普段着としての名著【第5回】選挙をめぐるあれこれと『近代人の自由と古代人の自由』|室越龍之介

人気ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」でパーソナリティーと調査を担当していた室越龍之介さん。
コテンを退社した現在はライターとしても活躍する彼が、その豊富な知識と経験を活かして、本連載では、とっつきにくい印象のある「名著」を、ぐいぐいと私たちの日常まで引き寄せてくれます。
さあ、日々の生活に気づきと潤いを与えてくれるものとして、「名著」を一緒に体験しましょう!

【第5回】選挙をめぐるあれこれと『近代人の自由と古代人の自由』

「ハック」という時代精神

2024年は選挙イヤーであった。

七夕には東京都知事選挙が行われ、10月には衆議院選挙。海の向こうアメリカも大統領選挙の年で、選挙戦の模様が連日報道された。

選挙を巡るあれこれの出来事は世相を表しているのであろう。

都知事選では、56人の立候補者が乱立し、候補者ポスターのスペースを広告に転売するなど、システムをハックした振る舞いがみられた。有力候補者の中には、YouTubeやTikTokなどでショート動画を作成し機運の醸成を図る者も出た。よく言われることだが、こういったSNSや動画プラットフォームのコンテンツ制作や再生アルゴリズムには、人間がよりたくさんの動画を見たくなるような仕掛けが施されている。さらには、人間は大量に浴びた情報をある程度本当のことだと判断してしまう認知バイアスがある。つまり、一度特定の候補者の動画を見てしまうと、似たような動画がたくさん表示されるようになり、それらの似た動画を見ることでその候補者が言っていることが本当のことだと感じるようになってしまう。こうした手法はまさに人間の認知システムをハックするものだと言えるだろう。

つまり、今日の世相は「ハック」だ。

ルールやシステムの隙を突き、自分たちが得をするように振る舞うことが良いことだとされている。

こう言われても、あまりおかしなことだとは思わないかもしれない。

ルールに穴があれば突けば良い、それが普通のことのように思える

個々人の目線で見れば、確かにそれが最適解である場合もある。少ないリスクとコストで多くのリターンが短期的に得られるのだから。

けれども、少し俯瞰して見るとどうやらそうでもないようだ。

例えば、こういう状況を考えてみよう。

小学校では、放課後、数人の班が残って掃除をやらなければならないとする。ただ、掃除しているかどうかを監視している先生もいなければ、掃除後の成果をチェックすることもしない。掃除当番の順番は生徒たちが主体的に決めている。

こういう状況では、誰かがどうしても帰らなければならないとき、班のメンバーがそれをカバーしてあげることがありうる。班全員が難しいのであれば、別の班と交渉して交代することもできるし、当番表を作成するときにあらかじめ、忙しい時期に掃除当番を避けることもできる。

だが、監視やチェックがないのを良いことに掃除をサボったり、特定の班やメンバーに仕事を押し付けたりといったことが横行するかもしれない。より悪い事例だと掃除当番のやりくりで金儲けをし始めるやつがいるかもしれない(みなさん、小学校の同級生の中にも商売を始めて先生に叱られていたやつが一人や二人いらっしゃるでしょう)。

そうすると、ルールは厳格化する。先生の監視やチェックが恒常化し、誰も逃げられなくなる。システムの余白が失われ、家族行事でどうしても帰らなければいけないとき、友達とではなく、先生と交渉する必要に駆られるようになる。

全員が厳格なルールとその運用にコストを支払う羽目になる。

その穴を突いた人々の尻拭いために。

つまり、システムのハックは短期的な視点では個々人にリターンをもたらすが、長期的にはシステム全体にダメージを与える。

手に余る「自分自身」

システムのハックはみんなにとってよくない。

人間の認知システムのハックはそれに輪をかけてよくない。

近代の社会は良くも悪くも「自分自身」であることを個々人に要求してくる。責任も成果も「自分自身」である個人に返ってくる。自分で考えて、自分で判断するからこそ、その結果が良くても悪くても自分で引き受ける。少なくともそういう建前で近代社会は作られている。

誰かのアドバイスで投資をして、失敗してもその人が損害を穴埋めしてくれるわけではない。その代わり、誰かのアドバイスで投資をして、成功してもその人に儲けを分けなくてもよい。

