血統書がなくても、ブランド犬種ではなくても、こんなにも魅力的で、愛あふれる犬たちがいます。
み~んな、花まる。佐竹茉莉子さんが出会った、犬と人の物語。
保護犬たちの物語【第17話】ジャック(3歳)
今日は休日。近くにある小さな森の中を、ジャックとルーニーは思う存分歩き回った。2頭は風のなか、草の上、自然の音や匂いが大好きだ。幼い頃に野犬ファミリーで過ごした山での記憶が体内に残っているのだろう。だから、あやさんは、勤めのある平日でも、早朝に1時間半、帰宅後に1時間半の散歩を欠かさない。
「お母さん、楽しいね」
ふと足を止めたジャックがうれしげにあやさんを見上げれば、ルーニーも同じように笑顔で見上げる。
愛しい子たち。この子たちを迎えて、ほんとうによかったとあやさんは思う。
初めての犬、ジャックを迎えたあの日からあやさんの人生は一変した。出口の見えない真っ暗なトンネルの日々も通り過ぎた。この子たちと一緒に全身で感じる風はなんて心地よいのだろう。
あやさんは7年ほど前に人生設計を立てた。この先、楽しみを見つけながらひとりでも生きられるように。故郷の福島で再婚している母とは、長いこと離れて暮らしていた。さいわい、仕事は安定している。いろいろな国へ一人旅もした。いよいよ、小さい時からの念願だった「犬と暮らす」夢を実現しよう!
譲渡先募集のサイトに目を通し始めた。どこも「単身者不可」とあったが、ショップで命を購入するのは嫌だった。探し続けていると、「単身者可」のページで、黒い子犬の写真に目が吸い寄せられた。何かを訴えるような目をしていた。「この子だわ!」と思った。預かり主は、野犬の子たちを保護し譲渡に繋げている個人シェルターだった。すぐさま、メッセージ欄に、どれほど犬と暮らしたいか、どれほどその覚悟があるかを長文で熱く書き綴った。
センターでは、人間への強い恐怖のあまり「攻撃性のある噛み犬」とされていた野犬の子だった。引き出した紗由里さんのシェルターでは、先輩犬や猫たちに囲まれての合宿の中で一歩ずつ心を開いていた。野犬の子が、人と暮らすのは初めての怖いことだらけ。散歩に行けるようになるまで、どれほどの葛藤と勇気を必要としたことか。譲渡募集をかけると申し出が多かったが、綿々と綴られたあやさんのメッセージにほだされた紗由里さんは、お見合いを設定する。
あやさんが会いに行くと、その子は、シェルターの犬や猫たちとわらわらにぎやかに暮らしていたが、見知らぬ人間にビビッて、ソファーの下に隠れてしまった。そんな姿も、あやさんには愛おしくてたまらなかった。
子犬はあやさんの家族となり、「ジャック」と名付けられた。ジャックとの楽しき日々のために四輪駆動の車も買った。
だが、それは、「出口のないトンネル」「生き地獄」とまで思える日々の始まりだった。
勤めを終えて、ジャックの待つ家に帰るあやさんの心は、今日もどんより重かった。恐る恐るドアを開ける。ああ、今日もまたすさまじい光景が待ち受けている。
倒れた椅子。どこかから引っ張り出してきた衣類。咬みちぎられたマット。クッションの中身もズタズタ。コードまでがかじられている。いたるところに糞尿があり、その上を歩き回ったジャックの脚も糞尿にまみれている。当のジャックは「見て見て!今日はこんなことをしたよ」とばかり、尻尾を振って出迎える。
クラクラとしながら、2時間かけて部屋じゅうを大掃除する毎日が続く。その徒労感といったら。
「帰宅するのが嫌でした。でも、ジャックは可愛い。頭の中が混乱してノイローゼ状態でしたね」と、あやさんは言う。
紗由里さんは、いつでも親身に相談に乗ってくれた。「しでかしてから時間が経ったことを犬に叱っても意味なし」「今は、やんちゃが楽しくてたまらない子犬の時期」「犬をサークルで囲うのではなく、壊されたくないものを囲ってしまおう」と言うが、そんなふうにおおらかに見守れないほど、あやさんは追い詰められていった。ドアを開ける前に、犬の目線で飼い主へのお願いを綴った「犬の十戒」をそらんじてもみた。だが、どう防いでも破壊し尽くされる光景を間にするたび、暗たんたる気持ちになった。
「この子は山にこっそり返した方がいいのでは」という思いまで脳裏をかすめた。もちろんそんなことはできないし、シェルターに返す気持ちもない。家族に決めた子だし、可愛くてたまらないのだ。寝ているときは天使だった。
ジャックを連れて、あやさんは紗由里さんに相談に行った。
じっくり話を聞いた後、紗由里さんは「いつでも、うちで預かり直すことはできるよ」と言い、手離せないというあやさんにこう提案した。「もう1匹、飼うか」
