新聞記者として働き、違和感を覚えながらも男社会に溶け込もうと努力してきた日々。でも、それは本当に正しいことだったのだろうか?
現場取材やこれまでの体験などで感じたことを、「ジェンダー」というフィルターを通して綴っていく本連載。読むことで、皆さんの心の中にもある“モヤモヤ”が少しでも晴れていってくれることを願っています。
【第6回】“何かになること”を押しつけられない社会へ
知らなかった。これほど楽しい世界があったなんて……!
というと大げさだが、映画のカーアクションで、生まれて初めて興奮した。
うわあ、ちょっとなにこれ!!
思わず映画館の座席から身を乗り出し、声が漏れそうになった。
40代半ばにして初の体験である。そしてはたと気づいた。
アクション映画が面白いのは、主演俳優に自分を重ねて感情移入できるからなんだ。
あれ、もしかして人生損してきたのかな……一抹の寂しさに襲われた。
ゾンビ映画に大興奮できたわけ
それは、韓国映画『新感染半島 ファイナル・ステージ』(2021年1月日本公開)を鑑賞したときのこと。
舞台は近未来の朝鮮半島。謎のウイルスが感染爆発し、感染者が凶暴化=ゾンビになっている設定だ。半島は封鎖され、外界と断絶。数少ない生き残りの人間(未感染者)が大量のゾンビから身をひそめるように暮らしている。
私が大興奮したのは、廃棄と化したソウルの街で、中学生くらいの少女が四輪駆動車をドリフトさせる場面だった。驚異の運転テクニックでゾンビ集団を次々となぎ倒す。車には幼い妹も乗っていて、姉に劣らず大活躍する。ゾンビは音と光に過剰反応するため、妹はぴかぴか光るラジコンカーを操作し、襲いかかってくるゾンビのおとりにして気をそらす。
身近にいそうな平凡な姉妹。それなのに、かっこよすぎるよ……!! 私の気持ちは、女の子に完全に同化していた。
そうか、今までのアクション映画は主人公がマッチョ男性だから感情移入できなかったのか。たまにヒロインもいるが、たいていは一般人とは程遠い(『マッドマックス 怒りのデス・ロード』しかり……)。
いちおう主人公は「ゾンビだらけの危険な半島に潜入する元軍人の若い男性」に設定されている。しかし勝手な主観でいうと、彼は物語を進めるための狂言回し。
それよりも、主人公が出会う「女・子ども・老人」が大活躍する。
姉妹は母親と、同居人の元老兵(血縁ではないが、この人も半島に取り残されちゃった設定)と暮らす。弱者のはずが、弱くない。母はゾンビに銃をぶっ放し、老兵は物語を大団円に導く重要な役割を果たす。
「マッチョな若い男」が「女・子ども・老人を守る」というアクション映画の王道があるとすれば、その逆張りにすら思えた。
それどころか、「マッチョな男」は、むしろ醜悪に描かれる。作中には、大量の兵器を蓄える民兵の軍団が登場する。筋肉ムキムキで粗暴なだけではなく、ゾンビを捕らえ、残虐にいたぶる遊びに興じたりもする。これじゃ人間のが怖いじゃん……とゲンナリするほどだ。
創作物は、人間の思考に影響を及ぼす
もともとゾンビ映画は苦手。フェミニズム書店を経営する友人に「むちゃくちゃ面白いから!」と勧められなければ絶対に見なかった。
映画の宣伝文句は「世界の閉塞感を打ち破れ!」。まさに自分の中の閉塞感を打ち破ってくれたことを思うと、今でもうっかり涙しそうになる。ちなみに、映画を見た人(男性)に感想を聞いたが、「なんで興奮するのか分からない」とキョトン顔。ネットで鑑賞コメントを読みあさったが自分と同じような感想は見つけられなかった……。
それはともかく、多くの男性は、娯楽作品のアクションシーンを自然に楽しんできたはずだ。もちろんそんな人だけではないと思うが、自分に限っていえば、『ミッション:インポッシブル』シリーズのようなハリウッドのアクション映画にせよ、カンフー映画にせよ、あまりに性別と肉体が違いすぎて感情移入できないのが常だった。マッチョな男性が主人公だと、生理的に「どうせ自分と違う」と頭の中でシャットダウンしてしまう。
映画に限らない。創作の世界はたいがいどこかに現実を反映している。一方で、創作物は現実に生きる人間の思考回路に影響をもたらす。
特に、子ども時代に触れる創作物は重要だと感じる。やわらかな心に、男尊女卑や家父長制思想が根底に流れる「女らしさ」「男らしさ」の思想が刷り込まれていくからだ。
性別や時代、地域を超えて共感できる創作物はたくさんある。でも、女の子や女性が活躍する作品がもっとあれば、女の子たちはもっと豊かな将来像を描けるんじゃないか。
なんで日本の昔話の主人公は男の子ばっかりなんだろう?
