人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!
【第11回】結論ファーストと『野生の思考』
※ 「未開人」との言葉は差別的であり現在では使いません。本稿では、当時の議論を提示するため便宜的に括弧付きで「”未開人"」の語を用いているのは、上記理由からですので、ご了承ください。
「論理性」という正義
とあるベンチャー企業で働いていたときに、よく聴いた物言いがある。
「結論から話せ」だ。
ビジネス書を読むと「結論」から話すことの美徳は滔々と語られている。
曰く、「相手の時間を奪わない」
曰く、「要点を押さえてから話ができる」
曰く、「相手が理解しやすくなる」
なるほどと思う。
確かに、「結論」から話すと時間の短縮にもなるし、相手の理解度も上がるかもしれない。だけれども、実地で「結論から話す」をやっているのを観察すると、それほどスマートに振る舞えている訳でもない。
例えば、会議中に「結論…」と話し始めた人がいた。その会議はアイデアの発散のために設定されていたので、「結論から話し始めるのか、変わっているな」と僕は思った。彼が話し終えた後に、数人がアイデアを出したのだがその人がだんだんと焦れている様子が伝わってきた。どうしたのかと思っていると、口を開き「自分が話したことが結論である」と主張を始めた。
どうやら、合議の上で決定される「結論」と自分の主張としての「結論」が彼の中では混同されているようだった。
こういったこともあった。
ある若いメンバーが会議で発言をしたときに、シニアのメンバーが「質問?相談?意見?感想?結論から話して」と遮った。それは結論ではない。強いて言えば、発話の性質だ。確かに、質問をしたいのか、ただ感想を言いたいのか、発話の趣旨をはじめに述べてくれるのは親切だと思う。ただ、それを「結論」と呼んでいるのはいかにも変だ。
他にも、「結論」から話し始めたと思ったら、続いていたのは論証ではなく、別の話題だったとか、「結論」から話し始めたのに話終わる頃には別の「結論」が導出されていたとか、不可思議なことがいろいろとあった。
「結論から話す」という作法を守ろうという意思はあるものの、論理構成における「結論」の意味がわかっていなければ、その作法を守るのは難しいのだなと思ったものだ。
それはそうとして僕は「結論から話す」のが苦手だ。
思考の過程を共有しながら話す方が性に合っている。
「これからAという課題の解決方法を決めたい。方法にはαとβとγがある。αにはこのような利点と欠点があり、βにはこのような、そして、γにもこのようにある。しかるに、三つの方法を鑑みたところ、それぞれの利点を活かし、欠点を抑える方法として、Ωを提案したい」というように話したい。
これを結論から話そうとすると、「Aという課題解決のためにΩを実行したい。α、β、γの利点・欠点を勘案して、Ωが適当であると考えたからだ」となる。
これは自分で考えた順番ではないので、結論から話そうとするといちいち頭の中で組み立て直す必要がある。この組立て直すのに時間がかかるので、気の短い僕は思考の過程を共有したいと思ってしまうのだ。
論理性は文化によって異なる
論理性といえば、こんなこともあった。
ある時、中国人留学生が書いた論文のネイティブチェックをしたことがある。
その時に二つのことに気がついた。一つは、修飾語が多いこと。例えば、引用文を示す時に「この分野で著名で、偉大な業績のある○○先生」と表現する。日本語の論文では、あまり見ない表現だ。せいぜい「当該分野で第一人者と目されている○○は」くらいの表現だろう。もう一つは、「〇〇先生の分析もそうだった。なので、自分の分析も同じである」という論証の方法が多用されていたことだ。
日本では、一般的な論文指導として新規性が重要視される。なので、「先行研究と全く同じである」というレトリックが多用されている論文はあまりないだろう。「先行研究の分析はこうだったので、今回のデータから、この部分は追認できるが、この部分は違っており、従って、このような新しい分析ができる」という展開になるのが普通だ。
