普段着としての名著【第7回】AIに生成された僕と『ソクラテスの弁明』|室越龍之介

人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!

【第7回】AIに生成された僕と『ソクラテスの弁明』

僕と僕のようなもの

少し前に同人誌を出した。

2024年の文学フリマ福岡という同人誌のイベントで頒布するためだ。企画、編集、装丁など全てを友人のデザイナーが請け負ってくれた。僕の担当パートは彼女の指示に通りに小さなエッセイを数編書くだけだった。

出版に関わるほとんど全ての工程を友人が受け持ってくれていたにも関わらず、僕は締切りをしばらく過ぎてエッセイを送付した。エッセイのテーマは特にない。自由に書いて良いというので、却って書くことに困ったのである。テーマが自由であったのはこの同人誌の企画の肝が別のところにあったからだ。

友人は僕のエッセイの他に、AIで数編のエッセイを作成した。そのうちのいくつかの文章にはさらに僕が手を入れて修正を加えた。つまり、一冊の本の中に、僕が書いたもの、AIが書いたもの、AIが書いたものを僕が修正したものの三種類がごちゃ混ぜに並んだ本を作ったのだ。

この本のテーマはズバリ、「さて、何人がそれに気がつくのだろうか?」というわけだ。

僕のごく親しい友人たちも完成した同人誌を読んでくれた。だけれど、その三種類の作品を的確に分類できた人はいなかった。ネタバラシの編集後記を、文字として同人誌に盛り込むのではなく、音声を録音してあるプラットフォームでの配信としたので同人誌を読んだ人のなかには、「これはAIが書いたのだ」といまだに気がついていない人もいるかもしれない。

AIが書いた文章は僕も驚くほどに「僕が書いたような」文章だった。

それもそのはずだ。友人は僕の文章を生成AIに学習させて、「僕っぽい」文章を書くように教育していったのだ。

僕は高校、大学と文芸部に所属していた。文芸部というのは、詩とか短歌、もしくは小説や評論などを書いて同人誌を作る部活だ。多くの方にはあまり馴染みのないマイナーな部活かもしれない。けれども、「全国高校文芸コンクール」といって、文芸部の甲子園みたいなものも一応ある。それぐらい全国の高校に存在している部活でもある。

同人誌を作るのだから、いきおい作品を書くことになる。なので、15歳ぐらいから20年にわたって書き溜めた諸々の雑文がPCの中には転がっている。おまけに、僕はTwitter(現X)を割合よく使うので、そちらにも僕の思考の断片が転がっている。

彼女は、そういったものから「僕のような文章を書く」AIを作り上げていった。

確かに出力された文章の中に、明らかに僕のようではないものもあった。AIはポジティブで前向きな文章を書く。僕のダウナーで、悲観的な傾向を知っている友人たちからすると「室越はこんなこと言わないだろうな」という話の展開にAIは持っていってしまう。

完全に僕を模倣できるわけではない。僕のコピーではない。

だが、確実に「僕のようなもの」ではある。

ポジティブで前向きなところも、「室越もようやく大人になって、人前では社会性を発揮し始めた」と思った友人もいたようだ。つまり、人間が変化することを踏まえ、「僕のようでなさ」も僕の可変性の範疇であって、本質的な「僕であること」を損なうとは考えない人もいたということだ。

僕とAIによって生成された「僕のようなもの」がそれほど区別できないとき、「僕」とは一体何者ということになるだろうか。

AIによるリアリティの変容

もう一つAIにまつわる話をしてみよう。

僕は大学時代の友人と「のらじお」というpodcast番組を配信している。その収録中に友人が面白いことを話した。

友人の息子は卒業アルバムに掲載する集合写真を撮る日に運悪く体調を崩して、病欠してしまった。友人は後からそのことに気がついて、「残念だったね」と声をかけたというが、息子の方はケロッとして「後でAIを使って、合成するから問題ないよ」と言ったという。

僕たちが子供の頃、つまり、デジタルカメラやパソコンがそれほど一般的ではない時代には、「集合写真を撮影するときに欠席した人」は集合写真の端に丸く囲まれた顔写真を後から嵌め込まれるに過ぎなかった。いかにも「集合写真を撮影するときに欠席した人」という感じで少し残念に感じたものだ。