そんな思いを持つ人が増えて、昔話や絵本、児童文学の世界が近年、変わりつつある。
その発信者の一人が、作家の中脇初枝さんだ。
「小さい頃から絵本をよく読んでいて、日本の昔話の主人公って男の子ばっかりだなと思っていました」という。桃太郎、浦島太郎、一寸法師……。「不思議に思いながらも、無批判に、そのことを当然のことと受けとめていました」と振り返る。
中脇さんは小説の執筆だけでなく、昔話の研究と語り、そして再話をライフワークとしている。あるとき、大手出版社の昔話絵本シリーズを調べた。すると女性が主人公の昔話絵本は、24冊中たった2冊だったという。
「昔話の男女格差をなくしたい」という思いから、2012年、『女の子の昔話』(偕成社)を出版した。日本の昔話の中から、女の子からおばあさんまで、女性が自分の力で人生を切り開くお話を集めた本だ。当時は「女の子向けのキラキラしたお話を集めた本なのか」と、コンセプトそのものを誤解されたことも。
しかし昨春(2023年)、同じ偕成社から『世界の女の子の昔話』を出版すると、大きな反響があった。「確実に時代が変化していると感じます」(中脇さん)
この本で知ったのは、「したきりすずめ」ひとつとっても、地域で伝承される話が異なること。私が幼いころ読んだ絵本は、心優しいおじいさんと、強欲なおばあさんが登場する。ところが青森や秋田、新潟などでは「良いおばあさんと、悪いおじいさん」という逆バージョンで伝えられているのだという。
思えば、自分の読んできたほかの昔話でも「悪いおばあさん」の方が多く登場する気がする。どうしてそうなっちゃうんだろう。
読書会に参加して気づいた、いくつかのこと
背景を知りたくて、昨春、『世界の女の子の昔話』を読む読書会に参加させてもらった。
おとぎ話を研究する神奈川大の村井まや子教授が主催。専門家だけでなく一般の読者も参加していた。
そこで知ったのは、昔話が変容した歴史だ。中脇さんによると、中世には女性が主人公のお話はかなりあったという。語り手にも大勢の女性がいた。だが、昔話の普及においては、出版された本と教科書の影響が大きい。昔話について論じた江戸時代後期の本では、取り上げられている昔話の主人公は全て男性か動物だった。明治以降の教科書でも男性が主人公の昔話が取り上げられることが多かったという。それには出版の現場が男性で占められていたことが影響したのではないか、と中脇さんは推測する。
だから、有名な昔話は男の子が活躍する話ばかりという事態になったのか、と納得した。
勇壮な男の子に自己投影しにくいのは女性だけではない。
生まれた時に割り当てられた性別や、異性愛に違和感がある子もいる。
参加者の中で、性的少数者の文化を研究しているという男性は「ここに集められた女の子が主人公の昔話は、男性が活躍する〈王道の物語〉に自己投影しづらい人間でも共感しやすい。ジェンダーやセクシュアリティの問題に悩む子どもに届けたい」と語った。
さらに、もうひとつの大事なことに気づいた。
『世界の女の子の昔話』の本に登場する女の子が「美しくて善良、勤勉で賢い」だけじゃない、ということに。
年代も職業もさまざまな女性の参加者が、口々に「このお話が一番!」「開放感がたまらない」と絶賛したのは、「くいしんぼうのなまけもの」というスペインのお話だ。
主人公は家事もせず大食いで、母親に怒られてばかりの娘。だが偶然通りかかった騎士と結婚し、一生幸せに暮らす。本人は一切努力しないところがミソ。窮地に陥ると、近所の人や妖精が助けてくれるからだ(なんてうらやましい……)。