自分自身であることはとても大切なことになっている。

だけれども、「自分自身」であるのは難しい。

例えば、僕たちは言葉を使って考えたり、コミュニケーションをしたりするけれども、生まれながらにして言葉を使えるわけではない。周りの人たちとの関わりの中でだんだんと言葉を習得していく。すると、言葉を通して、考え方が似てきたり、振る舞いが似てきたりすることがある。

食事をする前に必ず「いただきます」と挨拶する家庭で育てばそれが当たり前になる。「いただきます」という言葉に含まれた感謝の気持ちや人と人のつながりを想像する習慣は、その言葉と行為を通して、自分の中に根付いていく。

すると「自分自身」が初めから自分の内部に存在する固有のもの、というより、むしろ人々との繋がりの中で形成されていく側面があることがわかってくる。

そうすると、特定のコンテンツを通して考えたり、理解したりすることはむしろ人間にとって固有の営みであって、何ら批判されるものではない、といった見方もできる。

それは、その通りだ。

一方で、認知科学やエンターテイメントに対する人々の追求心は、一定の刺激で人間の感情や認知をある程度コントロールできるという事実を人間に気がつかせた。例えば、僕たちはアルコールやニコチンといった刺激に弱い。快楽を繰り返し刺激されるとその刺激の中毒になってしまう。「報酬系」と呼ばれるような脳内の神経系が刺激されるとそれが何であれハマってしまうのだ。刺激物が性行為の人もいれば、食事の人もいるし、薬物の人もいれば、ギャンブルの人もいる。

よく言われていることではあるが、SNSもそういった報酬系を刺激するような仕組みになっているらしい。僕たちは、SNSで常に流れてくる情報に反応し、それに依存してしまう。

つまり、自分で考えたり判断したりするのではなく、メッセージの発信者やコンテンツの制作者の誘導に乗る形で、考えさせられたり、判断させられたりするようになる。それはつまり、僕たちは「自分自身」という得難いものを手放すかわりに快楽を得ていることになる。

「自分自身」であることも難しいのに、それを容易に手放してしまう。そして、手放すための誘惑がとても多いのが今の社会だと言える。

自分自身であることの自由と『近代人の自由と古代人の自由』

さて、「自分自身」であることの困難と大切さを説いた人物がいる。

バンジャマン・コンスタンだ。

政治思想に詳しい方ならご存知なのではないかと思うが、一般にはあまり知られていない人物だろう。ナポレオンと同時代の人で自由主義思想家として名高い。

コンスタンは長くナポレオンに敵対していたのだが、ナポレオンが戦争に敗れて皇帝から退位させられ、追放されたのちに再度パリに帰還するとその政府に加わった。政府ではナポレオンの顧問として、立憲主義に基づく新憲法草案を起草したとされる。

こう書くと、ナポレオンに敵対したり、近づいたり定見のないチャランポランな人物のように聞こえるかもしれない。実際、当時の彼には「風見鶏コンスタン(コンスタン・ランコンスタン)」なるあだ名がつけられていたそうだ。

しかし、コンスタンはその振る舞いほどに不定見だったわけではない。彼には「自由主義」の堅持という一貫した態度があった。立憲主義、つまり憲法に基づいて政治を行い、国民の権利を守り、政府の権力を制限するという考え方も変わっていなかった。言論及び出版の自由、権力の制限、恣意的支配の排除を繰り返し求め、人民の主権と人権を擁護した。

ナポレオンの方が窮地の中、コンスタンの自由主義に助力を求めたわけだ。コンスタンは、世紀の傑物を前に、自由主義がフランスの制度として現実に現れることに賭けて政府に参画した。その賭けはナポレオンが再度追放されたことによって、結果として失敗したに過ぎない。

政治家としての一世一代の賭けには敗れたかもしれない。だが、彼の考えは論文や書籍として後世に強い影響を与えた。特に「自由」を考えるときに外してはならない思想家となった。

「自由」という概念に今も影響を与える業績。その論文が『近代人の自由と古代人の自由』だ。

この論文の骨子はそれ自体が面白い。

僕が考えるにコンスタンはこういうことを言っている。

近代で大事にされていることと、古代で大事されていることは違う。だけども、最近(19世紀初頭)の人々は盛んに「古代人はこうだった」「古代人はああだった」といった話をして、「我々も古代人のように振る舞うべき」と主張する。だが、それは誤りだ。近代では近代の時代で大事されていることに基づいて振る舞うべきだ。古代人には古代の時代にあった自由があり、近代には近代の時代にあった自由がある。これを混同したり、履き違えたりしてはいけない。