僕は「変だなぁ」とは思ったが、この論法自体を修正していくのは膨大な作業とコミュニケーションになることがわかっていたので、論法の修正は諦めた。論文の提出締め切りもあり、時間がなかった。仕方がないので、日本語の文法的におかしいところだけを修正して、論理構造の修正はしなかった。
その時に、僕は母語が日本語ではない人が、日本語で書いた文章をあまり読んだことがないことに気がついた。ことに、文筆家のようなプロでない人の文章は読んだことがない。
その留学生の文章は、言語能力としてはかなり高かったように思う。だけれども、全体を通して読んだ時にうまく説明できない違和感がまとわりついた。
まさにパラレルワールドの日本語を読んでいるような。
不思議な経験だった。
この経験をちゃんと説明してくれる本に出会ったのは、2023年の冬のことである。その名も『論理的思考の文化的基盤』。著者は名古屋大学の渡邉雅子教授で、教育を専門とする社会学者だ。
渡邉教授は、論理学などで使われる形式的な論理と僕達が日常的に「論理的だな」と感じる普段使いの論理とを整理する。この本は基本的に後者を扱う本だ。先行研究を引きながら、僕達が「論理的だな」と感じるのは、論理学などで扱われるような形式論理に乗っ取っているかどうかより、読み手や聞き手が期待する順番で論証が行われているかどうかであるということを指摘する。
では、非論理的だと感じるときはどういう時かというと、「読み手が期待する考えの道筋の順番が破られた時」なのだという。すなわち読み手の文化圏のレトリック(論文構造)に反した時」に読み手は書き手のことを「非論理的だ」と感じるらしい。
つまり、読み手と書き手が「どのようなレトリックが論理的か」を無意識に合意していることでその社会で「なにが論理的か」が決まっていくというわけだ。
この説明はまさに合点がいった。
何かを説明しようとするとき、人は論理的であろうとする。例えば、言葉を話し始めた子どもに、「なぜスイカが好きなの?」と聞くと「だって、赤いから!」などと返事をする。小さな子供でさえ何かを説明をするときに、どうにか理由を表現しようとするのだ。
この「どうにか理由を説明しようとする」ことは人類にとって一般的な現象である一方その方法は文化によって異なるとの説明は、明快だ。
僕が中国人留学生の論文を「パラレルワールドの日本語のようだ」と感じたのはそのためだ。説明のスタイルが異なる論証を読んで、日本語の論証スタイルと違うことに違和感を覚えたのだ。
ちなみに、渡邉教授によれば、この違いは、歴史教育と作文教育によって作られるという。「歴史をどのように教えるか」によって、その社会で、時間意識と物事の因果関係をどのように考えるかということが変わってくる。そして、作文教育によって、相手に「何をどのように伝えるか」を学ぶというのだ。
「結論から話す」という作法はアメリカでよく行われるものらしい。
ベンチャー企業の企業文化はアメリカから来ているものも多いというから「結論から話す」という作法も一緒に輸入されたのだろう。
異なる論理性を持つ人は馬鹿に見える
自分たちも使いこなせていない「結論から話す」という作法をことさら強調する人たちは一概に偉そうだった。彼らが「結論から話せていない」と周りにフィードバックするとき、その方法が唯一無二の正解であると自信が満ち溢れていた。
自分たちのやり方が唯一無二の正解だと思えると、他のやり方をしている人たちが馬鹿に見えてくる。「正解」がわからない、劣った人々だと思えてくる。
自分たちが先進的で優れた存在であり、違うやり方を用いる人々を後進的で劣った存在だと考える。
歴史を紐解くと、全く同じことをして、のちに非難された人々がいる。
”西洋人”だ。
覚えているだろうか。この連載でも、E・サイードの『オリエンタリズム』を取り扱った回で言及した。サイードは、「西洋」が絵画や物語や音楽といった芸術作品を通じて「東洋」を後進的で劣った存在として歴史的に取り扱って来たと論じた。
