普段着としての名著【第12回】労働のツラさと『人間の条件』|室越龍之介

人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!

【第12回】労働のツラさと『人間の条件』

なぜ労働はツラいのか

ある人に「あなたは楽しそうに働きに行く」と非難めいて言われたことがある。

当時僕は31歳にして、基礎自治体の嘱託職員として初めての就職をしたところだった。ラグビーワールドカップの開催を控え、英語とスペイン語と二つの言語を話せるというので通訳として採用された。ただ、僕の英語は野良の英語であって、あまり褒められたものではない。大学のゼミで英語の本を読むのに使っていただけで、言語教育をちゃんと受けたわけではない。スペイン語の方は多少言語教育を受けたが、どちらかというとやはり野良で覚えた。どちらも本寸法の通訳と比べると生半可であったが、二つ喋れるというのはやはり便利だと思われたのかもしれない。

語学が半人前であるのに加え、役所の同じ部署にはちゃんとした英語の通訳の方がいたし、部署の若手は外大を出ていたり、海外との職員交流で英語研究を受けてきたりした人たちばかりだった。つまり、半分ぐらいの人たちは英語を話せたのだ。そのような環境では、通訳の仕事はほとんどない。なので、ほとんどの時間を一般職員と同じような業務に従事して過ごした。

業務は色々あった。

外国のラグビー協会とのやりとりやそれを踏まえたチームの受け入れ。ワールドカップ委員会から来るナショナルチームを受け入れるための練習設備や宿泊施設の視察のアテンド。開催期間中に、自治体所有の施設でのイベントの設計や段取り。ラグビーワールドカップを盛り上げるための前哨戦の開催や関連イベントの仕切り。

僕は割と忙しく過ごしていた。

30歳を過ぎてからの就職をする僕が周りとのギャップに焦りを感じたり、気ままな自由生活から定刻に縛られる生活への転換でフラストレーションを抱えたりしていると予想していた周りの人々は、僕があまり辛そうにしないので不思議に思ったようだった。

「労働はツラい」はずなのに、つねに機嫌よさそうにしている。その不思議さが「あなたは楽しそうに働きに行く」とのコメントになったのではないか。

「労働」は確かにツラいかもしれない。

僕もそう思う。

先の見えない意味不明な指示。作ったところで誰もチェックしない書類。特にロジックなく棄却される企画書。リスペクトされない指揮系統…。

まったくの不合理のように僕には思えた。それまで「人間は合理的で理性をもつ生き物だ」と教えられてきたし、なんとなく、それをそのまま受け取ってきたのに、この不合理。

合理性を支える理性はいったいどこに行ってしまったのか?

近世以降、啓蒙思想家たちが諸手を挙げて礼賛したハズの「人間の理性」とはなんだったのか…。

我々はどこからきて、どこへ向かうのか。

何もわからずに、暗闇の中で放り出され、行先も示されなければ、やはり人間は苦しみを受けるだろう。

箱庭を作る

では、なぜ僕はあまりストレスを受けていなかったのか。

一つには嘱託職員であったからであろう。契約は1年しかない。どんなに辛くても1年の我慢であると考えると大抵は乗り切れる。(ローンを組んだので、30年の我慢であるなどと思うとやはり辛かろうと思う。)

もう一つの理由は、文化人類学を学んでいたからだろう。大学院を出て、就職してから数ヶ月して、僕はかつてフィールドワークを教えてもらった先生に会いに行った。僕は職場での不満を先生に諸々と話した。先生はそれを聞くと「フィールドワークと思えばいいよ。ノートを取りなさい。1年後には財産になる」と返事をした。僕はなるほどと思った。

職場をフィールドと思い、ノートを取る。不思議とそれだけで、ストレスは軽減された。何か不合理なことが起きても、それを記述し、分析を試みるだけで、現象と距離が取れた。しかも、日常が「人間について考える」という僕のライフワークと接続したことで、どのような業務も面白く思うようになった。

