人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!
【第2回】キューバの思い出とオリエンタリズム
「先住民はいません。絶滅してしまったから」
とキューバ人の友人は言った。
2012年、キューバに長期滞在していた僕は短期訪問の日本人旅行者を連れてキューバ共和国の首都ハバナの街を散策していた。この散策に日本語で観光ガイドをしていたキューバ人の友人がついてきてくれたときのことだ。
旅行者は「キューバ人は思っていた感じと違いますね」と呟いた。
「違うというのは?」と僕。
「思ったより白人が多い」
「だいたい25%がヨーロッパ系、25%がアフリカ系、50%が混血、とされていますがこの統計自体は肌の色を目分量で測っているものなので特に信頼性はないと言われていますね」
旅行者は僕の説明を聞くと軽く頷いた。
「例えば、メキシコなどでは先住民の文化も見かけますが、キューバではどうですか?」重ねての質問。
僕はちょっと困った。
その答えは長くなる。
キューバとカリブの500年に及ぶ歴史と今でも続く葛藤の話だ。
僕はキューバ人の友人の方をチラッと見た。
彼はそれを見て、返答を引き取って結論を単刀直入にこう答えた。
「先住民はいません。絶滅してしまったから」
「新大陸」の「発見」
キューバがクリストバル・コロンに「発見」されたのは、1492年のことだ。クリストバル・コロンは日本では一般的に「コロンブス」と呼ばれている。
当時、ヨーロッパで高い価値を持っていた香辛料はインドで産出されていた。イスラム商人は香辛料をインドから地中海に持ち込み、ジェノヴァやヴェネチアといった商業都市を拠点としたイタリア商人が買付け、ヨーロッパで売り捌いていたのだ。
だが、状況が変わる。
トルコで力を持ったオスマン帝国がエジプトやレヴァント(いまのパレスチナがあるあたり)を支配し、商人の活動を制限したのだ。強大なオスマン帝国を無視してインドと貿易を行うことはできなかった。ヨーロッパにはオスマン帝国を迂回して、インドにいくという需要が生まれた。
そのために、二つの方法が試された。一つはアフリカ大陸を南側から回り込んでインドへ向かうという方法。もう一つが大西洋を西に向かい、インドへ向かうという方法だ。
ジェノヴァ出身のコロンブスは他のイタリア商人と同様、閉ざされたインドとの交易路を復活させたいと思っていたに違いない。そして、彼は西回り航路に賭けていた。コロンブスはマルコ・ポーロが書いた『東方見聞録』という本を読んでおり、西回りでアジアへ向かう航路は当時一般的に考えられていたよりもずっと短いのではないか、と踏んでいたからだ。
そこで、まずポルトガル王室にプレゼンを行い、西回り航路を発見するための冒険への資金援助を依頼した。ポルトガル王室は興味を示したが、結局金は出さなかった。ポルトガル王国が派遣していた船がアフリカ回りの航路を発見しつつあったことが理由の一つにあったらしい。
コロンブスは諦めずに隣国のスペイン王国でプレゼンをする。今度は、資金援助を取り付けることができ、コロンブスは航海に乗り出すことができた。
コロンブスは2ヶ月半に及ぶ苦難の航海の末、現在のバハマ国に属するサン・サルバドル島を「発見」。その約2週間後、キューバ島を「発見」した。
日本では、このエピソードは約8年間に及ぶ資金調達と計画の末の快挙、「輝ける成功」として語られることが多いかもしれない。
最初で最後の植民地キューバ
だけれども、当時キューバに暮らしていた人々にとっては苦難の歴史の始まりだった。
コロンブスは一度スペインに帰り、翌年には17隻の船団を率いて「新世界」に戻ってきた。キューバの隣、現在のハイチ共和国とドミニカ共和国があるエスパニョーラ島に植民地を築き始めた。このコロンブスの第二航海についてきた人物の中にディエゴ・ベラスケスがいる。彼は1511年にエスパニョーラ島を拠点にキューバを植民地化。初代キューバ総督に就任した。
ベラスケスの統治は過酷を極めた。スペイン人たちは「先住民」を奴隷にし、銀の鉱山や砂糖農園で過酷な労働を強いていった。抵抗するものは殺害し、逃亡するものは狩り立てていった。やがて遊び半分の人間狩りや強姦が常態化していった。そして、その方法はヨーロッパにおける歴史的文脈を踏まえて正当化されたのだった。