だから、友人は丸く囲われてしまう息子を気遣ったのだ。

だが、AIの時代ではまったく違う対処法になるという。同じような角度から別撮りした写真を集合写真の中にごく自然に入れ込んでしまうのだ。「集合写真を撮影するときに欠席した」という事実がさもなかったかのように、ごく自然に、である。

息子がケロッとしていたのは、そのためだ。欠席がことさら強調されることもない。一見するとただの集合写真が卒業写真に載ることになる。

思い起こせば、1980年代生まれの僕は、プリクラの登場、発展とともに青春を過ごした。初めは証明写真のように一人だけで真正面から撮影した写真にフレームをつけるだけだったが、あっという間に色が白くなるとか目が大きくなるといった機能が登場した。つまり、僕たちは写真というものが真実を写す道具だった時代から、それを加工して別物にしてしまう時代をプリクラとともに歩んだ。

そして、ついに友人の息子のエピソードを通して、そのような加工写真がプリクラのような「お遊び」の領域から、卒業アルバムの集合写真のような「お堅い」領域に進出している事態に直面したことを知った。

しかも、それはちょっとした顔色を変えるとか、目の大きさをいじるといったような化粧の延長、演出の延長ではなく、「その日、その生徒が出席していたかどうか」というような「事実」の改変というところまで踏み込まれたという事態なのだ。

これまでは、写真が起こった出来事、つまり事実を証明してくれた。だからこそ、僕たちは共通して写真に写っていることを本当のこと、つまり真実だと考えることができた。

しかし、もはや、写真に写っているからと言って、真実とみなせるという世界ではなくなった。「事実」を確かめる手段が、つまり、真正な情報が容易に汚染されてしまうことがわかったからだ。

だが、このように考えてみることもできそうだ。

卒業アルバムに載る写真として大切なのは、その年のクラス、もしくはその学年に誰がいて、どういう教室で、どのように学んでいたのか、を記録することだ。その日、その時、その瞬間に誰がいたか、ということは瑣末なことだ。「卒業アルバム」に掲載される真実としては、間違っていない。ただ、AIのような科学技術を用いて、事実を補完したにすぎない。

本質が損なわれたわけではない。

ただの1日学校を休んだからといって、集合写真の片隅に丸く写真を出す方が、長い目で見れば真実ではない。僕たちにとって大切なのは、大筋で正しいことであって、厳密にその瞬間の真実である必要はない。

僕の同人誌のエピソードも併せて考えてみよう。

多くの人は僕の書いたものとAIが書いたものを判別できなかった。そして、おそらくそのうちの何人かはAIが書いたものを僕が書いたものだと今でも信じているだろう。その文章の生成には僕の膨大な執筆データが使われているし、継ぎ接ぎで作られたその文章も、その部分部分で見れば、僕の書いたことだ。

だとすると、果たしてこれは僕が言いたこと、つまり僕が思考したことだと言えるだろうか。同様に、AIで合成した集合写真も真実と言えるのだろうか。

もちろん、嘘ばかりが書かれた文章もあるし、トリックを使って見る人を騙すことを意図して撮られた写真もある。合成写真は写真の歴史と同じぐらい古い技術だ。真実ではないものが混在することは避けられないことでもある。

だが、文章や写真が持つ「確からしさ」は長い時間をかけて、僕たちの社会の中で信頼を獲得た。誤りや嘘が含まれた偽書や偽典と呼ばれる書籍は世の中にたくさんある。その一方で、他の出版された文献との関連や世界の中に存在する他の証拠と突き合わせることで、書かれたことが真実でないことがわかる。

写真にしてもそうだ。一枚の写真では真偽はわからないが、前後のつながりや他の証拠との関係でその写真に写されたものが真実であるかどうかは、ある程度推測することができる。

だから、AIがあろうがなかろうが、昔から同じ問題と葛藤が僕たちの社会には存在している。「確からしい」情報源が偽情報で汚染されているかもしれない、なんてことは当たり前のことだとも言えるかもしれない。

