いまいる場所になじむことができず、不安やとまどいを感じると、心やすまる居心地のいい家に帰りたくなる。
自分を守ってくれる温もりあふれる人と空間を誰もが必要としているのだ。
わたしが綴る言葉たちが、あなたのあたたかい避難場所となり、心と体がゆっくり休まりますように。――クォン・ラビン
【第4回】「緊急連絡先を書いてください」
ある男の物語
とある壁の片隅に、ある男が書いた文を見つけた。それを読んで、涙が止まらなかった。
「父さんと僕を置いて母さんが家を出た日。僕はその日、母さんが去ってしまうと気づいていた。一生懸命寝たふりをして、母さんがいなくなった後、声を殺して泣いたんだ。涙を流しながらためらう母さんを引き留めなかったのは、自分の人生を生きてほしいと思ったから。幸せになってほしかったから。軍隊生活を送る僕に、母さんは手紙を送ってくれたね。たまらなく会いたくなって電話をすると、母さんは『誰ですか』と尋ねて沈黙し、しばらくしてから僕の名前を呼んだ。あの時、僕は声を出さずに泣いていたんだ。何も言えないまま電話を切ってしまったけど、僕を忘れずにいてくれて、ありがとう。僕は今、とてもつらい日々を生きていて、母さんにすごく会いたい。母さん、母さん。母さんに会いたい」
すっかり大人になった男が、「母さんに会いたい」と綴る文。それは、わたしの文章に驚くほど似ていた。
思わずペンを手に取り、その下に書き加えた。
「母さんも息子に会いたい。ごめんね」
その男は母親に再会できたのだろうか。
表現
表現できないことと、表現しないこと。それはまったく別の問題だ。
「緊急連絡先を書いてください」
ひとり暮らしが10年近くになると、家族との関係もだんだん希薄になっていく。一番近く、もっとも愛すべき存在であるにもかかわらず、一番遠く、もっともややこしいのが家族だ。愛するがゆえに言いたいことをぐっと飲みこみ、わたしの心はどんどん固く閉じていく。
新しい職場に入社した時や、病院に入院したり手術を受ける時に、必ず言われる「緊急連絡先を書いてください」という一言が、わたしをじりじり追い詰める。
緊急連絡先に記す人がいないのだ。
友だちや恋人の名前を書いても、その人たちは本当の保護者ではない。そんな事実が、わたしを孤独の底に突き落とす。
わたしの保護者はわたし。
そんなわたしはどうしたらいいのか。
(イラスト チョンオ)
著者プロフィール
クォン・ラビン
1994年、韓国生まれ。9歳のときに両親が離婚。そのことがきっかけで、世間では「あたりまえ」と思われている多くのことに疑問を持ちはじめる。2020年、自分と同じような思いを抱える読者に寄りそう言葉を届けたいと、デビュー作となる『家にいるのに家に帰りたい』(&books/辰巳出版)を刊行。
永遠なる紫の月——あなたはきっと、わたしとこの言葉たちが好きになる。
Instagram桑畑優香
翻訳家、ライター。早稲田大学第一文学部卒業。延世大学語学堂、ソウル大学政治学科で学ぶ。「ニュースステーション」のディレクターを経てフリーに。多くの媒体に韓国エンターテインメント関連記事を寄稿。主な翻訳書に『BTSを読む』(柏書房)、『BTSとARMY』(イースト・プレス)、『BTSオン・ザ・ロード』(玄光社)、『家にいるのに家に帰りたい』『それぞれのうしろ姿』(&books/辰巳出版)ほか多数。
連載一覧
- 第1回 幸せになれる魔法の呪文
- 第2回 「だいじょうぶ」が「本当にだいじょうぶ」になるまで
- 第3回 幸せになるための7つの方法
- 第4回 緊急連絡先を書いてください
- 第5回 あなたの記憶
- 第6回 わたしへ
- 第7回 不幸と別れから逃げられるなら
- 第8回 あなたは海、宇宙、あるいはそれ以上
- 第9回 時間を歩く