こういう「西洋のやり方が唯一無二の正解だ」と考える態度を「西洋中心主義」という。
この「西洋中心主義」に敢然と立ち向かった人がいる。
フランス出身の文化人類学者(民族学者)クロード・レヴィ=ストロース(1908年- 2009年)だ。
レヴィ=ストロースは、フランスの名門大学ソルボンヌ大学で、法学の学士号を取得しながら、哲学を学び、アグレガシオン(哲学教授資格試験)に合格した。合格後の教育実習の同期生には、モーリス・メルロー=ポンティ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールなど、のちにフランスの哲学界を席巻する、そして、今日僕たちが勉強する哲学史に名前が残るような有名人がいた。
教育実習を終えると、リセ(日本の高校に相当する)で哲学を教えていたのだが、ある日転機が訪れる。ブラジルのサンパウロ大学の社会学部教授のポストを打診されたのだ。かねてより、民族学に興味を抱いていたレヴィ=ストロースは先住民の調査ができるかもと思い、ブラジルに渡った。
現実はそう甘くなく、赴任中はサンパウロ近郊での調査や長期休暇の間の短い調査しかできなかったようだが、大学からの任期延長の話を断ると、1年間の長期調査旅行に出かけた。この成果はのちに『悲しき熱帯』という本にまとめられている。
彼がブラジルから帰ると、ヨーロッパではフランスとドイツの戦争が始まっていた。第二次世界大戦である。レヴィ=ストロースも召集され、戦地に送られた。国境地帯の要塞に着任したが、ドイツ軍は要塞地帯を迂回してパリを陥落させた。独仏の戦争はフランスの敗北で呆気なく終わった。
パリ陥落後、フランスでナチスに協力するヴィシー政府が擁立されるとユダヤ人であったレヴィ=ストロースはヨーロッパからの脱出を決意。フランス南部マルセイユからカリブ海の植民地マルティニークに向かう最後の船で辛くも出国し、ニューヨークに渡った。
『野生の思考』の衝撃
戦後、レヴィ=ストロースはフランスに帰って、博士号を取得。次々と業績をつくり、国立の特別高等教育機関コレージュ・ド・フランスの教授となる。
そして、書かれたのが『野生の思考』だった。
『野生の思考』にはいろいろな要素が入っているので、簡単に説明するのは難しいが、今回の記事の趣旨に合わせて掻い摘んでみよう。
当時のヨーロッパでは、“西洋人”は近代の科学的思考は世界を客観的に捉えており、伝統社会に生きる人々、当時の言い方で言えば“未開人”の思考方法は呪術的で世界を歪んで捉えていると考えていた。(ちなみに言うと、こんにちでは”未開人”という言葉は差別的なので使わない。)
例えば、“西洋人”は“未開人”にはトーテミズムがあると考えた。トーテミズムとはある人々が特定の動植物(トーテム)と特別な関係があると考える習慣のことだ。ある民族のうち、あるクラン(共通の先祖を持つと考える人々のグループ)はコウモリと特別な関係を持っていて、また別のクランはキバシリ(という鳥)と特別な関係を持っている、みたいなことがある。
レヴィ=ストロース以前の文化人類学者や宗教学者はこの習慣に幾つかの説明を与えた。例えば、トーテムを持つ人々は食事のタブーがあることがある。シカ・クランのメンバーはシカを食べない、といった具合に。なので、シカを獲り尽くしてしまわないように、タブーを設けたのではないか、と説明したり、あるいは、単にシカを先祖と考えているから、と説明したりしていた。
だが、レヴィ=ストロースは、そういった分析は“未開人”が論理的に思考できない、という前提に立って行われていると考えた。つまり、西洋人は「シカを獲り過ぎたら絶滅してしまうので、取りすぎない」という論理的思考が可能なのだが、“未開人”はそのように考えられないので「シカ・クランはシカを食べない」といったタブーを作り出すといった具合だ。あるいは、「人間とシカは進化的に遠い動物」という科学的事実より、「シカが先祖である」という神話を信じてしまうということでもあるだろう。