そもそも8世紀初めから15世紀終わりまで、スペインにイスラム教国が存在していた。この時代、スペインの王はキリスト教徒の騎士団がイスラム教徒の支配地域を征服するとその土地の支配権を一時的に騎士団に委託していた。これをエンコミエンダ(寄託)制度という。「新世界」ではこの制度が流用され、「先住民」の支配が行われた。
スペイン王は入植者たちに勅令を出し、「新世界」でのエンコミエンダ制度を認める代わりに「先住民」をキリスト教化し、保護することを求めた。しかし、実際には入植者たちは「先住民」を奴隷として使役し、銀山の開発や砂糖農園の経営を行ったわけだ。このような支配に抵抗する人々への虐殺が続いた。その上、スペイン人によってもたらされたチフス、天然痘、インフルエンザ、百日咳、麻疹(はしか)などの疫病は免疫のない人々の間に瞬く間に広がった。
当時のヨーロッパで厳しく制限されていた殺人や性の快楽が植民地では許容された。入植者たちは「新世界」をすべてが許されるワンダーランドのように想像した。
「先住民」に対する暴挙は、ベラスケスと同じスペイン人のバルトロメ・デ・ラス・カサスという聖職者が報告している。ラス・カサスは初め入植者として奴隷を所有し、農園を経営していたものの、眼前に広がるあまりの惨状に耐えられなくなった。彼が理解する聖書のメッセージと仲間のキリスト教徒の振る舞いがあまりにも乖離(かいり)していたからだ。彼は報告書を書いて、スペイン王に「新世界」の状況を告発した。
だが、時すでに遅し。
カリブ海地域の先住民は、50年ほどのあいだに言語や文化や社会を維持できるだけの人口を割ってしまった。つまり、事実上の絶滅となってしまったわけである。
現在のキューバでは人口の4%だけが、「先住民」のDNAを継承していると言われる。
植民地支配と奴隷貿易
1513年、ベラスケスはキューバへの黒人奴隷の輸入を許可した。減少した「先住民」の代わりの労働力として、主に西アフリカや中央アフリカからヨルバ人やコンゴ人が奴隷として連れてこられた。
こうした黒人奴隷は砂糖のプランテーションに動員された。
砂糖の簡単な生産方法はこうだ。サトウキビを栽培し、収穫。茎を潰して樹液を搾り取り、精製して砂糖とする。この工程を労働集約的に行うので、砂糖産業は農業というより、工場的な生産管理を必要とする。つまり、砂糖のプランテーション経営を通して少数の管理者が多数の奴隷を効率的に運用して砂糖を生み出すという技術が編み出されていったわけだ。
労働管理の技術はヨーロッパに輸入され、産業革命を推進する一つの基盤となる。
もちろん生産品である砂糖自体も貴重な物資としてヨーロッパに輸出された。
ヨーロッパでは武器が生産され、西アフリカに輸出された。ヨーロッパ人は西アフリカで対立するグループにそれぞれ武器を供給し、戦争を助長した。アフリカ人同士の戦争捕虜はヨーロッパ人に奴隷として販売され、カリブ海地域に輸出された。これを三角貿易という。
植民当初から続く奴隷制がキューバで終結したのは1886年のことだ。
奴隷解放もただ哀れみで与えられたわけではない。
クリオーリョと呼ばれるキューバ生まれのプランテーション経営者たちは、スペイン本国からの支配に反対し、1868年に独立のための反乱を起こした。この反乱のリーダーであったカルロス・セスペデスはブエナ・フェ(スペイン語で「善意」とか「誠意」の意味)という独立を目指す秘密結社を結成。独立を宣言した。この独立宣言のなかで、セスペデスはキューバにおける奴隷制の廃止を約束。みずからの奴隷も解放した。
当時のキューバの総人口は約140万人、そのうち白人が76万3千人、黒人奴隷が36万3千人、解放奴隷が23万9千人、残りは苦力(クーリー)とよばれる中国からの年季労働者がいた。思うに、セスペデスには奴隷を味方につければ、スペイン軍に対抗できるという戦略的意図もあったであろう。