たしかに、「ものぐさ太郎」や「三年寝太郎」は読んだことがあるが、「ものぐさ花子」とか「三年寝花子」の話は聞いたことがない。
「女の美徳」とやらに振り回されて
世界を見渡せば、たとえばディズニーは女性や非西洋圏の人々を主人公にした映画を次々と公開している。さまざまな属性の子が自分を投影しやすく、自己肯定感や夢を持てるようにする配慮だと思う。だが、やっぱりたいていの主人公は容姿が美しかったり性格が良かったりと、特別感がハンパない。
顔やスタイルが「すてき」じゃなくても、誰かの役に立たなくてもいい。
作家の柚木麻子さんが、最近刊行した児童文学『マリはすてきじゃない魔女』(エトセトラブックス)からは、そんなメッセージが伝わってくる。11歳の魔女、マリは食いしん坊で、何よりも自分が大好き。他人の顔色をうかがわず、自由に生きている。
作中では、「すてきな魔女」を目指したために、魔女全体が力を失っていった歴史も描かれる。魔女たちは弾圧されないように、「人間の役に立つ」ことばかり考えるうちに、自分の意思や自信を失ってしまったのだ。
何かに似ている。そうだ、「女の美徳」だ。良妻賢母たるもの、常に男性より控えめに、男性を引き立て支えましょう。もちろん容姿も大事です…。
そもそも日本人は、性別にかかわらず自己肯定感が低いといわれる。「いい子じゃなければダメだ」と、子どものころから言われ続けるせいかもしれない。
自分が何をしたいか、ではなく、何をしたら周囲に気に入られるか。他人の評価を物差しにすると、減点主義になってしまい、自分を好きになるのは難しい。
ましてやルッキズムの呪いに縛られ、脇役を強いられがちな女性は…と思う。
“超人”として生きる必要はどこにもない
かつての政権が打ち出した「女性が輝く社会」「女性活躍」という言葉にモヤッとしたのは、家事・育児・介護の負担が女性に偏る現状や、男女の賃金格差は放置したままで、「バリバリ仕事してね」と言われる気がしたからだった。そんな超人になるなんて、無理ゲーでしかない。
前出の中脇さんは、Z世代である身近な読者の女の子に、「女の子だからって、何かにならなくてもいいよね」と言われてハッとしたという。
少しずつ、でも確実に社会は変化している。だからこんなふうに思うようになった、と教えてくれた。
「女の子は何にでもなれるし、何にもならなくていい」
出田阿生(いでた・あお)
新聞記者。1974年東京生まれ。小学校時代は長崎の漁村でも暮らす。愛知、埼玉県の地方支局を経て、東京で司法担当、多様なニュースを特集する「こちら特報部」という面や文化面を担当し、現在は再び埼玉で勤務中。「立派なおじさん記者」を目指した己の愚行に気づき、ここ10年はジェンダー問題が日々の関心事に。「不惑」の年代で惑いまくりつつ(おそらく死ぬまで)、いっそ面白がるしかないと開き直りました。
連載一覧
- 第1回 立派な「男」になろうとしていた私
- 第2回 被害者の声を聞く…それはフラワーデモから始まった
- 第3回 家父長制クソ食らえ
- 第4回 祖母の死とケア労働
- 第5回 「水着撮影会」問題を自分事として考える
- 第6回 ”何かになること”を押しつけられない社会へ
- 第7回 日本社会が認めたがらない言葉「フェミサイド」
- 第8回 アフターピルの市販化を阻むものは何か?
- 第9回 日本人女性の7割がその存在を知らない「中絶薬」
- 第10回 「社会はそんなに不公正ではない」と思いたい人たち
(イラスト 安里貴志)