職場を楽しむようになったのである。

これはあたかも現実の世界に「箱庭」を作るようなものだ。箱庭で業務をする自分とそれを観察する自分。二つの自分を作って、思考を進める。この作業はそれまでの10年間で訓練し、実践し続けたことでもあったわけだ。

面白いことに、人類学を修めてから就職した何人かの友人も同じことをしていたらしい。

職場に馴染めず、つねにノートをとって、あいさつの回数やコミュニケーションされる内容を記述していくうちに、だんだんと職場に慣れていったという。

ある種の辛さを飼い慣らす、小さな秘訣かもしれない。

さて、僕や僕の友人たちがハッピーピープルなのは良いとしても、この話にはやはり看過できないポイントがある。それは「働くことはツラいことである」という社会通念だ。

ビジネス書を紐解けば、ポジティブにいる方法やトラブルをチャンスと捉えるようなマインドの切り替えがしきりに講じられている。これは裏返して見れば、みんな「働くのがツラい」ということだろう。

この「働くことのツラさ」について、思わぬ角度からアドバイスをくれる本がある。

ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントの『人間の条件』だ。

ハンナ・アーレントと全体主義

ハンナ・アーレントはドイツのユダヤ人家庭に生まれた。

大学では、『存在と時間』を著したマルティン・ハイデッガーに師事し、哲学に没頭。しかし、当時のドイツではナチズムが台頭してきていた。アーレントは、まずフランスに亡命。フランスが対独戦に敗れて降伏するとアメリカに亡命した。その後、10年もの無国籍期間を経て、アメリカに帰化したのちは各地の大学で哲学を教えた。

前回で扱ったレヴィ=ストロースもそうだったように、多くのユダヤ人が国を追われてアメリカに亡命したのだ。

レヴィ=ストロースが伝統社会を研究していくなかで「西洋中心主義」と戦ったように、アーレントは哲学の歴史を振り返っていくことで、祖国を滅ぼした政治的な現象、「全体主義」と戦うことになる。

さて、「全体主義」とはなんだろうか。

簡単に言ってしまえば、ヒトラーによって率いられたナチズムやスターリンによって率いられたスターリニズムのように、国家や集団の利益を絶対的に優先し、個人の権利や自由を制限して、すべてのものを国家管理しようとする政治体制のことだ。しばしば、個人ないし一党独裁の政治体制を伴う。だが、アーレントはこの全体主義が、これまで歴史的に登場してきた暴政や独裁といった既存の政治的抑圧とは本質的に異なる「恐るべき独創性」をもつ現象だと考えた。

全体主義の政府は国民の生活の何から何までコントロールする「全面的支配」と同時に世界規模での覇権、つまりグローバルな支配という二重の支配を追求するという。その時に使われるのがイデオロギー(主義・思想)とテロル(恐怖支配)だ。ここでの、イデオロギーとは、擬似科学的な世界観によって現実のあらゆる事象を単一の法則へと還元し全てを説明できると主張するような考え方や政治的な運動のことだ。

例えば、ナチスは「科学的に」アーリア人種(北欧・ドイツ的な白人)が優れており、その他の人種を支配すべきと考えていた。その対極として、ドイツで起きるあらゆる問題の原因は「ユダヤ人」だと考えていたわけだ。だって、優秀なはずのアーリア人が支配するドイツが社会問題を抱えるなんてありえないからだ。「誰かが悪さをしているから、こんなに問題が山積している!」と考え、その原因をユダヤ人に押し付ける。

一般的な社会科学的見地から言えば、当時ドイツが抱えていた諸問題は複合的な原因を持つし、そのうち、もっとも大きな原因は第一次世界大戦での敗戦だっただろう。だが、もし敗戦が諸問題の原因と考えてしまえば「アーリア人が世界で最も優れている」という「科学的」見解に疑義が生じることになる。

そのような本当の問題の原因に辿り着かないようにすると、原因を「ユダヤ人」のせいにしてしまうという認知的な操作が行われてしまう。このような認知操作を正当化したり、そもそも認知が歪んでいたりすることに気が付かせないようにする仕組みをここでは、イデオロギーと呼んでいるわけだ。