しかし、奴隷解放を支持する東部のクリオーリョと反対する西部のクリオーリョで対立が起きた。結束にヒビが入った反乱軍はスペイン軍に抵抗しきれずに敗北。反乱は鎮圧されてしまったのである。スペインによる支配は継続したものの、多くの奴隷や解放奴隷が反乱に参加したこともあり、キューバでの奴隷廃止を決定せざるをなくなったのだ。
奴隷解放は奴隷自身によって勝ち取られたものだったというわけだ。奴隷制は支配者が自発的にその過ちに気がついたことによって終焉したわけではなかった。
独立と革命
奴隷は解放されたが、スペインによる植民地支配は続いた。クリオーリョたちの不満が再度爆発。1895年、ホセ・マルティが反乱運動を起こし、第二次独立戦争が勃発する。
ホセ・マルティは16歳で第一次独立戦争に参加した後、キューバを脱出して亡命。各国を転々としていた。アメリカ合衆国滞在中にキューバ革命党を組織すると、キューバに上陸。反乱を開始した。マルティは上陸後に戦死してしまうものの、戦争は続いた。
独立戦争の最中、1898年に思わぬことが起きる。キューバに停泊していたアメリカ合衆国の軍艦が突如爆発するという事件が起きた。なぜ爆発したかは、諸説あってよくわかっていない。ただ、新聞各社がセンセーショナルに事件を煽ったこともあり、アメリカではスペイン政府を非難する世論が巻き起こった。世論に後押しされる形で、アメリカ政府はスペインに宣戦布告。キューバの独立戦争に介入した。
結果として、アメリカとスペインの講和条約において、キューバの独立は果たされた。しかし、アメリカはキューバを「文明化」するという口実でもって、キューバのインフラを整備、経済的な結びつきを強化し、強引にキューバの憲法にプラット条項とよばれる条文を加えさせた。プラット条項とは、キューバにおけるスペインの影響を排除するとともに、外交権をアメリカに委ねるもので、事実上キューバがアメリカの保護国となることを意味していた。
つまり、キューバ人がせっかく独立戦争を進めていたにもかかわらず、アメリカとスペインの戦争の結果、キューバがスペインの植民地からアメリカの植民地になってしまったということだ。
アメリカの支配の結果、キューバの首都ハバナは世界有数の先進地域となる。しかし、アメリカにバックアップされた独裁者が支配し、アメリカから来たマフィアが幅を利かし、売春が盛んな歓楽街と化した。アメリカでは禁酒法が導入され、アルコールが飲めなかったのに対し、キューバでは合法だった。アメリカの富豪は豪華な別荘地を次々と建設した。スペイン帝国の要塞都市はアンダーグラウンドなリゾートになったのだった。
事実上の植民地支配が続くことに業を煮やしていたキューバのエリートたちはまたもや反乱を画策。1956年、フィデル・カストロが率いる革命軍がメキシコで組織され、キューバに上陸した。フィデルの上陸を察知していたキューバ軍は待ち伏せを行い、ほとんどのメンバーが戦死した。わずか10数名人だけが生き延び、東部の山中に逃げ込んだ。そこから、徐々に仲間を増やして反撃を行い、ついに1959年1月1日には独裁者がキューバを脱出して亡命。革命軍がハバナに入り、新政府が樹立された。
アメリカの影響を排除して、独立果たしたキューバ革命をアメリカ政府は非難。フィデルは新たな支援者としてソビエト連邦に接近した。東西冷戦の真っ最中、共産主義化したキューバをアメリカ政府は許さず、経済封鎖を決断。冷戦がとうの昔に終わった今日でもこの封鎖は続いている。
誰が何を名付けたか
さて、簡単にキューバの歴史を見てきた。ここで少し、コロンブスの時代に戻ろう。
コロンブスとその後継者たちが見つけた島々は現在では「西インド諸島」と呼ばれている。コロンブスはインド(アジア)を探しに探検に出発し、「発見」した島々をインドだと思ったからだ。そして、それはヨーロッパから見て西側にある。
そこに住んでいた人々は一括りに「インディオ」と呼ばれることになった。ラス・カサスによれば、当時のキューバには三つのグループが住んでいたようだ。グアナハタベジェス人、シボネイ人、タイノ人などと呼ばれるグループだという。考古学的な知見では、最も古い時期で紀元前6000年ごろに狩猟採集民がキューバ島に到達しており、紀元前2500年ごろには漁撈民が流入。その後3度にわたって、北米や南米から農耕民が渡ってきたらしい。キューバ島を含むカリブ海地域には言語的にも文化的にも多様な人々が生活していたわけだ。そのような異なった様々な人々をスペイン人たちは「インディオ」と一緒くたに考えた。