なるほど、面白い話だ。

そもそも、ヨーロッパにおいては、人間には「理性」があり、この「理性」に基づいて万事やっていくのが良いとする発想が生まれたことで近代のそして、「人間には理性がある」という考えは、古代ギリシアや古代ローマの歴史や哲学や芸術を知ることで発展してきた。従って、「古代のやり方」が優れていて正しい、といった説明はある種の妥当性があるように当時は感じられたのだろうし、今でも「妥当だ」と考える人たちもいるだろう。

だが、実際には古代ギリシアの民主制や古代ローマの共和制とフランス革命以後に登場した議員代表制を軸とした民主主義体制は似ているようで全く違う。

コンスタンの論文では、この全く違うものを同じものと扱うことにより、「古代」を標準化していくことの危険性について指摘するとともに、近代において僕たちが追求すべき「自由」について論じられている。

古代の戦争と近代の商業

「その時代で大切にしていること」をコンスタンは時代精神という言葉を使って表現する。時代精神とは、その時代に支配的な精神的傾向のことを指す言葉だ。つまり、「その時代のバイブス」なのではないかと思う。

コンスタンは、近代人はその時代精神に基づいて商業を好み、古代人は戦争を好むと指摘し、この二つは同じことの二つの表現だと主張する。

「戦争と商業は、望みのものを手にいれるという同一の目的を実現する二つの方法に他ならない」

目的を達成する手段として、古代人は戦争を好み、近代人は商業を好む。そして、その違いは二つの時代の時代精神の違いによるものらしい。

近代の時代精神では平和を志向し、私的幸福つまり快楽を追求し、それを可能にする個人的自由を重視する。

これに対して、古代の時代精神では、戦闘が常態化している社会だったので、暴力的な手段も高貴な人格を醸成する有益な手段と考えられた。また、国家規模も小さいので政治に直接参加することが可能であり、集団として決定を下す行為から充足感も得られる。なので、集団的利益のために個人的利益を犠牲にすることも厭わない傾向があった。

つまり、こういうことだ。

近代では、戦争は割に合わない。「欲しいもの」があったとして、それを巡って争っていては、手に入るかどうか、は常に一か八かになってしまう。なので、戦争をするより、相手がどのような考えを持っていて、どのようなものを欲しがるか、を読み取り、そのニーズに基づいて計画を立てた方が「欲しいもの」が手に入りやすい。すると、平和を好むのようになる。戦争は強制的にギャンブルの世界に引き込まれるようなもので危険だ。もっと穏当に計画に基づいた方が望みは達成しやすいと考えるようになるからだ。

そういう社会では、個人個人が「何が欲しいのか」を明確に知り、それを追求することが大切になる。そして、それを追求することを何者にも邪魔されないことが大切だ。

近代人にはこうした自分自身の幸福を追い求める自由が必要になる。

一方、古代人は、日々命のやり取りになる。「欲しいもの」を手にいれるためには、一か八か賭けるしかない世界だ。そうなってくると、国家が誰と戦争するか、いつ戦争するのかといった事柄がとても大事な決定になる。なので、このような政治的意思決定に参加することが必要な自由になる。

コンスタンが危険視するのは、ここだ。

政治的意思決定に参加したり、そこで決定されることを受け入れたりすることは個人にとっては不利益かもしれない。でも、古代人はそれを引き受ける。だが、それは近代人の時代精神には合わない。近代人にとっては、自分自身の幸福を追い求めることが大切だからだ。

だから、コンスタンは「古代の自由」が無批判に近代社会に導入されるのを警戒する。

集団的利益のために、個人的利益を犠牲にしてよい、といった考え方は近代人にとって避けるべき事態だからだ。

例えば、陶片追放。

古代アテネで実施された仕組みで、僭主(せんしゅ)とよばれる抑圧的なリーダーが生まれないように、「僭主になってしまいそうな人物」を投票し、一定の得票を得た人物を国外に追放する。

近代においても「困った人物を社会から排除してしまいたい」気持ちはあるだろう。昨今の状況において、例えばクルド人に代表されるような外国人に対する排斥感情などもそれにあたるだろう。