だけれども、けれども決定的に変わってしまったこともある。

つまり、AIは真偽の繋ぎ目のなめらかさと情報の量だ。

僕たちは、昔ほどの精度や確度で真偽を判別できない情報を大量に捌かなければならなくなった。技術の革新は、多くの人がコンテンツを作ることを可能にしたが、それは「それらしい体裁を整えた情報」が世の中に大量に出回ることを可能にしたとも言える。

AI同人誌を作ったことで、「僕」と「僕のようなもの」の境界が曖昧になったように、「確かなこと」と「確からしいこと」と「確かでないこと」の境界が曖昧になっている。

僕たちはこの曖昧な世界で何を信頼して生きていけば良いのだろうか。

『ソクラテスの弁明』と真実を語るということ

さて、ここまでAIのような最新技術の話をしてきたのだが、ここで大体2500年ほど時を遡ってみたい。

真実を巡る、ソクラテスに話を聞いてみたい。

ソクラテスは紀元前5世紀ごろのギリシア・アテネで活躍した哲学者だ。ソクラテスは自分では書物を残さなかったし、同時代の資料が少ないので、彼がどのような前半生を過ごしたのかはよくわかっていない。だけれども、弟子のプラトンが書いた書籍から、後半生を窺い知ることができる。

ソクラテスやその弟子・プラトンについて語らねばならないことはごまんとあるのだが、今回はほんの少しに止めよう。本稿で話したいのは、ソクラテスは真実を語る、ということを大切にしたということだ。

当時、古代ギリシア人にとって、徳(アレテー)を持つことが大切だった。徳とは「善さ」とか「優れてあること」とか、そういう意味となる。善い人間、優れている人間であることを目指したのだ。

では、善い人間というのは実際にはどのようなものだろうか。

古代ギリシア人はポリスとよばれる都市国家を運営しており、都市国家の市民は政治に参加したので、徳がある人間は政治によく参画できる、つまり弁論によって多くの人を説得し、国家を先導できる人間と考えられていた。善い人間とは国家において重責を果たせる人間ということになる。

そこで、優秀な若者たちに弁論術や国家を導くための教養を教える人々が現れ、彼らはソフィストと呼ばれるようになった。

しかし、弁論によって人々を動員し有力な政治家になることを「善し」とするソフィストに対し、ソクラテスは「魂が優れていること」を徳と考えた。

例えば弁論によって功成り名遂げて、財産や社会的地位や名誉を手にいれたとする。普通、ソフィストたちはそれを「善い」ことだと考える。だけれども、ソクラテスは、財産や地位や名誉はそれ自体が「善い」わけではないと考える。実際に、巨万の富を得て、そのために身を滅ぼす人は後を絶たない。そのような人にとって、富は「善」ではなく、「悪」になってしまう。なので、財産や地位や名誉を有益につかうこと、つまり、「何が善かをよく知る」ことが必要になる。

なので、ソクラテスは「何が善かをよく知る」ためには、よく物事を理解し、考え、判断し、それを語らなければならないと考えた。つまり、ソクラテスの言い方に寄せると、「知や真実に気を使う」ということが魂を優れたものにすると考えたのだ。

知や真実に気を使う、とはどういうことだろうか。

それは、相手や自分が何を知っていて、何を知らないのかをよく吟味するということだ。僕たちはしばしば、自分が知っている以上のことを知っているように振る舞ってしまう。自分が働いた会社のことしか知らないのに、仕事一般についてわかっているように喋ったりする。その場所に行ったこともないのに、ネットで見聞きした事柄だけで、実際に旅行してきたように話してしまったりする。

自分が何を知っていて、何を知らないのか、僕たちは案外よく整理しないまま生きている。

ソクラテスは、それを整理しようとする。

知恵がある、知識があると評判の人のところへ行って、いろいろ話を聞いてみる。「自分はよくわからないので」と無知を装う(これをエイロネイア、アイロニーと呼ぶ)。そして、相手の回答にさらに質問を重ねて対話を行う(これを産婆術と呼ぶ)。相手は、ソクラテスと問答しているうちに、自分が何を知っているか、何を知らないかを理解し始める(これを「無知の知」とか「不知の自覚」と呼ぶ)。

ソクラテスはなにも相手を困らせるために、意地悪でこれをしているわけではない。

何を知っているか、何を知らないか、対話を通して理解することで知や真実に気を使うことができる。そうして初めて、「何が善か」を考え始めることができる、というわけだ。

アテナイの街角で、一日中問答をするソクラテスに感化された人々が現れた。

「知を愛し求める」人々が現れたのである。哲学(フィロソフィア:ギリシア語で「知を愛する」という意味)の誕生だった。

ソクラテスはなにを弁明したのか?

