血統書がなくても、ブランド犬種ではなくても、こんなにも魅力的で、愛あふれる犬たちがいます。
み~んな、花まる。佐竹茉莉子さんが出会った、犬と人の物語。
保護犬たちの物語【第19話】あい(推定16歳)
秋の終わり、ハッピーたちが暮らす里山に、新入りがやってきた。
(ハッピーの物語は、第4話で)
やってきた犬は、すでに認知症が進行中である推定16歳の雌犬で、名前は「あい」。1年間病に臥せっていた飼い主を亡くしたばかりだった。
迎えたのは、夫の長平さんの協力のもと、里山で長いことミニオートキャンプ場を営んでいた麻里子さん。息子の哲也さんにキャンプ場運営を引き継いで1年、保護犬猫たちの餌代になればと、休業していた敷地内のカフェを再開してまだ間もない。
あいの目はまだ見えるようだが、耳はほとんど聞こえない。認知症の犬特有の無表情で、狭い空間だと際限なくグルグルと回り続ける。失禁もあるので、室内ではハッピー同様オムツをあてがっている。
だが、広い里山の空の下では、ぶつかることなく、緩い坂道をまっすぐに上り下りする。その足取りは、まるで野外遠足に来てはしゃぐ幼稚園児のようなスキップである。
認知症ゆえのフワフワしたスキップなのだが、麻里子さんには彼女の心の弾みに思えて、うれしい。
キャンプ場には猫が約20匹。犬は、もうすぐ21歳になるハッピー、その娘で18歳のカナ、そして、ちょっと長毛の13歳のサブがいる。
猫たちは日中は敷地内の里山を駆け回り、夕方から朝までは2グループに分かれて頑丈な猫小屋で過ごす。年老いた猫や共同生活になじめない猫は麻里子さんたちの自宅スペースで暮らしている。
老犬たちは室内飼いだが、キャンプ場がすいていて前庭が広々使えるお天気の日には、みんなでひなたぼっこを楽しむ。猫たちは心得たもので、おじいちゃんおばあちゃんの邪魔にならないよう、そばで遊んでいる。
犬も猫も、みんなお日さまの下と、土の上が大好きだ。大地の匂いをクンクン嗅ぎながら、犬たちがうつむいてスローモーにうろつく風景は、羊が放牧されている牧場のようにのどかで平和そのものだ。老犬たちの居場所確認や健康チェック、オムツ交換など、麻里子さんの気配りは一日じゅう絶え間がないのだが。
「見えなかったり聞こえなかったりの老犬がうつむいて行ったり来たりしているのに、お互いにぶつかることもなく、うまぁく行く手を譲り合っているのはほんとにすごいと思う。テレパシーで交信しているみたい」と、麻里子さんはおかしそうに笑う。水を飲むのも、ちゃんと順番を待っている。4匹の中で唯一認知症の始まっていない13歳のサブが、新入りのあいが歩き出すと、心配そうにあとをついていくのが頼もしい。犬も猫も、順送りにより弱い立場の仲間を思いやって生きているのを、麻里子さんはこの里山で長いこと見続けてきた。
あいは、カフェの古い客であるHさんの飼い犬だった。
Hさんは、レストランのシェフだったが、自分で持った店の経営に失敗して妻と別れ、息子たちとも遠のいたと聞いた。カフェに通い出したころは、風貌も人付き合いもまさに「世捨て人」だった。「犬を飼って里山でこんな生活がしたい」と口にしていた。
やがて、オンボロの軽自動車の助手席に子犬を乗せてやってくるようになった。どこかからもらってきたあいという雌犬で、里山を一緒に楽しそうに走り回った。あいは、Hさんにとって心許せる話し相手であり、散歩友だちでもあったのだろう。どれほど可愛がられているかは、あいの顔を見れば分かった。
キャンプ場で開くイベントの際に 何度かピザの調理を任せたことがあった。生き生きと厨房に立ち、焼きあがったピザを配って客に「おいしい、おいしい」と言ってもらっているHさんの笑顔は、うれしそうに輝いていた。
また、キャンプ場で出るごみの後始末も、じつにテキパキと引き受けてくれた。
足腰の具合がよくないと言っていたHさんだったが、そのうち、ぱったり来なくなった。足腰が悪くなったのか、オンボロ車が壊れてしまったのかは、麻里子さんにはわからなかった。そして、何年も何年も過ぎたある日、電話がかかってきた。
Hさんの息子と名乗る声は言った。「親父が倒れまして、まったく動けない」
麻里子さんは病院へ駆けつけたが、Hさんの容体はかなり悪いように見えた。
Hさんは自宅療養することになり、これまで疎遠だった息子さんがそばで面倒を見始めた。あいの散歩も息子さんがしていたようだったが、以前のように里山を走り回るという時間は、あいにはなくなったに違いない。
