の概念を洗練させて行った。ピューリタンの聖職者、リチャード・バクスターは「天職」において、ただ怠けないで働くことを善しとするだけでなく、定職について規則正しく働くことや収益性の高い職業に就くこと、公共性の高い職業に就くこと、社会性のある職業に就くことを善しとした。
そしてウェーバーは、ピューリタンによって純度を上げられた「天職」に関する倫理こそが「資本主義精神」と共通するものがあると見てとったのだ。
精神なき専門人、心情のない享楽人がやばい倫理を作り出してきている
さて、議論が難しくなった。
すこしまとめてみよう。
宗教改革を経て登場したプロテスタントたちは、キリスト教の信仰を持っているからといって確実に救済されるわけではないと考えた。そこで、生活全体にわたって清廉潔白に生きることこそが救済の証であると考えるようになった。同じように考える人たちでグループを作ったので、清廉潔白に生きていることをお互いに認め合うことで信用を作り出していった。一方で、政治的な領域からは遠ざかって経済的な領域で活躍するようになった。
清廉潔白に生きることの一つの証として、「天職」を持って一心不乱に仕事に打ち込むことが良いと考える人たちが現れた。この考え方が、「プロテスタンティズムにおける天職倫理」であった。
そして、「プロテスタンティズムの天職倫理」は、ウェーバーの時代に観察されたような、ただ貨幣を獲得し、獲得した貨幣を投資し、財産を増やすことを良いことだと考える「資本主義の精神」とそっくりなのであった。
これは、プロテスタントの天職倫理を持っていた地域がカトリックの地域より、資本主義経済に適合しているという調査結果とも合致する。
つまり、僕たちが文化祭を通して資本主義的な仕組みを学んでいったように、ヨーロッパ人はプロテスタント的な「天職」を通して、資本主義的な仕組みをあらかじめ持っていたというわけだ。
ウェーバーは、論証の最後に近代社会への警鐘を鳴らす。
もともと資本主義が社会を破壊しなかったのは、「天職」の概念とともに発展してきたからだ。「天職」の概念の中に、社会全体の利益を考えることがあらかじめ含まれていたのだ。だが、近代社会に突入し、宗教的な背景が後退すると「資本主義の精神」は仕事それ自体、儲かることそれ自体を目的として、禁欲的に働くことを良いことだとしてきた。さらに資本主義社会が発展すると、禁欲的な自己規制のたがが外れてどんどんと快楽主義的な様相を呈し、精神と呼べるようなものがなくなってきた。そこで現れるのは「精神なき専門人、心情のない享楽人」、つまり虚無の存在なのだ、と。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が刊行されてから100年以上経った。ウェーバーの警句をみなさんはどう受け止めるだろうか。
多くの企業は、CSR(企業の社会的責任)だの、ESG(環境・社会・ガバナンス)だの、SDGs(持続可能な環境目標)だの社会貢献のお題目を掲げつつ、僕たちはその空虚さをなんとなく肌で感じている。
一部の富裕層ばかりが増収を重ね、株価は吊り上がって行く一方、非正規雇用の拡大、賃金格差の拡大といった問題は積みあがったままである。
日本では、2001年に「自民党をぶっ壊す」のフレーズと共に第一次小泉内閣が発足した。小泉内閣は郵政の民営化や派遣法の改正などを通して、経済の自由化を図ったと言われる。小泉政権のように「政府はスリム化して、社会課題の解決は自由市場に委ねよう」といった経済的なイデオロギーを新自由主義と呼ぶ。イギリスでいえばサッチャー、アメリカで言えばレーガンがその代表的な政治家とされている。
2000年代には、日本でもITバブルとなるなどテクノロジー産業を中心にベンチャー企業を創業する若者が増え、経済のプレイヤーのなかにも新自由主義的な価値観を持つ人々が徐々に増えて行った。
成長(多くは経済的な成長を指す)を目指す人々が経済を回し、市場は活況を呈した。
今では誰もが知る企業が次々と上場を果たした。
自由な挑戦とそのリスクに見合った対価を得るという観念が社会に浸透していった。
だが、どうだろうか。成長とそのためのリスクを是とする新自由主義の精神が浸透したこの社会は、ウェーバーの警鐘そっくりそのまま、禁欲的な自己規制のたがが外れた快楽主義的な様相を呈しているようにも見える。清廉潔白に生きなければならないとは思わないが、少なくとも「資本主義の精神」と呼べるようなものを見つけるのは稀になり、「精神なき専門人、心情のない享楽人」、つまり虚無の存在であることが普通になってはいないだろうか。
このようなものの見方は全く焼き芋屋の屋台で資本主義を学び損なった人間の僻みかもしれない。
だけれども、今日では「収益を上げる」という資本主義のメカニズムが「財産の多寡によって人間性を計りうる」という虚無の倫理観を生み出しているように僕には思えるのである。
編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP
室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)
1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。