レヴィ=ストロースは「それは変だ」と思った。“未開人”は論理的思考ができないから、トーテムやタブーを持っているわけではない。“未開人”は”西洋人”と同じ能力を使って、違う方法で思考しているので、トーテムやタブーを持つのだ、と主張した。
“西洋人”は、思考するときに「概念」を用いる。「概念」とは、すでに整備された抽象的なものだ。ちょうど、屋敷を建設するために、同じ規格で切り出した大理石を使うように、目的に合わせて整形した素材や専用の道具を揃えて建設する。だけれども、“未開人”は具体的な事物を使って思考するのだという。こちらは、ありあわせの材料と道具で必要なものを作り出す日曜大工(ブリコラージュ)のようなものだ。
例えば、僕たちが今日、人間を分類するとき、どのようにするだろうか。マーケティングについて考えてみよう。
ある清涼飲料水を売ろうとするときはこう考える「10代から20代の若者が買うような製品を作ろう」。ビールを売るときは「40代から50代のサラリーマンが仕事帰りに飲みたくなるような製品にしよう」といった具合だ。
この時、僕たちは、まず抽象的な人間を想定して、そこに当てはまっていく人間のグループを作り出すという作業をする。これが“西洋人”のやり方だ。
これに対し、“未開人”は異なったアプローチをする。まず、クランのような現実に存在する実際の人間集団がある。そして、また別のクランがあったりする。このすでに存在する別々の人間集団を区別しようとするとき、抽象的に切り出した「概念」ではなく、すでに存在する別の存在を使う。
さきほど出した例を呼び戻そう。
コウモリと特別な関係を持つコウモリ・クランとキバシリと特別な関係を持つ、キバシリ・クランだ。レヴィ=ストロース以前の研究者は、コウモリとコウモリ・クランの関係ないし、キバシリとキバシリ・クランの関係について考えてきた。
だが、レヴィ=ストロースはこう考えてみた。
彼らは、コウモリを「狩りをする動物」であり、キバシリを「盗みをする動物」だと考えているらしい。すると、コウモリとキバシリは狩人/盗人という関係になる。そういうキャラクターを持っているということだ。なので、彼らはクランを区別するときに、狩りをする人々と盗みをする人々というようにそれぞれの人々のキャラクターを振り分け、それぞれをコウモリ・クラン、つまり「コウモリのように狩りをする人々」とキバシリ・クラン、つまり「キバシリのように盗賊的な人々」と比喩を用いて呼ぶようになった。
従って、コウモリ・クランの人たちは、コウモリとコウモリ・クランという全く関係ない存在同士を繋がりがあるものと考える呪術的思考を持っているわけではない。
大事なのは、コウモリとキバシリの関係と、コウモリ・クランとキバシリ・クランの関係なのだ。すでに存在する動物の違いを利用して、比喩の対応関係を生み出すことで、人間のカテゴリーを表現しているわけだ。
言い換えると、このようにクラン同士の関係を動物という具体的な事物を使って表現しているのだ。
つまり、レヴィ=ストロースの説明でいくと、トーテミズムという習慣は存在しない。「ある人々が特定の動植物(トーテム)と特別な関係があると考える習慣」は“西洋人”がそのように勝手に分析しただけで、“未開人”がそのような習慣を持っていたわけでない。トーテムとは、具体的なものを使って、分類を作り、世界を把握しようとする思考法の結果生み出されたものなのだ。レヴィ=ストロースはこのようなやり方で世界を把握する方法を「具体の科学」と呼び、具体の科学を使いこなす思考法を「野生の思考」と名づけた。
これに対して、いわゆる「科学的思考法」と呼ばれるような目的のために材料や道具を揃えて、つまり、あらかじめ整えられた抽象的枠組みや記号体系を用いて世界を把握する近代の思考法を「栽培された思考」と呼んだ。