自分たちと異なる人々をどのように名付け、説明するのか。どのように描き出し、どのように研究するのか。ここに潜む権力、そして支配の方法を喝破した人物がいる。
エドワード・サイードだ。
サイードは1978年、その主著『オリエンタリズム』を出版。同著のなかで「西洋がこれまでどのように東洋をどのようにイメージし、扱ってきたか」ということを説明した。そして、それこそが植民地主義のような西洋から東洋への支配のやり方だと見抜いたのだ。
エドワード・サイードと『オリエンタリズム』
エドワード・サイードはキリスト教徒のパレスチナ人として1935年にエルサレムで生まれた。
エルサレムで英国式教育を受けていたが、ユダヤ人によるパレスチナ地域への入植にともなう戦争の激化によって、エジプトのアレクサンドリアに移った。その後、アメリカに移住。アメリカで学位を取得し、コロンビア大学で教鞭を取った。
僕の理解では『オリエンタリズム』で言われていることはこうだ。
僕たちは東洋(オリエント)とか西洋(オクシデント)というものが実際に存在していると考えている。だから、歴史を調べたり、旅行したりするときに「ああ、これは東洋的(オリエンタル)だな」とか「こちらは西洋的(オクシデンタル)だな」とかいうことを思う。でも、よく考えてみたら、それぞれ異なったものや場所や人々を「オリエンタルだ」とか「オクシデンタルだ」と一括りにしているのは、ちょっと奇妙ではないだろうか。
僕たちは歴史的に絵画を見たり、音楽を聴いたり、物語を読んだり、研究したりするときに段々と「こういうものがオリエントだよね」というステレオタイプを作り上げていく。そして、その色眼鏡をかけて、「これがオリエンタルだ、あればオクシデンタルだ」と決めているのではないだろうか?
これはちょっと難しいことを言っていると思うのだが、面白い指摘だ。僕たちは、「現実に存在する違い」をみて、「これはこういうものだ」というカテゴリーを作り出していると思っている。でも、実際には逆で「これはこういうものだ」というカテゴリーを通して見ることによって、現実でも「違い」を見出しているという逆転現象を指摘しているからだ。
身近な例で考えてみよう。
僕たちは、関西人は面白いとか関東人は冷たいとか九州人は大酒を飲むというステレオタイプを持っているように思う。その前提に立って、次のようなことが起きたとしたらどうだろうか。
例えば、九州人と一度も会ったことない関東人がいたとする。彼は初めて九州人と飲み会に行くことになる。その九州人が大酒を飲めば、彼は「やはり九州人は大酒を飲むんだ」と思うし、それほど酒を飲まなければ「九州人なのにあまり酒を飲まない」と思う。
「九州人は大酒を飲む」というのは彼にとって一回も検証されたことのない偏見(バイアス)であるにもかかわらず、その偏見に基づいて現実を評価する。
実際には、酒を飲む九州人もいれば、飲まない九州人もいる。僕は九州生まれ、九州育ちだが、遺伝子検査の結果、アルコール分解酵素をほとんど持たないことがわかった。ちなみに、僕は基本的に飲まない。
だが、僕は髭をはやしているし、やや大柄だ。それに九州人という情報も加われば、大酒を飲みそうだと思われる。これはステレオタイプの問題であって、事実ではない。だけれども、僕たちは何かを見たり、考えたりするときに、それまでに培ったステレオタイプを参照して対象を評価してしまうというわけだ。
サイードはもう一つ重要な指摘をしている。
オリエントとオクシデントに対し、芸術や学術を通してステレオタイプが形成されていく。そして、その色眼鏡を通して物事を判断していると考えたときに、なぜかオクシデントには文明や理性や優位であるというバイアスが割り当てられ、オリエントには野蛮や感情や劣位であるというバイアスが割り当てられてきたということだ。
つまり、ヨーロッパ人たちはオリエントに対して劣った存在であるとみなし、その偏見に基づいて、オリエントの人々を取り扱ってきたというわけだ。
コロンブスの罪、コロンブス的である私たちの罪