さて、そんなソクラテスは70歳のときに裁判にかけられた。

訴状はこんなものだった。

「ソクラテスは国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモーン(神霊)の類を導入する罪を犯している。さらに若者たちを堕落させる罪を犯している。求刑は死刑」(岸見一郎『プラトン ソクラテスの弁明』角川選書,p82)

簡単にいうと、ソクラテスは国が認める宗教を否定して、新興宗教を始め、若い人たちを勧誘している、これは国家反逆罪だ、ということだった。

ソクラテスからしてみれば、謂れのない罪状だった。

これには理由がある。ソクラテスが生きた時代、アテナイは政治的に激動だった。さまざまな経緯を省略していうと、ソクラテスは政治闘争に巻き込まれ、罪をでっち上げられていたのだ。

ソクラテスの審理は、アテナイの行政機関である五百人評議会が担当した。評議員はアテナイの市民の代表だった。おそらく彼らの多くも、ソクラテスの罪がでっち上げであったことはわかっていただろう。

だが、ソクラテスは一日中街中をほっつき歩き、人々に問答を仕掛けてはその権威を失墜させる変わり者だと思われていた。当時の喜劇の中にソクラテスをそのように描写したものもある。

鼻つまみものの風変わりな老人。だけれども確実に支持者がいて、政治的に厄介な実力者。

ソクラテスはそんな人物として審理に出なければならなかった。

ソクラテスがその気になれば、哀れみを乞うたり、自分が国家にとって脅威ではないと自己弁護したりして、その場を切り抜けることもできただろう。

しかし、ソクラテスはそうしなかった。

「知を愛し求める」ことつまり真実を語ることが大切だと考えていたからだ。

ソクラテスは、起訴内容に対して、真っ向から対決し反論する。自分の生き方を開示して、それが国家に背いていることになっているかを問うた。アテナイの市民である評議員たちに、何が「正しいか、そうではないか」を吟味してほしいと要求した。

でも、多分、ソクラテスがこのように率直に真実を語るのが嫌だと思う人々がソクラテスを訴えているのである。ソクラテスもおそらくそれをわかっていて、真っ向から勝負にかかる。

ソクラテスは真実を話す。

なぜなら、それがソクラテスにとって善い行いだからだ。

そして、ソクラテスが言うところの善さとは、知を愛し求めることであり、知を愛し求めるとは、自分や他人が知と真実に気を使い、魂を優れたものにしようとすることだから。

ソクラテスは次々と人々と話し、知を吟味している。それが神から自分に託された仕事である。誰かからお金をもらって何かを教えたり、誰かを弟子に取ったりということも(彼からしてみれば)してはいない。ただ、多くの人と対等に問答をしているだけだ。

ソクラテスは弁明において、直裁に言う。様々な人と問答をしていることで、多くの人に憎まれているだろうと。だけれども、憎むのもおかしい。自分は相手が劣っているとか、自分が優れているということを言いたいのではない。対話を通して、知に近づくこと、それが大切なのだから、と。

このようなあまりに実直な弁明では、すでに中傷的な噂の出回っていたソクラテスのイメージを変えることができなかったのだろう。ソクラテスは有罪になった。

ソクラテスは、宗教的理由により国内での死刑が保留され即日の刑死を免れるが、1ヶ月後に毒物を飲んで刑死したという。

僕たちは誰とどのように真実を吟味すればよいか?