これは、人間が野生のイノシシを家畜化してブタとして飼育したり、野生のイネ科の植物を品種改良して、小麦や米を栽培できるようになったりしたように、人間は歴史のなかで「野生の思考」を特定の目的のために作り替えて「栽培された思考」をするようになったと言うわけだ。
注意したいのは、レヴィ=ストロースは「栽培された思考」は「野生の思考」より品種改良されている分、優れていると主張しているわけでないということだ。むしろ、ここで彼が説明しているのは、両者が等しく「論理的・科学的」であるということであり、「野生の思考」は科学的思考の“未熟形”ではなく、別個の論理様式として完結しているということなのだ。
抽象的にあらかじめ体系化された「概念」からアプローチしていく「栽培された思考」と具体的な事物から比喩を通してアプローチしていく「野生の思考」は、やり方が違うだけで、等しく「論理的・科学的」に世界を明らかにしようとする思考法というわけだ。
付け加えると、僕たちの社会で、「野生の思考」が死滅したわけでもない。僕たちは場合によって、比喩を通して世界を考えたりする。
西洋中心主義との対決
紙面の都合で「野生の思考」についての説明はちょっと大雑把になってしまったが、大事なのは、レヴィ=ストロースが「野生の思考」と”西洋人”が持つ科学的思考は、等しく論理的であり、別個の思考モードなので、両者は上下・優劣の関係になく、人間に普遍的な論理性の異なる表現であると論じ、西洋中心的進歩史観を根底から揺さぶったという点だ。
これは、『野生の思考』が出版された1963年には大問題だった。
当時、フランスの知識人として大看板を張っていたのは、ジャン=ポール・サルトルという哲学者だ。彼は実存主義とよばれる哲学を基盤に考えていた。実存主義とは、人間の現実存在(いま、ここにある人間のあり方)を事物の存在と区別して、その独自性を重視する考え方だ。そして、人間が画一化・平均化されがちな社会において、人間が本来持っている主体性や本質的なあり方を回復しようと考えていた。
サルトルは、それまでの西洋哲学の歴史を踏まえ、歴史は弁証法的に進歩すると考えた。弁証法についての説明は別項に譲るので、今回は大まかに「歴史は進歩する」と考えていたと便宜的に捉えておいてもらいたい。
歴史は、“未開”社会からだんだんと進歩し、西洋近代文明に到達し、さらにその先の「正解」に向かっていくと考えていたわけだ。サルトルは、その歴史に自らの意思で参画すること(アンガージュマン)で、人間が持っている自由と主体性を回復できると考えていたようだ。人間が自由意志を持って選択をすることで、歴史を突き動かすというわけだ。
『野生の思考』はそこに待ったをかけた。
レヴィ=ストロースは、「未開社会」の思考が現代社会より劣るという社会進化論的偏見を退けた。これまで見て来たように、人間の知性はどの文化にも普遍的だ。“未開人”の思考つまり、「具体の科学」にも高度な知的操作が含まれている。
人間の思考は、”西洋人”でなくとも世界を分類・秩序化する構造をもつ。例えば、トーテミズムでは、動植物など身近な自然種を比喩によって社会集団と対応させ、自然界と人間界を巧みに結びつけているように。なので、“未開”社会の思考も複雑な分類体系を備えており、西洋の科学的分類と形式は異なるものの同等に論理的であるわけだ。
レヴィ=ストロースは言う。そもそも、人間の思考や行動は個人に先立つ社会構造によって規定されている。完全に自由な主体など存在しない。おまけに、歴史は常に一方向に進歩するとは限らないし、近代国家から自給自足社会まで多様な文化が並存する以上、人類の歩みを単一の尺度で測れるわけではない。
そして、サルトルに対する死刑宣告のように残酷な論評をする。