そして、現実には違う現象を無理やりイデオロギーに当てはめようとするときに用いられるのがテロル(恐怖)となる。

普通に考えれば、それほど認知が歪んでいれば、それに対して異議を唱えたり、対抗したりする人がでてくる。端的に言えば、テロルとはそういった人たちを暴力によって押さえつけるということだ。ナチズムが台頭してくるドイツにも、白バラ抵抗運動で知られるような、学生や知識人の抵抗もあったし、ボンヘッファー牧師のような宗教者も抵抗していた。

そのような現実を直視して真実を述べる人たちを同じように殺したり、恐怖で沈黙させたりすることで、間違った現実をイデオロギーに即した現実に書き換えていく。

そのうえ、暴力を用いて、実際にユダヤ人の財産を奪ったり、自由を奪ったり、生命を奪ったりすることで、実際に「アーリア人は優れており、すべての原因はユダヤ人にある」という頭の中にしかないイメージを目の前で見せていくことで、人々にイデオロギーを信じさせていく。

これこそが全体主義なのだという。

アーレントは、その主著『全体主義の起源』のなかで、全体主義がどのように生まれたかメカニズムを分析した。そして、その後に発表されたのが『人間の条件』なのである。

『人間の条件』と世界疎外

では、さっそく『人間の条件』に入っていこう。僕のざっくりとした理解なのだが、本書が示す人間を人間たらしめるもの、とは「思考し続ける」ことなのではないかと思う。

この観点で本書を掻い摘んで見てみよう。

アーレントは近代社会の人間は、世界そのものから外れてしまって孤独な状態になっていると考えた。これを「世界疎外 (world alienation)」という。

理由は色々あると思うのだが、アーレントは三つの理由を挙げている。

一つは、近代大航海による世界の拡大(アメリカ大陸の発見)。

そして、宗教改革とそれに伴う世俗財産の蓄積(資本主義の胎動)。

最後に、科学革命(特にガリレオの望遠鏡発明と地動説の確立)。

これらの出来事はいずれも人類にとって予想外の新境地を切り拓いたものの、いずれの事実も人間を従来の拠り所だった世界観から切り離したという。人間にとって、「世界に対する距離」が生じてしまったわけだ。

例えば、大航海時代、人間は自らの住む狭い共同体を超えて地球全体を意識する存在となり、自分の属する場所への愛着より「地球の上の人類」としての抽象的視点を持ち始めたし、宗教改革以降、人々は土地や共同体から切り離され、貨幣経済の中で流動的な個人つまり、財産を蓄積し移転できる存在にもなった。

さらに科学革命では、ガリレオが望遠鏡を用いて天動説という常識を覆し、人間は初めて「宇宙から見た地球」の視点を手に入れた。その結果、人類は地球を科学的対象として捉えることができるようになったが、一方で自分たちが日々生活する土地を親密な家と感じることができなくなってしまった。

つまり、科学技術で自然を支配する力を得る一方で、「自分たちが安心して共通の世界と感じられる場所」が揺らいでしまうことになったわけだ。

かつて共有していた確固たる世界を近代において人類は失ってしまったのだ。

この世界疎外の傾向は、哲学や社会の在り方にも現れることになる。

デカルト以降の近代思想は確実な拠り所を外界ではなく自我の内面に求めることになった。それにより、みんなが持っていた共通の常識 (common sense) も世界についての共有感覚というより各人の主観的判断力の問題と捉えられるようになった。

例えば、「町内会のゴミ捨て場を綺麗に使う」みたいなルールがあったとして、以前は疑うことのできない当たり前のことだった。だが、今では個人個人それぞれの判断でゴミを捨てるなかで、合理的に考えてゴミ捨て場を綺麗に使う判断をする人もいるし、あまり考えずに汚く使う判断をする人もいるといった状態に変化してしまった。