僕なりに、ソクラテスのメッセージを咀嚼するとこういうことだ。

人間は社会のなかで生きている。この社会を真っ当に運営すること、つまり、政治は我々みんなの幸福に直結する。政治をするためには、世界に対するちゃんとした認識が必要となる。ちゃんとした認識を保つためには真実を探し求めるという態度こそが肝心であり、この態度を保つためにコミュニケーションを通して、何が真実であり、何が真実でないのかを明らかにし続けないといけない。

ソクラテスにおける真実とは、決して少数の人間とか一個人に閉じていくものではない。

より人々と共有して語ることのできる、本当のことであるはすだ。

さて、AIの話に戻ろう。

AIは事実と事実でないことをなめらかに繋ぐ。しかも、そういった情報を大量に作り出すことができる。僕たちは、何が事実を写したもので、何が事実を写したものでないのかを曖昧にしか判別できない状況になっている。

僕が書いたものかAIが書いたものか、見分けがつかなくなっているし、児童がその日写真に写ったかどうかわからなくなっている。

これまで、人類の知の営みの一つ、人文学の伝統においては、文献の読解と吟味がその主眼であった。ある文献で書かれたことを吟味し、それに注釈をつけておく。後世、さらにその文献を吟味し注釈をつける。これは、時空を超えた、文献の執筆者とその文献の読者が対話を重ね、共に知を吟味するという態度を持っているという点で、僕たちもまたソクラテスの弟子である。

文献の連なりとは、真実を追い求めるコミュニケーションの空間なのだ。

だけれども、AIを用いた大量の情報がこの空間に入り込んでしまえば、人類の知の営みはこれまでとは質的に異なったものになって行きかねない。「共に知を吟味する」という意図をAIは持たない、そして、来歴というものを持たない、AIの思考が入ってくることで文献の吟味は難しくなる。

例えば、僕を研究する研究者が100年後に出てきたとして、AIが書いた同人誌を吟味しても、「僕」に到達できない。僕とその研究者の「知の吟味」はAIによって阻まれることになる。

このようにいうと、僕が「AIの登場によってすべての真実が汚染され、何も追跡できない」と考えているように思われているかもしれない。

実は、そのようにも考えていない。

研究者や著述家が責任を持って執筆するという姿勢が続く以上、AIの利用が拡大したところで即座にすべての情報汚染が進むわけではない。ペンと羊皮紙が万年筆と原稿用紙になり、インクとタイプライターがプリンタとコンピュータに置き換わった。AIもその連続線上の変化でしかないかもしれないとも考えている。

真実を探究する人間がその思考を書き記すための道具が変化しただけとも考え得るからだ。

だからこそ、今日僕たちは、AIという技術に対して、ソクラテス的態度を取るか、ソフィスト的態度を取るかを問われることになる。

道具をどのように使うのか、僕たちの態度が問われる。

今日の世界においては、ソフィストたちは、「現実は弱肉強食である」と説き、真実の探究よりも政治的・社会的・経済的な力学にフォーカスした方が良い、と教えている。生存競争つまり、利潤の追求に一度敗れれば何の力もない。力のないものは社会にとって役にと断じる。真実の追求は二の次である。

真実を追求する態度抜きにAIを用いて大量の情報を作ってばら撒けば、人類が時空を超えて保持してきたコミュニケーション空間は容易く汚染されてしまうし、経済的成功や支配への欲望は人間をそのような行為に簡単に走らせてしまうだろう。

AIでエッセイや小説を書いたり、集合写真を合成したりすることそのものが問題なのではない。それが容易に可能な社会で生きている僕たちの態度こそが問題となるのだ。

誇大な広告やフェイクニュースといった真実ではないもの作ったり、真に受けたりして、あたかもそれが真実であるかのように振る舞う態度の中に、自分や他人の幸福を阻害する契機が潜んでいる。

ソクラテスは「ただ生きる」のではなく、「善く生きる」ことの必要性を説いた。善く生きることだけが僕たちを幸福に導くことができる。真実に基づいて、知恵を働かせ、何が自分やみんなにとって善いかを考え、そこに至ろうとすること。

確かにソクラテスにそう言われると、この他に幸福に至る道はないような気もしてくる。

真偽の境が益々わかりにくくなる世界において、哲学(知を愛すること)を信頼しなくてはならないのだろう。

編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP

室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)

1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。

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