さて、話をカリブに戻そう。
サイードの議論は「旧大陸」の東西の話だったが、話の骨子自体はカリブで起こったことにも適用可能だ。
エンコミエンダ制のことを思い出してもらいたい。スペイン王は入植者たちにインディオのキリスト教化を行い、そのために彼らを「保護」することを求めた。
「保護」とは、スペイン人の無自覚な優越を示している。
カリブでは6000年もの間、人々は自立して生活していた。「保護」してもらう言われはない。
キリスト教化もそうだ。キリスト教徒の「未開人」に対する優越を前提に語られている。「未開人」を文明化することは使命として、慈愛として考えられている。
そして、文明化というグロテスクな言い回しは、アメリカ合衆国によるキューバの保護国化で繰り返される。
コロンブスは、土地や人々の名前を奪ったうえ、自分たちの言葉を使い、自分たちの色眼鏡で「先住民」を見ることを通して、彼らを支配したわけだ。そして、「先住民」を劣ったものと考え、そのように扱った。
2012年のハバナで、なぜ僕が旅行者の質問にうまく答えられなかったのかわかるだろう。
キューバにおける人口構成は、この地域が500年にわたって受けた収奪と支配の歴史抜きには語れないからだ。そして、その凄惨な歴史は瞬時に語り得るものではない。
思うに、『オリエンタリズム』は警告している。
僕たちがどのような絵画や音楽や文学や研究を生み出すのか、僕たちがどのような言葉遣いをするのか、僕たちがどのような身振りをするのかということを通じて、僕たちは次の収奪と支配を生み出し得る。
これを警告と受け止めるべきなのは、ヨーロッパ人やアメリカ人だけでなく日本人もまたそのような仕方で収奪と支配を行ってきたからだ。
日本人は朝鮮半島や台湾や満州や東南アジアの国々でコロンブスと同じ振る舞いをした。植民地を作り、現地の人々を「文明化」が必要な劣った人々とみなし、言語や名前を奪っていった。そして、さらに懸念すべきは、今でも現地の人々を「文明化」が必要な劣った人々とみなすその言葉遣いや身振りをやめない人々がいることだ。そういった人々は知らず知らずのうちに、相手が「劣った存在」であることを前提とした振る舞いを普通のことだと考えさせられている。
例えば、ストーリー上の必然もなく、ドラマの中では外国人はカタコトの日本語を話す。バラエティ番組の中では、日本の文化を称揚するコメントだけを放映する。漫画の中で濃いトーンで肌を表現した人々を常に伝統的な生活する人々として描く。
このように日々僕たちが接する物語や会話の中で、自分たちではない人々を劣った存在であるということが「事実」として提示され続ける。
この種の振る舞いは、自らの中にある序列意識に対する無神経さの結果に他ならない。
昨今、Mrs.GREEN APPLEという音楽グループのミュージックビデオが厳しい批判に晒された。ミュージックビデオのなかで、コロンブスやナポレオンやベートーヴェンを単なる歴史上の英雄として取り扱い、南の島で類人猿に「文明」を教えるというストーリーが示された。このミュージックビデオのようなものがまさにサイードが指摘するように芸術を通して人々にバイアスを植え付け、収奪と支配を見えないようにする装置として機能しているのだ。この作品の作り手たちは、自らの文化の中に内面化された序列意識に対する無神経さを露呈したということだ。
悪気はなかったことだろう。だが、スペイン王が入植者たちにインディオの「保護」を求めたのは悪気があってのことではない。その悪気のなさの中にこそ、支配は潜んでいる。
自分たちの身振りの中に、まさにコロンブスの所業が受け継がれているということを僕たちは知らねばならない。
編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP
室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)
1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。
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