コンスタンはこれを非難する。近代的な人権の考え方にそぐわないからだ。

「犯した行為に追放刑を定めている合法的な手続きに従って通常裁判所で宣告されたものでもない限り、市民を追放する権利など誰にもありません。市民から祖国を、所有者から土地を、商人から商売を、夫から妻を、父から子を、著述家から学級的施策を、老人からその習慣を奪う権利など何人にもありはしないのです。政治的な理由での追放はすべて政治的な攻撃です。公共の安寧を持ち出して議会で決議される追放は皆、まさしく法を尊重し形式を遵守し補償を維持することにこそ存する公共の安寧に対し、この議会がなす犯罪です」

個人の幸福追求を認め、社会の構成員すべてがそれを認めること、そういった自由が近代人には必要というわけだ。

市民的自由と政治的自由

個人の幸福追求が大事で、そのための自由こそ必要なのだ、という主張を聞くと、人々がやたらめったらなんでもしても良い権利を持つように感じる人もいるかもしれない。

だが、コンスタンが言っていることはそういうことではない。

「なぜ、システムのハックがいけないか」と同じだ。中長期的に社会をめちゃくちゃにしてしまう行為は、いくら近代人といえども自由に含まれるわけではない。

コンスタンは、近代人の自由の中に、市民的自由と政治的自由があると言う。

市民的自由は、これまで述べてきたような個人的幸福追求の自由のことだろう。

では、政治的自由とはなにか?

つまるところ、政治に参加する自由のことだ。だが、単にこう書くと「政治に参加するために個人の自由を犠牲にしてもよい」という古代人の自由と同じことかと思ってしまう。だけれども、コンスタンはそう言っているわけではない。政治的自由とは、個人的権利に基づく政治参加なのだと言う。僕たちが今日持つ、参政権や意見表明をする権利と同じようなものだ。個人的な権利を犠牲にするというより、むしろそれを守るために持つ自由のことだ。

コンスタンはさらに言う。政治的自由はただ個人的幸福追求を守るためだけのものではない。個々の市民が社会共通の価値や利益について思索することを可能にする自由だ。

つまり、政治的自由を持つことの中には、僕たちが社会全体にとって善い方向に向かうようトライする姿勢を持つことがあらかじめ含まれているわけだ。

これには我々が選んだ代表が悪い方向に堕落しないよう監視することも含む。

コンスタンスは言う。

「代表制は、自らの利益は守られてほしいが自ら常時そうするだけの暇は持たない人民の集団が、一定数の人々に与える委任です。しかし愚かでない限り、家令を雇った金持ちは彼らが義務を果たしているか、怠けたり不正を働いたり無能だったりしていないかを注意深く厳しく吟味するはずです。」[3]

「ハック」なき、自分自身としての幸福追求

今日、僕たちの社会には、社会的利益のために一部の人々を排斥しようとする考えが跋扈(ばっこ)している。不逞外国人、障がい者、セクシャルマイノリティなどは言うに及ばず、「有能」とか「優秀」などといった言葉が人間の本質を示す言葉となったことで、「無能」な人間、経済的価値を生まない人間は社会から排斥されて然るべき存在だと見なされるようになってきた。

これはまさに「古代人の自由」の世界だ。

一方で、「不正を働く家令」つまり、我々の代表である政治家を糾弾する主人たち(国民)の意見は、「優秀」な人々から取るに足らないもの、社会の足を引っ張る行為だとして攻撃に晒されている。

まさにコンスタンが批判した社会が到来している。

今こそ「近代人の自由」を思い出す必要があるだろう。

そのために、集団が何を望むかではなく、自分自身が何を望むかを考えることとしよう。

そして、自分の幸福を追求するために、市民的自由と政治的自由を守り、実践していくこととしよう。

それが僕たちの権利と僕たちの社会とを守ることに繋がるであろうから。

編集◉佐藤喬
イラスト◉SUPER POP

室越龍之介(むろこし・りゅうのすけ)

1986年大分県生まれ。人類学者のなりそこね。調査地はキューバ。人文学ゼミ「le Tonneau」主宰。法人向けに人類学的調査や研修を提供。Podcast番組「どうせ死ぬ三人」「のらじお」配信中。

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