1年たった頃、ずっと気にかけていた麻里子さんに、息子さんから電話がかかってきた。
「親父が亡くなりました。お世話になりました」
息子さんは、東京に戻るので犬は飼えないと言った。
夫の長平さんの機嫌のいいときを見計らって、麻里子さんは切り出した。「あいちゃんを引き取ろうと思うの」。長平さんの答えはこうだった。「うち以外、あの子には行くところがないじゃないか」
息子さんの話では「10歳くらい」ということだったが、やってきたあいはすっかり無表情な老犬になっていて、見るからの認知症犬だった。手渡された犬の登録書類の日付は15年前だった。よく考えてみれば、Hさんがあいを初めて連れてきたのは15年くらい前だった気がする。Hさんが登録手続きをしたときはもう成犬だったことも考えられ、16歳は過ぎているかもと思ったが、何の不安も後悔もなかったという。
「ヨレヨレだって認知症だって、あいちゃんは昔と同じようにとっても可愛いかったの。手間はかかるでしょうけど、可愛い犬が、3匹が4匹になっただけと思えばいいかなと」
あいは先住犬猫たちに受け入れられて、すぐにここでの生活に順応した。4匹で布団を並べて寝ていても、あいは夜中に起きてひとりで徘徊し始める。それがサブの気に障って、う~と唸られたりもするが、気にするふうでもない。老犬たちは、ギスギスやトゲトゲと無縁の決まりごとのない自由世界を生きているのだ。
カフェは週に4日。主になじみ客がやってきて、のんびりとここで時を過ごす。それぞれの犬たちのいきさつも知っているなじみ客が多いので、カフェ内で老犬たちがウロウロする「老犬カフェ」の様相を呈しても、みなやさしく声をかける。猫たちも、「おじいちゃん犬がふえた?」と、さして気にせず、ストーブの周りでいっしょにまったりしている。
麻里子さんの手元には、客のひとりであったに過ぎなかったHさんの写真もなければ、あいちゃんの若い頃の写真もない。けれど、Hさんがあいちゃんと一緒にやってくるときの、くしゃくしゃっとした笑顔は鮮明に覚えている。
あいがやってきた直後の連休のとき。店がたてこんでオムレツランチの注文が次から次へと入った時間帯があった。作るのも運ぶのも麻里子さんひとりのカフェである。その時、麻里子さんは不思議な体験をしたという。
「私はすごく不器用だから、いつもだったらパニックになってしまうのに、なぜか楽しくスイスイこなせたの。まるで、Hさんが肩の上にちょこんと乗って『はい、卵』『はい、塩』って指示してくれてるようだった」
今年のクリスマスも、犬猫みんなで元気に迎えられた。
クリスマスの前日には、Hさんの息子さんと娘さんが、オムツやペットシート、そしてHさんが聴いていたというジャズのレコード盤をたくさん持ってきてくれた。ふたりとも、あいの穏やかな顔を見て喜び、「太った」と笑った。「今度は2月に会いに来るね」と、ふたりはあいの頭を撫でて帰っていった。
一日一日と里山は寒さを増すが、空気はすがすがしく、空は青い。
あいをそっと抱き上げると、命のあたたかさが手にずっしりと伝わってくる。その瞳に青空のカケラが映って、あいはあどけない笑顔になっている。空の上に、自分を可愛がってくれた元の飼い主がいることを知っているかのように。
麻里子さんは、瞬時に確信した。ああ、犬たちは、老いても認知症になっても、すべてを理解して受け入れ、命の限りを生きているのだと。彼らの老いていく姿は、自分たち夫婦のこれからの指針となってくれるだろう。
「Hさん、見てる? あいちゃんはすっかりここの子になって、毎日元気に過ごしてますよ。安心してくださいね。Hさんに可愛がられていた頃のあいちゃんのライフスタイルを引き継げてよかった。私たちも犬たちも猫たちも、みんないっしょにゆっくりと年を取っていきますからね~」
あいは、ぴょこんぴょこんと尻尾を振っている。降り注ぐ光のなか、くしゃくしゃと笑うHさんの顔が麻里子さんには見えた。
佐竹茉莉子
フリーランスのライター。路地や漁村歩きが好き。おもに町々で出会った猫たちと寄り添う人たちとの物語を文と写真で発信している。写真は自己流。保護猫の取材を通して出会った保護犬たちも多い。著書に『猫は奇跡』『猫との約束』『寄りそう猫』『里山の子、さっちゃん』(すべて辰巳出版)など。朝日新聞WEBサイトsippo「猫のいる風景」、フェリシモ猫部「道ばた猫日記」の連載のほか、猫専門誌『猫びより』(辰巳出版)などで執筆多数。
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