つまり、人々はもはや皆で同じ世界を見ているというより、それぞれの心に閉じこもっているとアーレントは考えた。

実は、この意識変化と並行して、人間社会に大きな変化が起きていたとアーレントはいう。

人間の生活はもともと二つの領域で構成されていた。

公的領域と私的領域だ。

ギリシア人の社会を例にとって考えてみよう。

僕たちが学校で習うのは、ギリシア人は民主制を導入した自由で平等な社会だったということだ。だが、アーレントは、それは公的領域に参加できる家長にのみ許されていたことだという。ギリシア人にとって、私的な領域とは、家族を養うための家政の場であって、衣食住や生殖といった生存に必要な行為を行う自由のない場所だった。

それに対して、公的領域では、自由市民たちが対等な立場で集い、言葉と行為によって政治に参加することになる。日常的な必要から解放された人々が、共同体の重要課題を議論し決定を下す。そこでは他者に自らを示すことで人格的な栄誉を得る機会があり、したがって古代においては公的領域での活動こそ人間本来の崇高な営みと見なされたわけだ。

アーレントは近代において第三の領域、つまり、「社会的領域」が台頭し、公私の区別が曖昧になったという。近代国家では、経済的・生物学的な生活維持の問題といった、本来は各家庭内の私事が「社会問題」として公衆化し、国家がそれを管理・調整するようになっていった。

例えば、所得や雇用、公共衛生や人口管理といったテーマは、市民全員の生存に関わるため公的議題でありえるのだが、同時に国家が各人の私生活に踏み込むことでもあり、伝統的な意味での自主的な公的領域、すなわち、自由に議論し行動する政治空間を侵食するものとなるわけだ。

活動的生活と考え続けること

僕たちの一般的感覚からだと、社会的領域が公的領域と私的領域を小さくしてしまうことの何が問題なのか、よくわからないのではないだろうか。

別に、国家が僕らの生存を保証してくれるのは、人道的でサイコーのことでないかと。

社会的領域の肥大化の何がまずいかを説明するには、さらにややこしい概念を導入する必要があるので、少しお付き合いいただきたい。

アーレントは、まず、人間の生活を観照的生活と活動的生活の二つに分類した。

便宜的に、観照的生活とは、哲学者や宗教者が行うような、念的・抽象的思索に耽るという生き方と考えてもらいたい。もう一つの活動的生活は現実的・具体的に行動をするという生き方と考えてみよう。

そして、活動的生活の中には、さらに三つの行動様式が存在するとアーレントは分類する。

一つは、労働(labor)だ。気をつけたいのは、アーレントのいう「労働」は一般的に僕たちが使う言葉と意味が絶妙に違う点だ。

アーレントは、労働とは生きるために行う日常の反復行動だという。古くは(もしくは今でも?)女性と奴隷によって担われているような生命維持のための営みであって、労働は人間が生き物であるということから必然的に人間に課された活動となる。食べ物を作ったり、生殖をしたり、家事をしたりといった労働の対価として人間が得るのは生存だ。

だが、労働とは違い生存に必ずしも関係しない活動もある。

それが、仕事(work)だ。

アーレントのいう仕事も、僕たちの使う普通の言葉としての「仕事」とは少し異なる。仕事とは、世界と応答するために、何か世界を作りだすような創造的な行為とされている。労働では食べ物や衣服といった生命維持のための消耗品を作るのに対し、仕事では、道具や建物、芸術作品、社会制度など比較的長持ちする人工物を生産する。そして、そうやって生み出したモノや制度によって、人間の世界に秩序や永続性を持ち込むわけだ。なので、人間は仕事の対価として、世界性(worldliness)を得る。つまり、僕たちは僕たちの仕事を通して、僕たちの住む世界がどんなところであるかを把握することができるというわけだ。

最後に、残ったのが活動(action)だ。

活動はちょっとわかりにくいかもしれない。衣食を生み出す労働や長続きするモノや制度を作り出す仕事は成果物がわかりやすい。

活動とは、「人間が人間と関係する」ことだ。僕たちはただ食べ、ただ生み出されたモノをつかって生きているわけではない。必ず他人と話し、行動し、一緒に過ごす。人が唯一無二の人格として「誰であるか」を他者に明かしうるのは、この活動を通じてのみとなる。活動は他の二つの行動様式にはない前提がある。つまり、世界には他者が存在するということだ。