サルトルが「歴史は正解に向かって進歩する」と考えていたのは、彼の世界観が「閉じられた世界」に特有の狭隘さを示している、つまり、「自分が正しいという根拠のない神話」に引きこもっていると指摘したのだ。そして、「サルトルの哲学には野生の思考のあらゆる特徴が見出される。したがってサルトルに野生の思考を評価する資格はない」と断じた。つまり、サルトルの思考はサルトルが思っているより特権的な場所にあるわけではない。僕たちはだれだって、自分が生まれ育った社会の思考法で思考している。その思考法から逃れるのは難しい。“西洋人”だって、“西洋人”の思考法をやっているにすぎない。それにもかかわらず“西洋人”が“未開人”を「神話を信じている」とバカにしているように、サルトルだってサルトルの神話から勝手に話をしていると見破ったのだ。そのようなサルトルや“西洋人”たちに他の思考法を「劣っている」とか「怠惰だ」と評価する資格はない。
サルトルの敗北と〇〇中心主義の死
『野生の思考』や他の著書でのサルトル批判を通じて、レヴィ=ストロースは近代西洋の自己中心的な前提、つまり、“文明人”は“未開人”より優れているという思い込みを暴いた。そして、新しい思想の立場から西洋文明に内在する偏見を明らかにした。
レヴィ=ストロースが切り開いた思想的立場を構造主義というが、今回の原稿では「構造とはなにか」とう話も見送った。レヴィ=ストロースを取り上げて「構造」の話をしないのは、東京タワーに行って、展望台に上がらずに帰ってくるようなものだが、今回は勘弁いただきたい。
なんにせよ、レヴィ=ストロースが「人間の思考」の普遍性、つまり、一見「非論理的・呪術的」に見える思考法も実は、全く異なった体系の「論理的・科学的」思考法であると看破したことで、西洋や近代の特権性は失われた。
その後、サルトルと実存主義哲学の影響は小さくなり、変わって構造主義が思想界の中心に躍り出た。そのことで、思考方法や論理性の違いは、文化や社会によって異なっており、どれが優れており、どれが劣っているというより、その社会社会に独特のやり方があるという考えが強力になった。
思うに、レヴィ=ストロースの議論が終わらせたのは、西洋中心主義だけではない。なにか中心があり、中心に位置するものが優れているという考え方のフレームそのものがおしまいになった。
「結論が先」もアメリカの歴史教育と作文教育という固有の社会的文脈で培われたものだし、アメリカを中心とするビジネス慣習において、それが良いとされたに過ぎない。同じような文化で育った人同士ならば、その方が簡便でわかりやすいに決まっているからだ。
もしそうならば、実は「結論が先」のような作法を、何か客観的な優位性を持つ特別な方法だと考えることこそが実は全く非論理的な思考法だと言える。特に根拠もなく、(あるいはその根拠は閉じた世界で通用する「限定的な真理」にすぎないにもかかわらず、)その作法の特権性を信じているのは、一つの信仰にすぎない。
何かを無謬の「正解」だと考えるとき、ふと立ち止まって、その根拠を問う必要がある。
編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP
室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)
1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。
連載一覧
- 第1回 僕がプレゼントした花束が潜在的なゴミだった理由と『贈与論』
- 第2回 キューバの思い出とオリエンタリズム
- 第3回 本当は正しいマッチングアプリの使い方と『価値があるとはどのようなことか?』
- 第4回 ハイカルチャーインテリとディスタンクシオン
- 第5回 選挙をめぐるあれこれと『近代人の自由と古代人の自由』
- 第6回 凶のおみくじと『自省録』
- 第7回 AIに生成された僕と『ソクラテスの弁明』
- 第8回 「人間」であることと『女らしさの神話』
- 第9回 『ヨブ記』とその昔赤ちゃんだった人々
- 第10回 失敗した焼き芋屋の屋台と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
- 第11回 結論ファーストと『野生の思考』