「ああ、そうしようと、ストンと思いましたね。破壊が2倍になるという予想は、不思議になかった(笑)」と、あやさんは振り返る。
シェルターには、保護されて間もない幼い野犬兄弟のケロとルーニーがいた。
ジャックにもあやさんにも、駆け寄ってあいさつしたのはケロだった。ルーニーは、おびえて固まっていた。ジャックは、一歩が踏み出せないルーニーのクレートに入って寄り添った。怖がりには、怖がりの気持ちがよくわかるのかもしれない。そして、紗由里さんがジャックの相棒にと勧めたのは、ルーニーのほうだった。
「ジャックの破壊は、お留守番がさびしいから気持ちを紛らわせていただけなので、元気なケロではなく、慎重派のルーニーを相棒とした方がバランスがとれるはず」と、紗由里さんは確信していた。
ジャックを迎えた3か月後の春に、ルーニーはやってきた。
「走らない、遊ばない、感情があまりない。ジャックに比べると、ないない尽くしの子犬に見えました」と、あやさんは振り返る。
ルーニーは、捕獲体験がよほどの恐怖だったのだろう。人工的な「音」に恐れおののいた。当然、町なかのいろいろな音が耳に入ってくる散歩も怖い。だが、ジャックお兄ちゃんのことが大好きなので、くっついていたくて、一歩一歩懸命に新しいことへのチャレンジに踏み出していく。ルーニーもソファーをかじったりしたが、ジャックに比べたら破壊度は大したことはなく、「子犬なら当然」と、あやさんは思えるようになっていた。
その頃には、ジャックの破壊は収まっていたし、ルーニーの表情もどんどん豊かになっていった。
5月に、福島から両親が遊びに来た。義父はしばらくして帰ったが、母は「もう1週間」「もう1週間」と、夏まで居残った。ジャックとルーニーが可愛くて離れがたくなったのだ。昔は保育園の先生だった母は、「可愛い可愛いジャックちゃん~~」「ルーちゃん、元気にシッポ振って~~」などと即興で犬たちに歌って聞かせている。母も犬たちもそれは楽しそうだ。
「ここは狭くて暑いから、家を買って、みんなで一緒に暮らそうか」という言葉が、自然にあやさんの口から出た。犬を迎える前には考えられない発想だった。
いま、ジャックは3歳、ルーニーは2歳半になった。広いリビングのある新しい家は快適だ。
シェパードの風格を思わせるルーニーが、大きさではジャックを追い越してどっしりしているが、あやさんの母に言わせれば「ジャックと比べたら、まだまだお子ちゃま」だ。ジャックは穏やかで心優しく、人間の言葉をよく理解し、人間社会にかなり適応して暮らしている。ルーニーは、いまだ人間社会が怖いところがあって用心深く、動物としての野生や賢さが色濃い。
「今度の休みは、みんなでどこに行こうか」などと話していると、言葉のわかるジャックは、嬉しそうにシッポを振る。そう、お出かけは四輪駆動車でいつも家族全員一緒だ。行先は、犬OKで、犬たちが喜びそうなところだ。母の古希記念旅では、信州の犬OKのホテルに泊まった。男性が怖かったジャックたちも、穏やかな義父に少しずつ馴れてきたところだ。
あやさんが、会社に行く前と帰宅してから、それぞれ1時間半ずつ犬たちとの散歩の時間が持てるのも、母が家事全般を引き受けてくれているおかげだ。両親が家にいてくれるから、犬たちの気持ちも安定して楽しそうだ。
全てがまあるく収まった、今の暮らしである。
一歩踏み出すことで、人生の風景はガラッと変わっていく。あやさんも、両親も、そうした。ジャックだって、ルーニーだって、そうだった。あやさんにとって、両親もジャックとルーニーも、寄り添い合う「家族」であり、これからの暮らしを一緒に踏み固めていく楽しき「同志」である。
今日も、散歩中に出会ったご近所さんから、「ほんとにいい子たちねえ」と言われた。「さんざんやらかした子」にはとうてい見えないらしい。あやさんは、笑顔で「はい!」と答える。あのやんちゃ時代も、この子たちの大事な成長過程。今となっては愛おしい。
佐竹茉莉子
フリーランスのライター。路地や漁村歩きが好き。おもに町々で出会った猫たちと寄り添う人たちとの物語を文と写真で発信している。写真は自己流。保護猫の取材を通して出会った保護犬たちも多い。著書に『猫は奇跡』『猫との約束』『寄りそう猫』『里山の子、さっちゃん』(すべて辰巳出版)など。朝日新聞WEBサイトsippo「猫のいる風景」、フェリシモ猫部「道ばた猫日記」の連載のほか、猫専門誌『猫びより』(辰巳出版)などで執筆多数。
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