例えば政治的な討論で自分の意見を述べ行動するとき、僕たちは意見表明によって何か対価を得たいというより、もっと純粋に自分自身の人格・信念・創意を世界に示すことになる。アーレントによれば、この「語ることと言動をもって自己を開示する」という行為こそ本質的に唯一無二の行為であり、人間だけが持つ能力なのだという。

僕たちのいういわゆる「政治」はこの活動(action)に属する行為となる。

そして、それは「人間と人間が関係する」場所、つまり公的領域で行われていた。

社会的領域が大きくなって、しかも、それが私的領域の関心事、つまり「労働」がもたらす生存ばかりを注意して取り扱うようになると、本来「政治」が取り扱うような公的な問題がうまく扱えなくなるというのだ。

これこそが大問題なのだ。

活動では自分が「誰であるのか」という言明を通して、他者と折衝していく。そこでは、世界(自分たちの住む社会)を形作ったり、形作られた不都合な世界に抵抗をしたりすることができる。

だけれども、自分の心に引きこもり、自分の生存だけを最大の関心事として、「社会的なるもの」に取り込まれてしまうと、自分以外の人々に対する想像力や実在感がなくなってしまう。

つまり、まとめるとこうだ。

近代社会において、人間は世界を自分と切り離した対象と考えられるようになったことで、却って世界から孤立して、自分の心の中に引き篭もる存在となってしまった。同じくして、別の変化も起きた。もともと人々の自己表現を通して社会を形作っていた政治的な空間、つまり、言論を戦わせる空間が存在していた。だが、生存を管理する空間が拡大したことによってこの政治的空間が縮小してしまった。

その結果、他者と共存したり、他者との問題を折衝して解決したりすることができずに、想像力に頼ってイデオロギーベースで判断してしまうようになった結果、全体主義に流されることになってしまった。

アーレントは、人々の活動と言論を再活性化させるキーとして、「思想(thought)」と「思考(thinking)」を示す。

僕たちは、自分が何者かを示すために、考え、言明しなければならず、それはイデオロギーがなくても、自分の活動的生活の中から生み出しうるということなのではないだろうか。

公的空間と活動を作る

さて、冒頭の問いに戻ろう。

なぜ、労働がツラいのだろうか。

アーレントの議論を引けば明瞭だ。

無目的だからだ。

労働は生きるためにする行為だが、生きることが自己目的化しているのだから、結局は労働するために労働する羽目になる。

これは生存を支える労働そのものが悪い、ということでは決してない。生存のための労働が苦痛に感じるのであれば、それは、人間としての本来やるべきことができない状態になっており、何かに支配されているのではないか。

このように考えると、僕が職場をフィールドと考えていたのは、労働を仕事に変えるような仕草だ。自分の集めたデータを使い、「世界はこのようではないか」と考え、記述するスペースを作ることができる。

だが、より大切なのは、「職場をフィールドと考えたらよい」と助言してくれる先生と同じように考える人類学者たちがいるということだったのではないかと思う。

自分で考えたことはさらに先生や他の人類学者たちに話すことができる。それは仕事をとおして、活動につながっていくようなことだ。

もっと言えば、実は職場の人々も他者なのである。

新参者として、組織にうまく馴染めなかったので、ウジウジしてはいるのだが、実は人々の中で言明し、働きかけていくことで、世界を変えていく可能性も、今思えばあったのである。

近代に生きる僕たちは、イデオロギーにとても影響されている。

目の前の他者を見ずに、SNSで流れてくるイメージに影響され、人生のツラさを的外れな原因に求めているかもしれない。

よく見て、よく聞き、考えること。

それは、日々の生活のなか、業務のなかでもできるのではないか。

祖国を全体主義に破壊された哲学者の洞察と比べるとあまりにも瑣末な言葉だが、そのように思うのである。

編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP

室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)

1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。

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